第九夜

 今日は、朝から紅炎のもとで軍議のための資料をそろえるために走り回っていた。このような雑用はほとんど、従者の中では一番下っ端である彼女に回ってくる。本当に大切なことは、適切な能力を持った個々に与えるのだが、今回の仕事は誰にでも出来るようなことゆえに。
もう、あと一時間もしないうちに紅炎と紅明が出席する軍議が始まるのだ。それまでに与えられた仕事を完遂させなければならない。そう焦って、次々に必要な巻物を集めていた。攻め入る国の土地はどのような形態をしているのかとか、どれくらいの規模の人口なのか、とか彼らに必要な情報はたくさんある。どれかを見逃して、戦争中に不利になってもらっては、彼女の命を差し出しても償いきれない。
「えっと…次は、兵法六十三計を……」
ぶつぶつと呟きながら書庫の中を歩き回る。既に腕には何十という量の巻物が積み重ねられている。重さならまだいけるのだが、かさばる量ではもうそろそろ限界がきそうだった。兵法六十三計が一番上の棚にあるのを発見して思わず彼女は舌打ちをしたくなった。この両手に抱えている巻物があっては一番上の棚に手が届かない。只でさえ彼女は身長が高くないのだから、背伸びすら出来ないとなれば届く場所が限られている。
仕方なく、巻物を少し離れた所にある机の上に並べてきて、一番上にある兵法六十三計に手を伸ばした。しかし、中々届かない。これは踏み台が必要だ。そう気付いた彼女はきょろきょろと回りを見渡して、台になりそうな物を探した。しかし、そのような物は見つからず、仕様が無いと傍にある机を持って来て、靴を脱いでその上に乗った。一瞬ぐらりと傾いた机にひやりとしたものの、何とか耐えた机にほっと一息吐く。これで巻物が取れる、と彼女は手を伸ばして、兵法六十三計を手にすることが出来た。
このような行動を誰かに見られていないかと彼女はそっと辺りを見渡したが、幸い誰にも見られておらず、机に乗ったことを咎める者はいないようである。
――さて、次はこれを会議場に持って行って軍議の準備をしなくては!
慌ただしく、彼女は机の上に置いておいた巻物を腕に抱えて書庫を飛び出して行った。
  書庫から出て、紅炎が住む宮からそう遠くない会議場に、足早に向かう。積み重なった巻物のせいで、前をきちんと確認できない状態にあるが、彼女はどうにか誰ともぶつかることをしないで会議場へ足を踏み入れた。
そこにはまだ人の影はなく、外とは違い静寂な時が流れている。
「よいしょ、っと」
今までずっと持ち続けていた巻物をどさりと楕円状のテーブルの上に置く。強張っている筋肉をほぐすように数回腕をぐるぐると回して、彼女は紅炎と紅明が座る場所を中心に巻物を並べ始めた。
あと数分したら紅炎たちがやって来て、軍議が始まる。既に、彼ら以外の将たちは着々と席に座りつつあり、彼女は彼らに出すためのお茶を取りに、一旦給仕室へと向かった。
一度に大人数のお茶を運ぶというのは大変だが、誰かにぶつからなくては良い話だ、と彼女は思い、大きなお盆の上に湯呑みを人数分乗せて歩く。
「お茶をお持ちしました」
「ああ、そこに置いといてくれ」
年配の厳つい顔をした武官たちが座る席にお茶を置こうと、彼女はお盆から片手を離し、湯呑みを掴んだ。しかし、それでバランスが崩れたのか、彼女の手からぐらりと傾くお盆。あっと思った時には既に遅く、ガシャァン、と大きな音を立てて大量のお茶が机上に広がった。
「おい!お前!!何をやっているのだ!!」
「ああああぁ…っ、も、申し訳ございません……!!!」
すぐ傍にいた二人の武官たちには熱いお茶がかかり、その上机上に並べておいた巻物にまで、こぼれたお茶はかかっていた。ごく一部の被害とはいえ、武官たちは一様に声を荒げて彼女のことを責めたてる。
――ど、どうすれば…!?
他の巻物にまで被害がいかないように端へと移動させた彼女だったが、先に手ぬぐいで武官たちの服を拭けば良いのか、それとも貴重な巻物を拭けば良いのか分からずに、軽いパニックに陥っていた。
「どうした、何をそんなに騒いでいる」
「紅炎様!」
じわりと彼女の目に涙が浮かんだ所に、静かに紅炎が会議場にやって来た。皆一様に礼をしたが、先程彼女の溢したお茶をかぶった者たちが口早に、この者が茶を溢し服と巻物を汚したのですと彼に詰め寄る。淹れたての熱いお茶をかぶったせいか、彼らは大変憤慨しているようで、顔を真っ赤にしていた。
しかし、彼はその者たちと、軽くパニックに陥り顔を青褪めさせているをちらりと冷静に見る。
「そうか、俺の従者が悪かったな」
「……――閣下がそう言うのでしたら…」
ぽん、と二人の肩を詫びるように叩いた彼はそのまま彼の席へと着く。
――何ということだ…。紅炎様に謝辞を述べさせるなんて。
彼女は自分の犯した過ちにずきりと胸を痛めた。紅炎がそんなに簡単に謝るなんて、あってはならないことなのに。
先程とは違った焦燥感から、申し訳ございませんでした、と彼らに向かって再度頭を深々と下げる。そうすれば、彼らはもう良いと先程よりも怒りを収めた様子で、彼らの席へと戻った。
「ま、巻物を…」
「良い。お前は外で待っていろ」
濡らしてしまった巻物を拭こうとは机に近寄ったが、彼女を見ることなく紅炎から発せられた言葉に、頭を鈍器で打ちつけられたような錯覚を感じた。きっと、大切な巻物を汚した上に将軍たちに無礼を働いてしまったことから、怒りを覚えたのだろう。
は震える唇で、消え入るような声ではいと返事をした。ぺこりと頭を下げて、会議場からそっと退出する。
――紅炎様に叱られた。私が馬鹿なばかりに、紅炎様にご迷惑をかけてしまったから…。きっと、呆れて私の顔など見たくないに違いない。
廊下へと出て、白い砂利の上を進んで行く。少しばかり会議場から離れたそこに向かい、彼女は端で三角座りをして、地面をじっと見つめた。ただ、悲しさと申し訳なさが彼女の胸を圧迫していた。

 どれ程そうしていたのか分からない。しかし、彼女が思っているよりも確実に時間は過ぎている筈だ。しょんぼりとした様子のまま、やはり地面をじっと見つめる。しかし、ふと頭上から下りてきたいくつもの羽ばたく音と影に、彼女は頭を上げた。
――ポッポー。
バサバサと数羽の鳩が彼女のすぐ近くに降り立った。羽をしまい、群れから抜けて彼女の近くへとやってきた白い鳩に、彼女は少しばかり目を見開く。
「小雪殿…」
彼女の声に応えるように、その白い鳩はクルッポーと鳴いた。砂利の中に餌があると思っているのか、小雪は細目に嘴を突いていたが、首を傾げながらのことを見上げた。
そんな様子に、何だが小雪が話を聞いてくれるかのような錯覚をして、彼女は口を開く。
「小雪殿……、実は、先程紅炎様に叱られてしまったのです」
再度、自分の口からその言葉を出すことによって、先程よりも更に自責の念と悲しみが込み上げてきた。
――私が、一度にお茶を運ぼうと手順を面倒くさがったから、お茶を溢してしまい、将軍たちを怒らせてしまったのです。その上、巻物まで汚してしまって…紅炎様に謝辞を述べさせてしまうし、私は紅炎様の従者失格です……。
「クルッポー」
すん、と鼻を啜ると、小雪はまるで彼女の話を理解しているかのように声を上げた。慰めてくれているのだろうか。はそんな様子の白い鳩に、少しばかり救われた気がした。
「私が思うに、あなたはとても生真面目ですね。もう少し肩の力を抜いてみたらどうですか?」
「!?」
突然聞こえた男の声に、は立ち上がりきょろきょろと辺りを見渡した。まさか今の話を誰かに聞かれていたのかと、吃驚したのだったが、辺りに人影はない。下を見やると、小雪がそれを肯定するかのように頷いた。
「ま、まさか、小雪殿…!?喋れたのですか!?」
しかも、メスかと思っていたら、オスだったのか。彼女は目を見開いて小雪を見た。まさか、鳩が喋れるなんて。道理で紅明が鳩の餌やりを趣味にする筈だ。
――そう、納得してしまった彼女を見て、すぐ側の物陰から今にも笑い出してしまいそうになるのを抑えている男が一人いた。そう、噂の紅明である。
「(ここまで馬鹿で純粋な少年だとは…)」
彼は少し前に、軍議が白熱してしまった為に頭を掻き毟り、落ち着きを失ってしまったことから紅炎に頭を冷やしてこいと外へ追い出されたのである。そこに、彼がいつも餌をやっていた白い鳩に、何やら悲壮感漂う少年が相談をしていたら、それを見たくなってしまっても仕方がない。そして、声を発してみれば、まさかの鳩が喋るという結末に辿り着く少年。驚く顔が何とも滑稽で愛らしくて、紅明は抱腹絶倒するのを何とか堪えていた。
「兄――(ではなく、)紅炎様もそこまで怒っていないでしょう。後で謝罪しにいけば良いことです」
「ですが、許してもらえるでしょうか…?」
はぁ…と落ち込んだ様子で、彼女は溜息を吐いた。この相談相手が自身の主の弟君である紅明だとは露知らず。そんな彼女に、紅明は物陰から語りかける。反省することは良いことですが、そううじうじ悩んでいることだけが、従者のあなたの仕事では無い筈。主を影で支えることこそが、従者の仕事では、と。諭すように続けた言葉に、彼女ははっと顔付きを変えた。
「確かに…、そうです…。私は勘違いしていました。軍議が終わり次第、紅炎様に謝罪しに行きます!」
ぐっと拳を握って勢いよく立ち上がった彼女からは、先程の悲壮感は漂っていない。しかし、彼女の突然の行動に驚いた小雪はバサバサと翼を広げて空へと飛んで行ってしまった。その様子にあっと声を上げる彼女。
「小雪殿…!ありがとうございます!」
飛び去ってしまった小雪に、軍議の邪魔にならないように小さな声で言った。それを紅明は見届け、会議場へと戻っていく。これは中々に良い気分転換が出来たものだと小さく笑いながら。


**後日談**
「紅炎様!そういえば、小雪殿が喋ったのです!あの時、落ち込む私を励ましてくださったのは、あの小雪殿なのです…!」
「小雪…?ああ、あの鳩か。そういえば紅明を気分転換させに外へ追いやったが、帰ってきた途端笑い出してな…」
「紅明様がですか?…?」
「ああ、そんな紅明を見るのは初めてだと皆驚いていたぞ。後で聞いた所、お前が小雪を話す鳩だと勘違いして相談していたと言ってな。…お前、あれは紅明だぞ」
「えっ!?!??そ、そんな……!!」
「馬鹿な奴だ…(しかし、馬鹿な子程何とやら…か)」
「うぅ……(恥ずかしい……ッ!!!)」


2014/06/20


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