あなたと共に沈んでいきたい
――いつからだろう、彼女をそんな目で見るようになったのは。
俺には弟妹の他にも、多くの従弟妹たちがいた。その中の多くの名を知ることはまず無い。普段から個人的に友好関係を持っている紅炎と紅明、そして紅明の双子の妹の彼女――くらいの人間しか知らなかった。
二卵性双胎ゆえ、彼女は容姿では髪色以外あまり紅明と似ていることは無い。目はぱっちりとした可愛らしいものだし、唇もふっくらとした桃色のそれで。流れるような艶のある赤髪は、彼女の白皙の肌によく映える。
性格も、根本的なところでは同じかもしれないが社交的な彼女は紅明と違い、部屋の外へ出かけることが多く、その一方で彼に比べたら遥かに抜けている所がある。全然似ていない双子なのだ、彼らは。だけど、お互いに大切に思い合っているようだ。
――紅明が羨ましい。彼の位置では決して恋人になることは出来なくとも、それでも彼女を家族として愛することを許される。
「白雄お兄様、どうなさったんですか?」
「ん?ああ、何でもない」
書類を片づけていたのだが、ぼんやりしていた俺にが少し心配したように隣から覗き込んできた。こんなことで心配してくれるなんて。彼女の心配とは余所に俺の心は喜びで跳ねる。
――ああ、お前に好きだと言えたなら。だけど、それは決して言ってはならない言葉。彼女ももう15だ。いずれ彼女は他国に嫁いでいくだろう。そんな彼女に想いを告げてしまい、自分に縛り付けるなど、そんな残酷な行為は出来なかった。愛しているからこそ、その先に進めない。
「そうだ、。今度一緒に海へ行かないか?」
「海ですか?はい、ぜひ」
再開しかけた書類整理から顔を上げて彼女を見れば、彼女はふわりと笑った。その笑顔に、思わず頭を撫でてしまった。珍しく休暇が取れたのだ、彼女と二人で静かな海でのんびりと過ごしたい。その思いは彼女も一緒だったのか少しばかり頬を桃色に染めている。可愛い、俺の大切な従妹。誰にも渡したくない。
私の従兄の白雄は次期皇帝として日々精進している。政務をこなし、執務も滞りなく完璧に済ませてしまう彼は一族の鏡だと言っても過言ではない。兄の紅炎も彼には一目置いているし、紅明も彼のことを尊敬して少しでも追いつこうと知識を増やしている。私も彼らと同じように彼のことを尊敬している。だけど、そんな思いとはまた別に、私の心には厄介な感情がある。
――私は、白雄に恋をしているのだ。従兄妹という関係なのに、私は浅ましくも彼に惹かれている。将来、望まなくとも他国へと嫁いでいかなくてはならない身であるというのに。
だけど、家族とはまた違う愛しさを感じるのだ。傍にいるとどきどきするし、手を握られれば羞恥と歓喜で顔は真っ赤に染まる。ああ、私は、抑えがたい想いを彼に抱いてしまっているのだ。そしてきっと、彼も私のことを好いていてくれる。言葉にされたことはなくても、何よりも大切にしてくれるし私を見る目が甘さを孕んでいるから。自意識過剰という結果もあるかもしれないけれど。
「、綺麗だろう?」
「はい、連れてきてくれてありがとうございます」
彼が休暇を使って、煌帝国の中でも綺麗な海だと評判のある地域に連れてきてくれた。目の前に広がる白い砂浜に、エメラルドグリーンの水面に心が躍る。白雄お兄様、と彼を見上げれば彼も同じようににっこりと微笑んでいて私はそれだけで幸せだった。二人きり、というわけではないけれど従者たちは気を遣って少し離れた所で待機しているし、私たちは日頃の立場を忘れて遊ぶことにする。
「白雄お兄様!」
「うわっ」
ぱしゃっと海水を手に救って彼にかけたら、彼は驚いて目を瞑った。それを見て私は悪戯が成功してうふふと笑った。逃げるが勝ちよ、と着物の裾を踏まないように持ち上げてだっと駆けだす。こら!!そう後ろから笑いながら追いかけてきた彼からきゃあきゃあと騒ぎながら逃げた。ああ、なんて楽しいんだろう!
くるくると回りながら逃げる私のことを手加減している彼が捕まえようと腕を伸ばした。
「捕まえた」
彼の楽しそうな声が聞こえると同時に、ぐいっと肩を掴まれ、私は彼の程よい筋肉が付いた腕の中に閉じ込められていた。いきなりのことで反応できなかった私の頬がゆるゆると熱を帯び、鼓動が駆け足になる。これは、いったい。
「…白雄おにいさま…?」
「…」
そっと見上げた彼は普段の穏やかな笑みではなくて、どことなく真剣な面持ちだった。
――なんて、美しいお顔なの。
その意志の強い瞳に目を奪われ、形の良い唇に鼓動を速められる。今までにない程にけたたましく鳴り響いている鼓動はきっと、彼には筒抜けだ。そっと、頬を彼の無骨な手で撫でられてぞわりと産毛が逆立つ。
だが、はっと元の様子に戻った彼は砂が付いていたと軽く手を振って私から離れた。それに安堵しながらも、若干残念な気持ちに陥った私。ああ、私はいったい何を期待していたというの。
「ほら、一緒に船に乗ろう」
「はい」
先程とは違って優しく手を引く彼に頷く。彼自らが小舟を漕いで沖へと向かった。
従者たちも少し距離を保ってついて来るけれど、俺には彼女しか見えなかった。下を覗けば、海は浅瀬とは違って深い青色になっている。ああ、水深があるのだと心の隅でそんなことを思う。彼女の綺麗な赤い髪の毛がさらさらと風に煽られて絹糸のように光った。
じっと俺を見上げるあどけない顔に、ゆるゆると先程と同じように彼女を抱きしめたい衝動が起こる。折角今まで自分の気持ちを伝えないようにしてきたのに、あれではきっと彼女も気付いてしまっているのではないだろうか。嗚呼、もうなるようになれ。もともと彼女も俺のことを好いているようなのだ、もう我慢したくない。彼女の気持ちを知りたい。
今までの努力も何もかもを放り投げて、俺はそっと彼女の手を握った。驚き、頬を染めた彼女がそっと俺を窺うように見上げてくる。
「好きだ、」
胸に溜まったその想いを吐き出せば、彼女は目を見開いた。本当に?そう訊ねる従妹姫に本当にと頷く。俺がお前にそんな嘘を吐く理由などないではないか。こつり、と額を合わせればじわりと彼女の熱が伝わってきてそれが何よりも愛おしい。
私もです、白雄お兄様。涙で潤んだ瞳で彼女は笑った。ああ、その言葉をいったいいつから俺は望んでいただろうか。ぽろり、と涙を溢した彼女をそっと抱きしめる。死ぬなら今が良い。この幸せの絶頂のままに、穏やかな死が訪れるのならば、彼女とともに眠りにつけるならどれだけ安らかな死を得られるだろう。
「このまま、この海に沈んでしまえたら…」
彼女の耳元で囁く。怖いか?そう問えば、彼女は腕の中で小さく首を振った。
――怖くなどありません。だって、これはあなたの髪の色ではありませんか。
穏やかに笑った彼女をより強く抱きしめる。俺の、色だと。この海をそう言うのか。ああ、このまま本当に二人だけの世界になれたなら。
船から身を投げ出す。周りの音は一切聞こえなかった。きっと従者たちは慌てて此方へやって来るだろう。視界が銀色の泡と彼女の赤くて長い髪と青で埋まる。ぎゅっと抱きしめて彼女が離れないようにし、彼女もまた俺が離れないようにときつくしがみ付いて、青の中に静かに静かに二人で沈んでいく。
苦しい。胸が、呼吸が。それなのに、今までで一番満ち足りていて。彼女もすぐ傍にいて俺のことを見つめてきて。これ以上幸福なことは無かった。冷たい海水を吸って重くなった着物のせいでゆっくりと彼女の頬を撫でる。幸せそうに微笑んだ彼女の唇に俺は何度も口付けをした。きっと、これから先に君以上に恋しく思う者など現れない。だから、君もどうか俺のことだけを好きでいてくれ。
もう暫く、二人だけの世界に。
――青に沈む。
2014/05/16