第八夜

 一日の業務が終り、宛がわれた自身の部屋で休息を取っている時、遠慮気味に扉を叩く音がした。
「はい」
が返事をすると、女官が一人部屋の中に入ってきて一言、紅炎様がお呼びです、と。そう簡潔に述べた彼女に頷くと、彼女は礼をして出ていった。すぐに行きますと返事をしたは良いが、このような時間帯にいったいどうしたのだろうか。主の行動に、少しばかり疑問を感じた彼女だったが、彼を待たせるなどという選択肢はないため、軽く身なりを整えて紅炎のもとへ向かった。
「失礼します、紅炎様」
「入れ」
通い慣れた紅炎の部屋の扉を軽く叩き、部屋の中へ入る。彼は広々とした机の上に巻物をいくつか並べてそれを読んでいた。音を立てずに彼の隣に立つと、酌をしろと言われる。どうやら彼女は寝酒のために呼ばれたようだった。はい、と彼女は頷き、サイドテーブルの上に置いてあった陶器の瓶を丁寧に持ち、彼の手が持つお猪口にそっと酒を注いだ。
ぐいっと一気に煽った彼は、また彼女の前に手を出す。それに酒を注ぎながら、彼女はなぜ自分に酒を注がせるのだろうか、と気になった。今の私は男でしかなく、紅炎様にはたくさんの美人な側室がいて、呼べば喜んでやって来る――私も例外ではないが―――というのに、なぜ男である私を…。少しばかり思考の渦に囚われていると、どうやら酒を注ぐ手が止まっていたらしく、彼に名前を呼ばれた。
、どうした」
「申し訳ございません」
ちらりと自身を見やる彼に、頭を下げる。少し考えごとをしておりました。そう付け加えながら、お猪口に酒を注ぐ。
「そうか」
どうやらお咎めはないようで、彼女は胸を撫で下ろした。まったく、紅炎様の前で考えごとなど、失礼もいいところだ。私は何も考えずに、紅炎様の命に従うだけ。そう心中呟き、彼女は歴史書を読んでいる紅炎の横顔を眺めた。
「お前にも飲ませてやろう」
「えっ、そんな、よろしいのですか?」
ふと、巻物から目を上げた彼が彼女の手から瓶を奪って、彼が今まで使っていたお猪口に並々と酒を注ぐ。こんな上等な酒を飲んだことがないだろう、と言う彼に彼女は頷く。上等な酒どころか、彼女は一度たりとも酒自体を口にしたことはなかったのだが。それでも、せっかくの主の厚意を無碍にするわけにもいかず、彼女は彼の真似をして一気にその酒を飲み込んだ。途端、喉がカッと熱くなり、見事なまでに噎せた。
「からっ!!」
その上、正直な感想まで口から飛び出してしまって、彼女は慌てて申し訳ございませんと紅炎に頭を下げる。せっかく彼から貴重な高級酒をいただいたというのに、なんということを。あわわわ、と酒を飲んで赤くなった顔を青褪めさせるという、器用なことをやってのけた彼女に、紅炎はハハハ!と大口を開けて笑った。
「お前にはまだ早かったようだな」
「貴重なお酒を無駄にしてしまってすみません…」
くつくつと未だ含み笑いをしている彼に、彼女はしょぼんとして礼をする。しかし、どことなく犬の垂れ下がった耳がその頭から生えているように見えた紅炎は、わしゃわしゃと彼女の頭を掻き混ぜた。
そんな彼の様子に、彼女は目をぱちくりと瞬かせる。
「良い。人には得手不得手がある」
ふんと鼻を鳴らして笑った彼に、彼女はありがとうございますと頭を下げた。きっと、今のは落ち込んだ私を
慰めるための言葉だったのだろう、と解釈をして。
それに、飲めないなら飲める物を飲めば良い話だ。そう続けた彼に、はいと頷く。根が真面目な彼女は、その言葉を聞いた途端、酒の場で主を退屈させないように、自分もある程度飲めるようにならなくては、と少しばかりずれた方向に決意を向けた。努力でどうにかする気満々の彼女は、これから頑張りますときりっとした顔で紅炎を見上げて、彼を少しばかり困惑させることになる。


 青秀の一日は朝6時から始まる。朝に弱い彼は他の眷属たちと比べて少しばかり目が覚めるのが遅いのだが、
それでも紅炎の従者の一人として立派にその役目をこなしていた。
そして今日も彼の一日が始まる。チュンチュン、と部屋の外で小鳥が鳴いている声が聞こえて、彼の意識は覚醒しだした。うう…、と唸って寝返りを打つと、丁度何か柔らかいものがあり、それに抱き着く。丁度良い、抱き枕だ。そう夢の中で思った。
――……抱き枕…?俺の寝台には抱き枕なんて無かった筈だけど。
しかし、ふと湧いた疑問に、彼の意識は徐々にはっきりとしていく。自身が抱きしめているものは、小さくて、柔らかい。そこまで分析を始めて、次第に彼は嫌な予感を覚えた。心なしか、小さな寝言が聞こえた気がする。
そっと目を開けて、彼は恐る恐る布団を捲った。
「………!???!!!!?」
思わず朝いちばんから野太い悲鳴を上げそうになった彼であったが、どうにかそれを抑え込んだようだった。心臓がばくばくと五月蠅く騒ぎはじめ、何故こんなことになっているのかと、青秀は目を白黒させた。
――彼の布団の中に、がすやすやと眠っていたのだ。
動揺から震える腕を押さえつける術を持たないまま、彼は慎重に彼女から離れる。その際、彼女の衣服が乱れていないことと、自分の身にもとくに変わったことがないことを確認した。
――ここは、俺の部屋。よし。隣で寝てたのは、よし。お互い衣服に乱れはない。よし。なんでこうなったんだ?
大変動揺して混乱している頭でどうにか情報を整理して、彼は動悸を落ち着かせるために二、三回深呼吸をした。
彼は昨夜の出来事を思い出してみたが、特に彼女と会ったわけでもなく、また酒も飲んでいないため、記憶ははっきりとしていた。となると、彼女の方が勝手に青秀の部屋にやってきたことになる。
――とんだ痴女だ。
彼女以外の女だったらそう思っただろうが、彼は彼女とは数年の付き合いでそんな性格をした女だとは思っていない。そのため、彼女がどうして同じ寝台で寝ているのか余計に分からなかった。
「う、うぅん……」
「……」
そして、彼女が目を覚ましたのが、ぐぐぐと伸びをして寝台から身を起こした。まだ目を瞑っている彼女が次に起こす行動は分かりきっている。彼は急いで彼女の傍に寄り、目を開いて驚きの余り悲鳴を上げそうになった彼女の口を塞いだ。
「お、おい、暴れるな…!今は早朝なんだから気を付けろよ」
「…ッ!!?!?!」
我ながらどういう理由なんだ、と彼は思ったが、自分の部屋になぜ青秀が!?と現状を把握できていない彼女にとってはそんなことは全く関係なく、ただひたすら目を見開いていた。
 暫くして漸く落ち着きを取り戻したと青秀は向き合う。自分の部屋であるという彼女の誤解も解いたことで、彼の尋問は始まった。
、昨晩の記憶は?」
「…紅炎様の部屋を出た後からぽや〜、と」
「もしかして、酒飲んだのか?」
「うん。紅炎様の酌をしていたら、一口頂いて…」
ううん、と頭を捻りながら考えている様子の彼女に、青秀は溜息を吐く。たった一口酒を飲んだくらいで記憶が飛ぶとは、まったく。自分の部屋に帰ったつもりだったんだけど青秀の部屋だったんだね、ごめん。へらっと笑ったに、彼は拳骨を落とした。どうやら彼女は事の重大さが分かっていないようだと。
「相手が俺だったからごめんですんだだろーがなぁ、もし俺以外だったらどうなってた?あ?」
「す、すみません……」
寝台の上で正座して頭を下げる様子のに、彼は更に両の拳骨でその頭をぐりぐりと圧迫した。痛い痛い!と非難する彼女に、彼は吊り上げていた眉を通常の位置に戻した。彼としては、彼女の間抜けな行動から彼女が女だと露呈するのと、そして他の男に無理やり身体を暴かれる可能性があったことを心配していたのだが、彼女もどうやらそれを分かっているようだった。
「本当にごめんね」
「はぁ…もう二度と酒なんて飲むなよ」
申し訳なさそうな顔をして謝ったに、青秀はもう良いとばかりに首を振った。
こうして青秀の一日は始まった。


2014/06/18



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