水面に広がる愛の言葉
俺とが出会ったのはお互いに6歳の時だった。貴族階級である一方で、医学に長ける父の仕事を勉強するために、彼女が禁城について来たのが俺たちの物語の始まり。
6歳、白蓮様と呼ばれ、と呼ぶ。7歳、この頃になればとっくに仲良くなり一緒に遊ぶようになった。8歳、白蓮様ではなく白蓮と呼べと約束させた。9歳、俺たちはとっくに親友だった。10歳、が父親に付き添われながらも俺の主治医となった。11歳、少しずつ身体の仕組みが変わり始めた。の方が先に背が高くなって何だかムカつく。12歳、もう俺の方が背は高い。初陣で勝利を治めたのに、が泣いた。13歳、初めて女というものを抱いた。とは全然違う。14歳、最近はあまり話さなくなった。15歳、は俺のことを白蓮様と呼びだした。何でだ、気に食わない。16歳、もう必要最低限の会話しかしなくなった。だけど、彼女とは毎朝顔を合わせる。17歳、俺たちはただの主従関係になった。悲しい。18歳、漸く気付いた。俺は、彼女のことが好きだったのだ。彼女は俺のことをどう思っているのだろう。19歳――
こんこん、と遠慮がちなノックが聞こえる。これは、彼女のものだ。良いぞと返事をすれば、失礼しますと簡素な着物をまとった彼女が静かに入ってきた。毎朝の日課である健康診断だ。これでも有名な貴族の一人娘だというのに、彼女は飾り気がなく、黒い髪をハーフアップで団子状にまとめて、薄化粧を施しているだけである。着物も、もっと華美な物が――それに俺が彼女の誕生日にあげた水色を基調とした絹の着物だって――ある筈なのに、彼女はまるで女官たちのように落ち着いた色の着物を着ている。それでも、俺にとって彼女は他のどの女よりも可愛らしく見えた。恋をしている俺の欲目だろうか、いや、きっと彼女はもともと器量が良い。
「おはようございます、白蓮様」
「おはよう」
礼をした彼女がすっと目線を下げる。この顔だ、俺の前ではいつも感情を隠したようなすました顔をする。昔は、あんなにも笑って、泣いて喜怒哀楽を表していたというのに。聴診器を用意した彼女に、胸元を曝す。失礼します。そう言って俺の胸に聴診器を当てる彼女に、少し歪に心臓が跳ねる。この音を聞かれただろうか。少し不安に思う一方で、彼女は俺の肌を見ているというのに、顔色一つ変えないその事実が不満だった。仕事としての意識がそうさせるのか、はたまた俺のことを男として見ていないからなのか。
正常ですね。そう言って聴診器を外した彼女はいくつか質問をしていく。どこか異常はないか。夜眠れているか。食欲は普段通りか。そのどれも俺はいつもの仕事として答えた。だけど毎度同じ質問では飽きるというもの。
「御身はいずれ白雄皇子殿下のことを支えるお人になるのですから」
俺の面倒くさがりな気性を見抜いた彼女が、少しばかり眉を下げた俺に言う。そう言われれば、そうだなと返すしかなく。それに、俺は質問内容が常日頃から変わらないことに少しばかり飽きを感じただけであって、こうやって彼女と話せることが面倒なわけではないのだ。寧ろ、毎日この時を待っている。
「では、失礼します」
「あ、おい、待てよ」
仕事が終わり、礼をして彼女が立ち去ろうとするのは普段と変わらない。だけど俺はもう少し彼女と一緒にいたかった。朝のこの時間くらいしか彼女に会えないのだ、もう少しだけ。そう思って彼女の手首を掴んで驚く。
少しでも力を込めれば簡単に折れてしまいそうな細いそれ。よく見れば、彼女は小さく華奢で、いつの間にか女らしい身体つきになっていた。対して俺は身長も高くなり肩幅も広がり筋肉だって付いている。今までにだって彼女と男女の違いを感じることは何度もあったというのに、改めて彼女が女であると思い知った。
「どうされました?」
「あー…散歩しよう」
腕を掴んだは良いが、何も考えていなかった俺は適当にそう言った。そして、相変わらず表情を変えない彼女に不満を感じる。そのすました顔に、どんな感情でも良いから感情を出させたかった。俺の言葉に、分かりましたと彼女は穏やかに微笑む。そんな作った笑顔より、彼女の感情が表れた本当の表情が見たいのに。
私と白蓮は身分が違ったが、それでも仲の良い幼馴染で親友だった。彼は皇族だというのに驕ることをせず、私と対等に接してくれていたから。そんな彼に惹かれるのは必然的だろう。だけど、ある時気付いたのだ。それは、彼が夜伽を課せられるようになってから。あの頃から彼は少しずつ雰囲気が変わった。少しばかり大人の男性のようになったし、目付きも物腰も、仕草もどことなく男を匂わせる。私はそれが怖かった。あんなにいつも一緒に遊んで話してお互いの相談だってするぐらい距離が近かった彼が、私を置いてどこか遠い存在になってしまったようで。そうして私は思い出したのだ。彼が皇族であり、私はただの貴族の娘で彼の主治医だということを。今までがおかしかったのだ。身分不相応にも彼のことを名で呼び、親友などと思っていた。それを反省した。あくまで私は彼の主治医で、彼とは主従関係にある。あるべき関係に戻ろうと思った。そうすることで、この浅ましくも寂しいなどと思ってしまった心を隠せると思ったのだ。
それからは彼に敬称を用いて話し、余計な関わりを持たないようにと態度を改めもした。だけど友達だったという思い出を消したくなくて、服装も女として見られないような簡素なものにした。
彼との関係は徐々に元の主従関係に戻って行った。だけど、何故か私から寂しいという感情がなくなることはない。彼と話せる朝の健康診断が、何よりも大切な時間で、感情を出さないようにするのに必死だった。
煌帝国傘下に入った呉国がクーデターを企てているという情報から、俺は呉国へ向かい彼らの戦力を鎮圧した。呉国の王子が兵と武器を集めて扇動してくれたおかげで、かなりしぶとく抵抗されたが、自分の出来る範囲で臨機応変に対応出来た筈だ。
今はその呉国との戦いから煌帝国への帰路を辿っている。この戦いでも、俺の体調管理を任されたは俺と共についてきた。本当はこんな危険な場所に女を、ましてや彼女を連れてくるのは嫌だったが皇帝からの命だ、逆らえる筈も無い。医師という立場で戦場に出る事は無かったが、怖い思いをさせたかもしれない。そう思ってちらり、と斜め後ろにいる馬上の彼女を盗み見るけれど、彼女はやはり普段通り無表情で。そんな彼女に理由もなく苛立った。
「、戦の間は俺の身を案じてくれたか?」
「勿論です。ですが、白蓮様のお力を信じておりましたから」
少しばかり馬の歩調を落として彼女と並ぶ。彼女の表情を変えたくて、久しぶりにそんな軽口を叩いてみたが、彼女は穏やかに笑うだけだった。どうして、笑う。俺の初陣の際にはあんなにも「危ない所にいかないで」と泣いていたのに。
腹が立つ。どうやったら彼女は俺に本当の表情を向けてくれる。いつから、俺たちはそんな風にすれ違うようになった。ふい、と彼女から顔を逸らして景色を眺めた。丁度今は10メートル程ある崖から下に広がる海が見える。
――海、か。はっとした。
「おい、!見てろよ!」
「白蓮様?」
馬を止まらせ降りた俺のことを彼女が怪訝な顔をして眺める。だが、だっと崖に駆ける俺に、彼女の目が見開かれた。白蓮様、何を。そう彼女の焦った声と、眉を寄せ止めようと腕を伸ばす彼女。そんな彼女に充足感を覚える。ああ、やっと表情を変えた。彼女を視界の端に入れながら俺は崖から海へと飛び込んだ。
「白蓮様!!」
彼女の身を切るような悲鳴が聞こえた。
突如として崖から海に飛び込んだ第二皇子を目の前にして兵士たちは慌てていた。長縄を!いや、それよりも早く甲冑を脱いで後を追わねば!慌てている男たちを前にして、私は怒りからわなわなと震える唇を開いた。
「私が行きます。皆さんは長縄の用意を」
「ですが様!女人では危険です!」
兵士達の咎める声に耳を傾けることなく、水を吸ったら遥かに重みが増す上羽織を脱いでいく。兵士たちが甲冑を脱ぐには時間がかかるのだ、私が行くのが一番速い。ぱぱっと脱いだ着物を傍の兵士に渡して私は崖に走り寄った。その勢いのまま崖から飛び降りる。怖くないわけがない。こんな高いところから飛び降りてどれだけの衝撃が私の身体を襲うか。それでも、白蓮を引き上げるのは私の役目だと信じて疑わなかった。突然飛び降りた彼にどれだけ肝が冷えたか。どれだけ怒りが湧いたか。彼は自分の命を何だと思っているのだ、決して代えが利かない第二皇子の身だというのに。だけど、たとえ彼が代えの利く立場の人間だったとしても、私は今みたいに飛び込んだだろう。彼を失いたくない一心で、私は彼を追ったに決まっている。
――強い衝撃と共に冷たい波に身体を包まれた。
飛び込んだせいで、随分と深くまで沈んだようだった。頭上に太陽の光できらきらゆらゆらと揺れる水面が見える。ゆっくりと浮上していく中、新たに何かが飛び込んで来たようだった。幾重にも重なる銀色の泡の柱。その中心から中着になったが表れた。きょろきょろと何かを探すように目を配っている。その、今にも泣きだしそうな必死な顔をしている彼女に、俺は目を見開いた。
――が来てくれた。あんなにも心を乱された顔をして。
ゴボゴボと空気の泡を吐き出しながら彼女に近付く。彼女は下から上がってくる俺を見て顔をくしゃくしゃにした。
ああ、そんな顔をして。やっと、表情を出してくれた。今までの取り繕った笑みではなくて、彼女本来の表情を。水をかき分けて、俺を引き上げようと彼女が肩を掴む。必死に上へ連れていこうとする彼女の手を掴んで腕の中に閉じ込めた。
ぎょっとしている彼女に想わず笑ってしまった。口から大量の泡が溢れる。彼女は何を笑っているんだと俺の胸を叩いた。そんな彼女をより強く抱きしめる。ああ、堪らない。好きだ、好きだ。お前のことが好きでたまらない。胸に積もりに積もった想いが溢れ出す。今すぐに出してしまわないと胸が破裂してしまうのではないだろうか。もう、この気持ちを抑えられない。海面に出たら一番に言おう。彼女は久しぶりにこんなに怒っているから聞く耳を持たないかもしれない。それでも、言おう。
「結婚してくれ!」
そう言って、彼女の目を見開かせてやろう。
海の中では真実を曝け出して
2014/05/16