第六夜

 普段は歴史書を読んだり、執務や軍議をこなしている紅炎だったが、彼が何よりも面倒だと思うのは、その地位故の夜伽であった。もともと彼は女自体にあまり興味が無い上、地位や容姿ゆえに自分に媚びる女には嫌悪すら感じている。先帝の皇子たちが亡くなる大火以前までは、傍系の子と周りから期待すらされていなかったというのに、この手のひらの返しようが彼にとっては酷く忌々しく、人間の醜さの表れだとさえ考えていた。
そして、毎度のことのように、白粉をつけ豪華に着飾った女が自身の部屋にやって来た。赤い紅が引かれた唇が綺麗に弧を描き、媚を売るような声で紅炎様と呼ぶ、女の甲高い声がする。第一皇子の子を生し、あわよくば妃に。その汚い考えが女の媚びるような表情から窺える。目を合わすことすらしたくない。女を抱いたことは数多くあれど、だからと言って彼の御眼鏡に適う女はそう多くなかった。
そして、毎度のことのように彼は下がれと、その言葉を口にする。寝台に座りながら、歴史書を読んでいる彼は書物から目も上げずに女に手を払った。その言葉と態度に、相手の女は目をぎょっとひん剥き、わなわなと震える様子でその場からいなくなった。しかし、彼にとってそれは喜ばしいことだ。女の過度に付けられた香や白粉の匂いが自分の部屋に入るだけでも嫌なのに、どうしてこの趣味の時間を、自身の嫌悪するタイプの女に邪魔されることが許せよう。

「はい」
部屋の外で待機していた一番新しい従者を呼ぶ。すっと、礼をして入り紅炎の前に膝を着いたは、彼の言葉を待つ。何を言うでもなく、を見下ろして観察した。彼は17歳という年齢でありながらも、自身の末弟以上に女のような顔をしている。目はくりくりとして大きいし、唇は桃緋色をしている。しかし、先程の女のような色香も飾り気も無い。男だから当たり前だろうが。それでも、彼はの方が好ましく感じられた。見ていて不快ではない上、彼からは清潔な石鹸の香りしかしない。時折、菓子や食べ物の匂いをさせてやって来ることもあるが、それも健全で好ましかった。
「紅炎様…?」
紅炎はじっと彼を見上げているの頭を、子供にするようによしよしと撫でた。きょとん、と彼を戸惑いながら窺う様子の彼に、益々彼の気分は良くなる。からは一切、紅炎に媚びへつらう様子が見られないから。
「いやなに、お前を見ていると癒される」
「はぁ…そうですか…」
ひとしきり彼のさらさらと痛みのない髪の毛の感触を味わい、そこから手を離す。どうやらは照れているらしく、耳を赤く染め、目を右往左往させていた。どうにかしてポーカーフェイスを繕おうとしているのがバレバレで、紅炎はそれがおかしくてクク、と笑う。
「下がって良い。明日に備えて早く休め」
「はい、失礼します」
これ以上彼を傍に控えさせている理由もないので、紅炎はそう言った。彼は礼をして下がる。そっと、音を立てないように扉を閉めた彼に、また彼への好感度は上がった。


 前を歩く紅炎の斜め後ろを彼の速度に合わせて、は歩く。彼の歩幅と彼女の歩幅とでは差があり、彼女はいくらか早歩きしなければならないが、主である彼にそのようなことを言うことなど出来るわけなく、また彼女も自分が速く歩けば良いと思っているため、彼女は足元に神経を集中させていた。
ふと、前方から紅炎の義理の妹である白瑛と、その従者である青瞬がやって来た。紅炎を視界に入れた彼らは礼をして、彼に挨拶をした。もまた、彼らに礼をする。
「書庫からの帰りですか?紅炎殿」
「ああ、こいつ一人に持たすには量が多かったからな」
主同士が会話している中、と青瞬は互いに小声で挨拶をしていた。主たちの会話の邪魔にならないようにと配慮されていたそれだったが、二人の会話に白瑛だけでなく、紅炎も目を向けた。その様子に思わず二人は失礼をしました、と拳を合わせた。
「いや、良い。お前たち、何時の間に知り合っていた?」
を見下ろす紅炎の目には怒りはなく――むしろ彼の場合、何も感情が見えない表情をしているのが常である――代わりに疑問の色が少しばかり浮かんでいる。彼女は自身の主に、つい先日でございます。と簡潔に青瞬との出会いを伝えた。
「そうか。お前は青秀以外に知古がいないと聞いていたからな」
やっと青秀以外に友人が出来たのか。そう珍しく言葉が多い彼の様子と、その言葉には目を丸くした。紅炎が自分のことを気にしていてくれたことは嬉しい。しかし、問題は彼の言葉であった。
「だ、誰からそのようなことを…!?」
知古がいないという内容に、途端に慌てだす。その様子を、白瑛と青瞬が微笑ましそうに見ていることにも気付かずに、紅炎へと一歩詰め寄る。彼の言葉によってそれとなく彼女の矜持は傷付けられたのだが、そのようなことには紅炎は気付かずに、青秀だと述べた。
――青秀……!!あの、馬鹿!!
いつも自身を妹のように気にかけてくれている彼だが、今となっては彼女の怒りを煽るだけの存在でしかなく、彼女は心中彼のことを罵った。後でとっちめてやる。そう彼女は彼に報復することを胸に誓う。敬愛する主にそんなことを吹き込むとは。
「わ、私にだって青秀以外の友人ぐらいいます!」
このまま黙っていたら変な誤解をされたままだと、彼女は紅炎や白瑛たちに訴えかけた。何より、そんなことは自身の矜持が許さない。
「ほお?誰だ」
「こ、小雪殿です…」
しかし即座に返ってきた彼の言葉に、言葉が詰まる。青秀以外の友人といえば、何人か世間話が出来る程度の人間しかおらず、彼女が思いついたのは、休憩時間や就寝前によく自分に付き合ってくれる、肌が白くて可愛らしいあの子だった。
「それは紅明の鳩だろう」
「な、なぜそれを…!?」
だが、紅炎には、その小雪が鳩だということを気付かれていたようだった。きっと知らないだろうと、彼女のプライドを守るために行った選択が、まさか自爆行為になるとは思ってもみないことだった。
「前に紅明が話していた」
「うう…」
紅炎は、眉を下げしょぼくれている様子のを見下ろして、少しばかり笑った。やはりこの少年は面白い。いちいちこのような反応を返すとは。彼は未だショックを引きずっている様子のの背を軽く叩いた。
「ふふふ。紅炎殿とは仲が良いのですね」
ふと、前方から聞こえた落ち着きのある笑い声に、彼女ははっと顔を上げた。
「…!も、申し訳ございません…白瑛様の御前で…!」
自分が行なった非礼に慌てて、にこにことこちらを眺めている白瑛に膝を付く。紅炎様に気を取られて白瑛皇女の前で発言を弁えないとは、自分は何と言うことを。
「良いのですよ。こんな風に紅炎殿が従者の方とじゃれるのは珍しいと思ったので」
しかし、思いの外彼女から優しい言葉を投げかけられ、はそっと彼女を見上げた。よりも背の高い彼女は、聖母のように優しく微笑み、を見下ろしている。その寛大な様子に、また彼女は白瑛に頭を下げた。
――道理で白瑛様を慕う部下が多い筈だ。こんなにも優しい貴人に、尽くしたいと思わぬ人間はいまい。
は紅炎と別れ、青瞬と歩いていく彼女の後ろ姿を眺めながら、そう思っていた。


2014/06/17



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