君の懐かしい声
今から十数年前のこと。まだ、従兄の白雄と白蓮が正統な皇子として煌帝国を担っていた頃、俺はまだ15歳という若さで何も知らず若さゆえの過ちを犯した。俺の考えなしの行動のせいで、当時俺と共にいた従者は皆首を切られてしまったのだ。その思い出は苦くも、甘いものとして俺の中に残っている。
連日執務に忙しい白雄と白蓮に代わり俺に、接待の案内がやってきた。特に特産品があるでもなく、観光地としても人気があるような街でもないので、別に行かなくても良いかと思っていたのだが、ぜひ行ってくれと尊敬する白雄から言われてしまえば行くしかない。どうやらその街は白雄が懇意にしていた街であるそうだ。そこには綺麗な海があるらしい。気晴らしに海を見るのも悪くないだろう。そう思って俺は鄭という街に行くことにした。
その日は茹だるような夏日だった。小鳥と蝉の鳴き声が鼓膜にこびり付いてしまうような、そんな暑い日。馬車に乗って日陰にいるというのに、こう何枚も着物を重ね着していると暑くて敵わない。何もしていないのに額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。早く鄭に着き冷たい物でも飲むなり海に入るなりしないと溶けてしまいそうだ。柄にも無くそんなことを思った。数時間程我慢して、鄭に着いた。そこは想像していたよりも小奇麗な街で、暑さによって下降していた気分が少しだけ上がった。俺に挨拶をしていたこの街の長の話を聞きながら、宿に入っていく。外よりはいくぶん涼しいそこに無意識に安堵の息を吐きだした。
「紅炎様、宴は夕方6時から始まります」
「ああ、ご苦労」
滑らかな氷が入った冷たい飲み物を持ってきた従者がそう言うのに頷く。6時からならまだ時間があるな。ちらりと壁に掛けてある時計を見て俺は考えた。どうせならすぐ側にある海に入りたい。この暑さだ、海水の冷たさはさぞ気持ちの良いことだろう。だが従者たちについて来られては心から寛げない。
そこまで考えて俺は従者たちには何も言わずに海に行くことに決めた。大勢の者に後ろを付いてこられることに、最近ではうんざりしていたのだ。たまには一人で出かけるのだって悪くない。剣術は白蓮に負けない程に強いのだ、剣さえ持っていけば大丈夫だろう。
思い立ちすぐに行動に移した俺は、従者たちに見つからないようにして宿から2分もかからない場所にある海に足を向けた。潮風が俺の赤髪を巻き上げる。潮の匂いと、きらきらと水色に光る海面に自然と足早になる。砂浜に入る前に靴を脱ぎ足の裏にさらさらとした熱い砂を感じた。熱い。その熱に何故か笑いが込み上げてくる。人気のないそこで着物を脱いで薄着になった。これだけでも大分涼しくなったが、それでも海水の冷たさには劣るだろう。
ちゃぷ、と透き通った海水に足を入れる。夏とはいえ、体温より低いそれに思わず身体が震えたが、慣れてしまえばどうということはなかった。
「は、気分が良い…」
ざぶざぶと海水をかき分けて足が着かなくなる程まで進んでぷかりと身体を浮かべる。日差しは温かく、海水に浸かっている部分は冷たくて気持ち良い。波のない海はとても穏やかで、今にも瞼が落ちてしまいそうだった。ああ、静かな上にこうも身体の熱を奪われるとは、心地の良いものだ。
暫く瞑目していた瞼をゆっくり上げてみると先程まで高かった太陽は下に落ちていた。既に暑さも峠を越え、寧ろ海水によって体温を奪われたことで寒さすら感じる。加えて、岸から少しばかり流されていることから、俺はもう戻ろうと泳ぎだした。ちゃぷ、ざぶ、と自分が海面を切る音が水越しに伝わってくる。数回腕と足を動かすまでは良かった。
「…っ!?」
だが、突如として襲った足の痛みに眉を寄せる。不味い、足が攣った。まだ岸まではかなり距離がある。慌てて咄嗟に口を開いてしまうとそこから塩辛い海水が入ってきた。ゴボゴボと水中で噎せる。海に入った当初は重さを感じなかった着物も、今となっては体力を奪うだけの物に過ぎず、自分の選択を後悔した。だが、まずは落ち着かねば。膝から指先にかけての足の痛みに耐えながら水中に沈んでいく。暫くなら息だって持つ。その間に足の痛みを和らげれば、大丈夫だ。そう思っていたのに、突如身体がぐん、と引っ張られた。
「!!」
どうやら海流に囚われてしまったようだった。くそ、海面に上がらなくては。うねる海水に身を弄ばれながらも海面を目指すが、幾度も身体を下へ下へと持っていかれて上へ目指せない。きらきらと頭上で太陽の光が海の中に差しこんできて珊瑚や色とりどりの魚たちを照らす様は幻想的だったが、息が持ちそうになかった。
――ガボ…ゴボッ…
堪えていた空気を吐き出してしまった。沢山の泡が上へと昇っていく。苦しい、誰か。もがいてもどうにもならないというのに、縋るように手を上に伸ばす。
――意識が薄れ始めた俺の視界に、金色ときらきら光る何かが映った。それは徐々にこちらに近付いてくる。くるくると俺の周りを数回回って観察していたそれが、漸く下半身に魚の尾ヒレを付けた女だということが分かった。金色の髪と、宝石のように光るエメラルドグリーンの瞳、そして光の反射の具合によって水色にも珊瑚色にも煌めく鱗。ああ、これはお伽噺に出てきた人魚というやつか。瞼が閉じ切る前に、俺はまだ幼少の頃に読んでもらっていた巻物の話を思い出した。
ぐんぐんと身体が引っ張られている感覚がする。何か、柔らかいものに俺は抱えられているようだった。
「あなたの髪の色、炎というものみたいに真っ赤なのね。とても綺麗」
耳元で、心地の良い高さの声が聞こえる。
――髪の毛。それは俺のものだろうか。俺の赤い髪を、綺麗だと。そんなことを言う者など禁城には一人もいない。傍系の象徴であると揶揄されることはあれ、綺麗などと称賛されることなど無かった。だが、彼女はそれを綺麗だと言うのか。
「ゲホッガハッ」
突如として肺に送られてきた酸素に咳き込む。がたがたと身体が震えた。まだ瞼を上げることが出来ないまま、俺は俺を抱えている冷たくも柔らかい身体に力なく凭れかかる。ああ、俺は生きている。
「綺麗な髪…人間は皆こうなのかしら」
小さく呟かれたそれに、俺は答えることは出来なかった。こんな赤い髪を持つ者などそう多くはない筈だ。大抵は金髪や黒髪、茶髪などだから。彼女に教えてあげたい。助けてくれた礼には遠く及ばないが、彼女の知的好奇心を満たせるなら。
「人を呼んできてあげる」
ごつごつした岩場になんとか俺を押し上げた彼女はそう言った。漸く目を開けるまでに体力を回復した俺は、思わずその長い金髪を掴んで彼女を止めた。
「まだ、行くな…」
ぼやけた視界の中で、彼女が少し驚いたように目を見開いているのが分かる。あどけなさが残る面立ちで、たぶん俺と同年であろう彼女はアーモンドアイを一度閉じて頷いた。純粋に、美しいと思った。夕日が水面を赤く染め上げる。彼女の白皙の肌もどことなく赤く染まる様子が、神秘的で、俺は何も言わずにそれを眺めていた。
「赤いわ。あなたと同じ色」
うふふ、そう笑った彼女が波に揺蕩う。俺はその笑顔を見て、ぎゅっと胸を締め付けられた。彼女が、彼女だけが俺の髪色を綺麗だと言ってくれた。こんな髪、嫌いだった。だけど、彼女の一言で俺はこの髪が嫌いではなくなった。何よりも好きになった。
顔に張り付いた髪の毛を、彼女がそっと退けてくれる。その手の感覚に、何故か安心できた。馬鹿みたいだ、こんな、その日にあった人間に安心するなんて。
――ああ、それでもまだこの時が続けば良いのにと愚かにも願ってしまった。
あの後、岸に横たわっていた俺を発見した従者たちは、煌帝国に帰ってから職務怠慢としてその日のうちに職を失ったようだった。しかし俺がそれを知ったのは、二日後だった。俺の無策な行動のせいで、20人程の暮らしを壊してしまったのだ。その事実は、今でも後味の悪いものとして俺の胸の中に燻っている。
もう、立派な志を持ち国を導こうとしていた白雄はいない。彼を支えんと切磋琢磨し、俺と軽口を叩いていた白蓮もいない。虚しさを感じると同時に、重い責任感が圧し掛かってきた。この国はいずれ、俺が引っ張って行かなくてはならない。それが嫌だとは思わない、むしろ遣り甲斐を感じる。だが、どうしても脳裏にあの従兄たちが浮かぶ。
――いつか、世界が一つになるまで…共に戦ってくれ、紅炎。
そう穏やかに笑った従兄は、今の俺を見たらどんな顔をするだろうか。いつの間にか見えない糸で雁字搦めにされた俺は、もう昔のように自由に動くことは出来ない。貴殿の背中を追いかけることも出来ない。
そして今、何を思ったのか、俺は十数年前に訪れた鄭に訪れていた。あの日と同じように、真っ赤な夕日が海に沈んで行こうとしている。
「俺が沈んだ時は、またお前が助けてくれるのか?…」
あの時、一度だけ聞いたその名を呟く。海に溺れた俺を救ってくれた人魚。この赤毛を好きになれなかった自分を変えてくれた彼女。
――ああ、きっと。俺が身動きを取れずに沈んでいく時は、また彼女が助けに来てくれる。
力を手に入れた俺を尚救えるのは、お前だけなのだ、。
――今でもまだ、耳元で君の声が聞こえる。
執筆2014/05/13