永遠を願っても良いですか
執務中である自身の夫、紅明から珍しく呼び出され、私は慌ただしく着物を整えて彼のもとへ急いだ。普段、彼と会うのは執務が終った夜から朝にかけて、しかも時々それさえ無くなる程彼は常に働いているのだが、いったいこのような時分にどうしたのだろうか。
急ぎたいところだが、走ることははしたなくて出来ない故、出来るだけ足早に彼の執務部屋へ向かう。自身の棟からようやっと辿り着いた彼の部屋の扉を何度かノックした。しかし、待てども中から返事が来ない。数秒間待ったのだが、返事のないことからまさかと頭にあることが過る。そうだ、彼はここ3日程私の部屋に訪れていないのだから、もしかしたら…!後ろを振り返ると私を呼びに来てくれた彼の眷属の忠雲もこくりと頷いている。ああ、これは、アレが待っているのだろう。
「紅明様、失礼いたします」
一応声をかけて部屋に入る。私の視線の直線上にある彼の執務用の机の上には、多くの巻物がごちゃごちゃと積み重ねられており、開きっぱなしに置いてあるのもあれば、閉じられたまま放置されているのもあった。しかし、何よりも目を惹くのは赤いもさもさとした毛の塊がその上に倒れていることだ。
――ああ、やはり。紅明様は芋虫状態だったのだわ。
「紅明様?紅明様?」
慌てて彼のもとへ駆け寄り肩をゆさゆさと揺する。まるで、巻物と髪の毛の海に溺れているよう。なんて、そんなことを考えている暇はないのに。
――ですよ、紅明様。
私を呼んだというのに気絶している彼――もしくは気絶しそうだったから私を呼んだのかもしれないが――に呼びかけると、微かにううと呻き声が聞こえる。
「いつもの物を用意しました」
「ありがとうございます」
私が彼に呼びかけている間に、忠雲が対紅明の徹夜回復セットをずらりとサイドテーブルに用意してくれていた。手際の良い彼に礼を述べて、セットのうちの一つである櫛を手に取る。
――紅明様をこの赤い海からお救いしなくては。
こんがらがった赤毛を丁寧に梳きながら、私は彼との出会いのことを思いだしていた。
紅明との出会いは今から一年前のこと。煌帝国傘下に入った自国のために、当時19歳だった私は第二皇子練紅明の三人目の側室として煌帝国へ嫁ぎにやって来た。彼にはまだ正室がいないらしく、側室も私以外に二人しかいないということで、私は少しばかり安心していた。彼の兄である紅炎には多くの側室がおり、世継ぎ争いが恐ろしいという噂を聞いていたから。
婚儀まではあと六日程あるのだが、執務が忙しいらしく、未だに夫となる紅明の姿を見ていなかった私は退屈していた。時折お祝いの品を持って来てくれる皇族の方々以外に訪問客などいないのだ、徒に時間が過ぎていく。
――バタンッ。
お祝いの品々を確認していると、何やら私の部屋の前で何かが倒れるような音がした。それは中々に大きな音で、共にこの国へやって来た従者の鈴凛(りんりん)が何事かと外へ確認しに行く。
「ひぃっ!ひ、姫様!」
「どうしたの!?」
彼女の悲鳴に慌てて扉の外へ出ると、廊下には赤い毛の塊が倒れていた。私も彼女と同じように驚いだのだけれど、その赤毛から羽扇を持った手が僅かに飛び出していたのを発見し、それが人間であると気付いたのだった。
「まぁ…!どうなさったのですか?」
「うぅ…軍議続きで…」
私の問いかけに対して、その赤い毛の塊は疲弊しきった声でそう言った。軍議と言うなら、彼はもしかしたらこの国の軍師なのかもしれない。かわいそうに、こんなになるまで働かされるとは。境遇は似ても似つかないが、それでも同じく困難に立ち向かっている様子の者には憐憫の情を抱くものだ。私は彼を自分の部屋に招き、暫くの間休息を取らせてやることにした。
「朝餉は召し上がりましたか?」
「…いえ…丸一日食べていません………」
自分では歩けない様子の彼を鈴凛とともに引きずるようにして椅子に座らせる。自分より遥かに背の高い成人済み男性を運ぶというのは予想以上に骨の折れる作業だった。だが、どことなく楽しさを覚える。
どうやら不摂生であるらしい彼に遅い朝餉を食べさせるために、鈴凛に食事を持ってくるように頼む。本来なら夫以外の男性と二人きりになるなど考えられないことだが、このままでは彼は過労死してしまうかもしれないのだから致し方あるまい。彼女が食事を持ってくる間に、私はこの顔どころか身体全体を覆っているもさもさの髪の毛をどうにかしようと目の粗い木の櫛を手に取った。
「軍議続きとは大変ですね」
「…はい…休む暇もありません…」
彼の髪の毛を丁寧に梳いていく。ここまで髪の量が多く長いとなるとそれなりに時間がかかりそうだが、こうやって誰かの世話をするというのは存外に心が弾む。誰かの役に立っているという気持ちが強いからかもしれない。
暫く彼の髪を梳かしていると、漸くこんがらがってもさもさしていた髪の毛がまともな状態になって来た。その間に彼は夢に片足どころか両足を突っ込んでいるのか、何度も頭をかくかくと揺らしている。暫くして、目の粗い櫛から細かい櫛に取り換え更に梳いていく。
「あら…」
前髪とそれ以外の髪の毛の区別がつくようになって、漸く彼の顔を拝むことが出来た。不摂生をしているからだろう、肌は吹き出物が出来、顔色も悪い様子だが、それ以外は整った顔立ちをしている。邪魔な髪の毛は後ろで一つにまとめてしまうと、先程の彼とは見違える程まともな状態になった。
「様、食事をお持ちしました」
「ありがとう、鈴凛」
急いだ様子で部屋に帰ってきた彼女の手から、傍の机に食器が配膳される。食事が来ましたよ。そう彼に声をかけるけれど彼ははい…と言ったきり動こうとしない。これは余程疲労が溜まっているのだろう、仕方のない人だ。そう思いながらも私は何故か楽しくて、箸を持ち彼の口元にまで煮物を運ぶ。
口を開いてください。そう言えば、彼はゆっくりと口を開き、私はその中にそっとそれを入れた。口の中に煮物が入るともぐもぐと咀嚼し始めた彼。どうやら半分夢の中にあっても食事は出来るようだ。
その調子でどんどん彼に料理を食べさせていく。まるで、雛鳥のよう。なんて、彼が聞いたら怒るだろうことを心中呟いて自然と口元が綻ぶ。自分よりも年上である彼に母性本能が疼くなんて、余程この人は頼りない人なのだ。
「本当は夫以外の男性のお世話などもっての外なのですからね。ちゃんと自己管理なさってください」
「…すみません…。して、その夫とはどなたでしょうか…?」
目を瞑って私から与えられる食事を飲み込んだ彼が、純粋な疑問を投げかけてくる。そんな彼にもう一口と最後の料理を口に入れて、練紅明様ですと伝えた。
「……はぁ…、練紅明……」
もぐもぐ、ごくん。料理を飲み込んだ彼が眠い頭を働かせているのか、私の夫となる第二皇子の名を呟く。
「…それ、私ですよ…」
「え…?」
ゆるゆると、今まで瞑っていた目を開いて彼は私のことを見た。どうやらあなたが今度私の妻となるなのですね。そう続けた彼に目が驚きで見開かれる。
――それでは、私は今まで自分の未来の夫と露知らず彼のことを世話していたのか。
彼は、驚きのあまりに言葉を発せない私の手を握り、こんなに気立ての良い妻を迎えられるとは幸せですと穏やかに微笑んだ。その微笑に息が止まる。ゆるゆると顔に熱が籠るのを感じて、私はぼうっと彼の顔を見つめた。決して満面の笑みなどではなく、疲労が滲む笑みだったのに、それが私には何よりも素敵なものに見える。
――私はその瞬間、恋に落ちてしまったのだ。
政略結婚で望まない相手と結婚するのだと悲しみに暮れていたというのに、彼がそう言って微笑んだだけで、この結婚が一瞬にして幸福なものへと変化した。
「これからよろしくお願いしますね、」
「はい、紅明様。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
その後、彼は私へと覆いかぶさるように倒れて、意識を手放してしまったのだけれど。
紅明の髪の毛を梳き終わり、普段の彼の髪形に結い上げる。目を閉じて私にされるがままになっている彼は、私と出会った頃のように目の下に隈を作り、吹き出物が鼻の上に出来ていた。それでも、そんな彼が愛おしい。紅明は彼の弟君の紅覇にはブサイクなどと失礼なことを言われているが、私はそんな風には見えない。妻の欲目とでも言うのだろうか、彼はどんな男性よりも魅力的に見えてしまうのだ。
側室という立場は儚く、安定とは程遠いものだけれど、彼は私のことを愛し、慈しんでくれた。忙しい執務と軍議の間に私の部屋を訪れたり、他愛ない話をしてくれる。そんな彼の優しさが私に与えられていることが、何よりも幸せだった。この愛が永遠に続くものかは分からない。現在彼の寵愛を一身に受けているのは私だけれど、それが不変だとは限らないから。それをお互いに承知しているからこそ、彼は愛していますとは口にしても、“永遠に”という不確かな言葉を使うことはない。
――ああ、だけど。今この時だけは。
「紅明様、おはようございます」
「…、おはようございます…」
そっと彼の隈を指先でなぞると、彼はゆっくりと目を開けた。疲れ切っているだろうに、ふっと微笑して私の頬をするりと撫でる。ああ、もう。思わず、心臓が高鳴った。
もうそろそろ落ちそうだったので、貴女を呼んだのですよ。紅明は自身の目の下を撫でる私の手を握って、私を見上げる。その目には、私だけが映っている。その事実に、心が歓喜で満たされた。
「沈んだ私を引き上げてくれるなら、貴女が良い」
机に身体を齎せながら、彼は私に聞こえる程度の小さな声でそう言う。その顔は、内緒話をする子供のように楽しそうなもので、私は嬉しくて眉尻が下がった。ぎゅっと胸を締め付けられて、息が出来ない。
――今だけは、“永遠”という不確かな言葉を信じたい。
溺れた貴方を救うことを、許してくれますか。
2014/05/24