第二十六夜

 周の反乱を治めた後、紅炎たちは1週間程周に留まりこの混乱を鎮めるために奔走した。奴隷制度を煌帝国だけではなく、統治する国々に入れていくことにしたことで、これからは今までとは違う社会体制になるだろう。それを考えたのは紅明だ。自分より明らかに下の者がいれば反乱は起きない。この制度を導入することで、煌帝国はますます統治下の国々を治めやすくなる。
――法と秩序を扱う文官たちが指導者として来るまでの辛抱。そういうことでもそのために目まぐるしく働き、ほとんど寝ていない状態ではあったが、逆に安堵していた。寝てしまうと、あの時受けた拷問の記憶が悪夢となって彼女の前に現れるのだ。それを弱いと思う。青秀たちが同じように拷問を受けても、きっと彼らはこんな風に夢に見たりしない。
そんな彼女に、紅炎や青秀たちはいつも通りに接してくれた。忙しく働かせてくる彼らだったが、唯一行くなと言われたゴミ処理施設。紅炎にまで言われているのだから行くことはないが、それでも彼女は気になる。
もしかして、数日間連続で紅炎が手の平を拭いた手拭いが微かに赤黒く染まっていることと関係しているのだろうか。そう思ったが彼女は聞けない。だから彼女は、そこに何が捨てられたのか知らなかった。


 周を治める者たちがやって来たことで、たちは首都洛昌へ戻ってくることがようやく出来た。禁城での穏やかな様子にほうと息を吐く。やはり戦よりもこうした穏やかな時を過ごす方が良い。そう思っているのは紅炎とて同じなのか、歴史書を読み耽っていた。
今は休憩時間なので生憎彼の所に行くことは叶わない。たまには外に出かけろと言う彼に従って禁城内をぶらぶら歩いているのだが、何をすれば良いのだろう。一度紅玉のところに行くことを考え彼女の棟にお邪魔してみたが、夏黄文と剣術の稽古中だった為、邪魔にならぬようそこを後にした。そうすると、友達もろくにいない彼女は特にすることがないのである。これなら紅炎の傍で控えている方が心を休めることができる。そう思った彼女の視界に、久しぶりに秋紫と辛苑が現れた。こんにちは、と声をかければ彼女たちはに気が付き、少しばかり驚いた後に拳を重ね頭を下げる。それに彼女の上げかけた手が所在無くふよふよと動き、最終的にそのまま元の場所に戻った。
――今までどおりで良かったのに。
「顔色が優れないようですが」
「武官たちの話で聞きました。初陣の紅玉様を守り抜いたと」
どう話せば良いのだろうか、と少し居心地の悪さを感じていただったが、何故だかそれは彼女たちもそうらしくて。どことなく口が重たい様子の彼女たちに、首を傾げる。
確かに紅玉を守りきることはできたが、結局紅炎と紅玉に助けに来てもらったのだから大したことはできていない。ただ、愛しい主の妹君を彼から奪わせたくない一心だった。
の謙遜とも取れる言葉に彼女たちは眉を寄せた。ぐっと両手を握りしめている彼女たちにいよいよ具合が悪いのだろうかとさえ思いだした彼女だったが、意を決したように秋紫がを見やる。
「ごめんなさい、私たちあなたに嫉妬して…嫌がらせをしていました」
「本当にごめんなさい…」
思いも寄らぬその言葉には「えっ」と驚きの声を上げた。彼女たちの話しを聞く限り、彼女たちは従者の頃ののことをいけ好かぬ少年として見ており、その少年がまさかの女で女官として働きだしたのを発見して、嫌がらせを行なったようだ。その内容は紅炎の部屋付きにすることで。
彼女たちの話を聞いていてはとても腹が立った。あの時、は一生紅炎の傍に居られなくても良い、ただ役に立ちたい一心で禁城に戻ってきたというのに。紅炎の部屋付きにされたおかげでどれほど心が傷付いたか。
あんなにものことを苦しめたのは彼女たちだったのか。その事実に、彼女の眉はぎゅっと寄った。だけど、それと同時に気付く。彼女たちに紅炎の部屋付きにされなければきっとあのままは紅炎と一生顔を合わせることはなかったかもしれないということに。それでは彼に許して貰うことすら出来なかったということだ。
そう思ったら、逆に彼女たちのおかげでは従者に戻れたと言えるのではないだろうか。を苦境に陥れたのは彼女たちだが、そのおかげで彼女は今ここにいる。
「あの時は本当に悲しかったけど、今はきちんと紅炎様と向き合えて良かったと思ってます」
自分の中で整理した考えを彼女たちに伝えれば、何それと彼女たちは不服そうで。もっとが彼女たちを罵ると思っていたらしい。そんな彼女たちに勿論腹が立ったことは言った。だけど、それ以上に彼女たちが強制的に紅炎と引き合わせていなかったら結局は逃げたままであったことも。そうすれば、彼女たちはようやく納得して。
「だ、だから…」
これから言おうとしていることに顔が熱くなる。断られないかなとか、変だって思われないかなとか。に前を見て進む力をくれた彼女たちにお願いしたかった。
「お、友達に…なってくれませんか?」
心臓がばくばく言う。きょどきょどしながら彼女たちの表情を確認してみれば、ぽかんと口を開いた二人。先に辛苑が正気に戻ってぷはっと笑った。それにつられて戻ってきた秋紫も笑う。
「普通、嫌がらせした相手に向かって友達になってなんて言わないわよ」
「本当!それに面と向かって友達になってなんて言い方をする子もいないわ」
あははと笑った彼女たちは先程までの堅苦しい話し方ではない。心底おかしいといったその様子に変なことをしてしまったのかと恥ずかしくなるけれど、彼女たちはその後に顔を見合わせて微笑んだ。
「もう、意地悪なんてしないわ」
「これからよろしく」
その言葉にぱっとの表情が明るくなった。手を差し出す彼女たちに同じように手を差し出した彼女。ありがとうと笑う彼女に秋紫たちがこちらの台詞だと、またけらけら笑った。


休憩時間が終り紅炎の部屋に戻った。彼の傍に控えてお茶を差し出すが、禁城に戻ってからも夢見が悪い彼女は睡眠不足で目が霞む。先程気分が高揚したぶん疲れが出たのだろう。その上、目を開いていることすら耐えがたく、眠気を払うように頭をぶんぶんと振った。そんな彼女に対してちょい、と指で呼んだ紅炎。すぐ彼の隣に立てば彼は書類から目を上げてを見た。
、目の下の隈が酷い有様だぞ」
「申し訳ございません…」
「今夜俺の部屋に来い。就寝着でな」
「?はい」
彼に指摘されたのは目の下の隈。先程辛苑たちにも指摘されたように、それは存在感がある。まるで軍議明けの紅明様のようだ、と自分でも思っていただったが、なぜ就寝着で紅炎の部屋に向かうのか分からない。だが主に命じられたことを断ることなどの精神上出来るわけがないので彼女は頷いた。
 紅炎の命通り、不思議に思いながらも就寝着になってから彼の棟に向かう。夜警の者たちに挨拶をして紅炎の部屋に通してもらい、彼の寝所の扉をノックした。それに入れと返ってくる声。失礼します、と中に入れば既に寝台に乗り上げた紅炎がこちらを見やっていた。彼の姿も就寝着である。その様子に、彼女は扉の前で立ち止まってしまった。まったく理解出来ない。固まるに対して今度は紅炎が訝し気に眉を寄せた。
「どうした、早く寝るぞ」
「じ、従者が主と同じ寝台で寝るなど…!!」
こちらに来いと手招く彼に、首をぶんぶん横に振る。彼の言葉にようやく主が同衾する気なのだと気が付いた彼女は、恐れ多くてそんなことは出来ないと断る。
「案ずるな。取って食いなどせん」
「そういうことではありません!」
お前の心配事はそれか、と当たりをつけた彼だったが、彼女にとってはそういう問題ではない。紅炎はにとって主として崇める対象なのに同衾など出来る筈も無いのだ。日頃の従順なからは考えられない程紅炎に対し盾突く様子に、とうとう痺れを切らした紅炎が寝台から立ち上がり彼女の腕をぐいと引っ張り寝台に乗り上げさせる。わっと目を見開いた彼女はただ紅炎を凝視することしかできなかった。
「お前が夜眠れていないのは分かっている。主として従者の健康を懸念するのは至極当たり前のことだと思うが」
「あ…、……」
はぁと溜息を吐いた彼の瞳は常と変わらぬ輝きを放っているけれど、それでもは彼が自分を案じてくれていることを理解した。彼の言う通り、彼女は毎晩魘されて目を覚ますのだから。隣部屋の青秀に頼るでもなく、ただ一人で悪夢から覚めた後は朝日が昇るまで、寝ないようにしていた。寝てしまえばまた夢の中であの男から爪を剥がれるような気がして。そこまで考えていてくれた紅炎に、は唇をきゅっと噛み締めた。
「……では、一つだけ我が侭を許していただけますか」
「ああ」
「手を握っていてほしいのです。…そうすれば、きっとよく眠れます」
「良いだろう」
紅炎の気遣いは素直に嬉しかった。そのことをきちんと述べながらも、彼女はやはり彼と同じ寝台では寝られないことを伝える。どんなに主として敬愛していても、越えてはいけない壁がある。寝台などもっての外だ。のような者が彼と同じところで寝るなどおこがましいにも程がある。
しかし、は思い切って彼に我が侭を言った。彼に手を握っていて貰えたら、きっと何よりも安心すると思った。それだけで、悪夢など逃げていくような気がした。それは偏に、にとって紅炎が絶対的な帰依を表す存在だから。もういっそ、信仰しているとさえ言えるのかもしれない。
彼女の言葉に頷いた紅炎の表情は至って穏やかだ。そっと彼の寝台から下りて地面に尻をつけ、腕枕をした手を紅炎に静かに伸ばした。甘えるように、縋りつくように伸ばされたその手を彼が大きく節くれた手で包み込む。ぎゅっと握られたそこから、紅炎の体温が伝わってきて、今なら死んでも後悔しないと彼女は思った。
「おやすみなさいませ、紅炎様」
「おやすみ、
ふっと吹き消された蝋燭の光。一瞬後の暗闇に、は久しぶりに安心して眠れそうな気がした。


 翌朝。ピチチと小鳥たちの囀る声では目を覚ました。昨夜は紅炎のおかげで一度も悪夢を見ずにぐっすり眠ることができた。窓から差し込んだ朝日に、目を開く。うつ伏せで寝ていた為、よもや主の寝台を涎で汚してはいないかと心配になった彼女は、視界に入った光景に目を見開く。
視線のすぐ先には紅炎の静謐な寝顔があった。その上、気が付けば彼女の身体はなぜか寝台の上にあって。それに、一人慌てた。こんな所を女官たちに見られたら、絶対に勘違いされてしまう…!
だが、何よりも目を惹くのは、紅炎と彼女の手が未だに繋がれたままの状態。紅炎の包容力ある大きな手に包み込まれている自身の手を見て、彼女は無性に泣きだしたくなってしまった。
「紅炎様……」
幸せすぎて、胸が張り裂けそうだ。


2016/01/27


inserted by FC2 system