第二十夜

 数日経ってからが従者の身分に戻ることができて、一番に喜んだのは青秀だった。
!!お前、許して貰ったんだな!」
「青しゅ――ぐ、ぐるし…!!」
紅炎の部屋の前にやって来たを発見した青秀が満面の笑みで駆けてきたと思いきや、その勢いのまま彼女のことを逞しい腕で抱きしめた。彼女と青秀の身長の差は今ではもうかなり開いている。そんな巨体から力加減もなく抱きしめられた彼女の笑みは一瞬で消え、苦悶の表情に変わった。し、死ぬ。彼の髪の毛の蛇が喜ぶようにうねっているのも何だかこの場をシュールにさせている。
「青秀、せっかくが従者に戻れたというのにお前のせいで死んだら大変だぞ」
「炎彰殿…!」
良かった良かった、と背中をバシンバシン叩いてくる青秀の手を止めた炎彰に、はほっとして深々と礼をした。その彼の後ろから楽禁や黒惇もやって来て、彼女は唇をきゅっと結ぶ。
「本日からまた紅炎様の従者になりました、です!」
よろしくお願いします。と膝を付いて拳を合わせた彼女に、彼らは普段よりも柔和な笑みを浮かべる。彼女が紅炎の部屋付きになってからというもの、彼女と直接顔を合わせるということはしていなかった彼らだったが、彼女が普段どのように働いているのかを独自に見守っていた為、彼女の決意の強さは伝わっていたのだ。


 再び従者の身になれたにとっては慌ただしいことだが、煌帝国は新たに他国との戦を控えていた。占領下の周という小国家が反乱を起こそうとしているのだ。それに紅炎や紅明の皇子二人を含む軍議で昼夜問わず議論が繰り返されている。とて従者としてその軍議に参加することはあっても、青秀と同様に難しい話はよく分からない。だが、主たちが真剣な表情で話し合う様を眺めていて何も思わない程馬鹿でもなかった。
 長い議論の中での多少の休憩の時間に主たちに配膳するお茶を淹れる為に給仕室へ向かうと青秀。
「良かったな、お前やっと初陣だろ?早く眷属器が欲しいって言ってたもんな」
「うん。従者に戻してもらえてすぐだから行かせてもらえないかと思ってたけど良かった」
青秀の言葉にほっとして笑みを浮かべればそうだよなと彼も納得して頷く。彼女としては、何が何でも紅炎の役に立ちたい思いで一杯だったのだ、此度の戦争で彼の手助けになることが出来るのならそれ以上のことはない。その上、紅炎はこの戦争を第八皇女である紅玉の初陣にするつもりだった。彼が兄として妹の武の道を切り開こうとしているのだ、それを絶対に成功させねばならない。
と青秀は戦争について話しながらもお茶を湯呑みに注ぐ。その最中、彼はちらりとの服装に目をやった。
「お前、女として生活できんのにあの頃の服着てんのかよ」
「え?うん。何だか、こっちの方か落ち着くんだ」
彼が指差したのは、彼女がまだ男装していた頃に着ていた着物であった。あの頃と違ってサラシは巻いていないので、女だと分かるような身体つきではあれど、遠目から見ればやはり男として認識されるだろう。
不思議そうに首を傾げている青秀に、そういうもんなのと彼女は笑った。紅炎のもとに戻ると決めた時から、女としての幸せなどとうに諦めるつもりだった。女や男である以前に、は紅炎の従者である。この身体や命は紅炎のためだけに使うもの。従者として物事を成すには、女の恰好は些か不便であった。ただ、それだけのことだ。


 従者に戻ってからというもの、今まで女官として働いていたと交流を持っていた者とはほとんど接していない。彼女の力量を認めてくれていた女官長などとはたまに世間話をすることがあるが、それ以外の者たちとは遠目に見つけることがあってもお互いに仕事があるせいで話しかけることもできなかった。

「はい、紅炎様」
紅炎の傍に控えて巻物の整理を行っていたの鼓膜を、彼の声が揺らす。主を振り返ればこちらに来いと彼が手招くので、彼女は素直に彼の隣に向い、彼を見上げる。
「お前はこの戦が初陣だろう」
「はい」
「紅玉もお前と同じだ。色々話を聞いてやってくれないか」
「私などが紅玉様のお力になれるか分かりませんが、ぜひ」
ぼんやりした様子でありながらも、彼の言動には初陣を控える妹を思いやる気持ちが読み取れる。皇族という複雑な家族関係でありながらも、そうやって妹を慮っている彼に、は精一杯応えるつもりだった。大きく頷いて、紅炎に約束すれば彼はそうかと納得してくれたようだ。
そうと決まれば善は急げ。なんて若干せっかちな頭脳のは紅炎に許可をもらい、紅玉がいる棟に向かうことにした。初陣の女同士、身分は違っても不安や悩みは似通っているだろう。彼女は皇女という立場だから背負うものの重さもあるし、出来ることなら少しでもその心を軽くしたい。
ふと、彼女は紅玉の棟から主の所へ向かう途中でありそうな夏黄文を見つけた。
「夏黄文殿!」
「やや、これは殿」
お互いに拳を合わせて挨拶をする。何度か顔を合わせてはいたが、大して話す機会もなく二人はほとんど初対面のような関係であったが、それでも顔が分かっているというのは話しやすい。は紅炎から託された思いを彼に伝えれば、彼はそれを心強く思ってくれたのか、ぜひと微笑んでくれた。
姫は丁度稽古後の湯浴みを終えた頃でしょう、と案内してくれる彼の言う通り、訪れた紅玉の部屋ではほのかに頬を赤く染めた紅玉が椅子に腰を下ろしている。
夏黄文から話を聞いたのか、紅炎が自分の為に配慮してくれたことがとても嬉しかったのだろう、従者でしかない相手に丁寧に椅子を勧めてくれた。失礼にならないように、彼女は自己紹介をしてから彼女の前に腰を下ろす。
「実は、私も今回の戦争が初陣でして、紅玉姫とお話をさせていただきたくて」
「まぁ、そうなの。私、あなたの噂をよく聞いてましたわ」
15歳にしてはやや大人らしい表情をしていた紅玉だったが、話し始めてみればそれはすぐに変化し年相応になる。皇族の女性たちのツンとすました佇まいを想像していたにとって、紅玉は良い意味でその意識を打ち壊してくれた。少しばかり照れた様子で、女だてらに武官から紅炎の従者として出世している、という内容を語ってくれた彼女に、の方まで照れてしまう。実際は主から解雇もされた身ではあるが、こうして紅玉が気にしていないようであるなら、と彼女は笑みを浮かべて紅玉の話を聞く。
「今回は…紅炎お兄様が私のために兵を割いてくださってるから…」
絶対にお役に立たないと。そう言ってぎゅっと拳を握りしめる紅玉の表情は緊張を帯びていた。敬愛する兄に認められたいという気持ちや少人数でありながらも与えられた兵士たちの命を預かる重責を感じているのだろう。
「ええ、私も紅玉姫に負けぬよう、尽力しないと駄目ですね」
「あらぁ!それじゃあどっちが紅炎お兄様のお役に立てるか勝負よ!」
しかし、が笑みを浮かべてそう言えば、根が負けず嫌いであるらしい紅玉はそれで不安よりもやる気が勝ったらしい、ぐっと力が入った様子できりっとした笑みを浮かべる。勝負は勿論紅玉の勝ちで確定だろうが、それでもへの闘志が不安を和らげてくれるのなら、と彼女はその勝負に乗ることにした。それにきゃあと喜ぶ彼女は、年相応の少女であった。
元気を取り戻した様子の彼女に、彼女の後ろに控えていた夏黄文もいくらかほっとした様子。その後もあれこれと楽しく会話をしていたが、夏黄文と目が合ったことで、そろそろ退室しようとは椅子から腰を持ち上げた。
「本日は紅玉姫と謁見させていただき、ありがとうございます」
「あ、あの、…」
仕事がありますので、と席を立ったに紅玉も同じように立ち上がる。そわそわしている彼女に、どうしたのだろうと内心首を傾げる。そうすれば、彼女はぐっと拳を握りしめてを見つめた。
「こ、これからも、私とお喋りしても良いわよぉ」
桃緋色に染まった紅玉の頬に少しばかり逸らされた瞳。その様子に、は彼女が何を言いたいのか理解した。ありがとうございますと膝をつき、彼女を笑顔で見上げれば彼女はぱあっと花が咲いたような笑顔になり、それを見た夏黄文もほっと一安心しているようだった。皇女である紅玉の友人には恐れ多くてなることはできないし、許されない。だが、こうして彼女と穏やかに話し、共に笑うことなら出来る。
「戦が終りましたら、紅玉様の武勇伝をぜひお聞かせくださいね」
「分かってるわぁ!」
だから、絶対に死なないでね。そう言った紅玉にはしっかりと頷いた。紅玉のなさねばならぬことと、の従者としての務めは違う。だが、心は同じであった。
愛する主、そして兄のために役に立ちたいという思いで、この時の二人は確かにしっかり繋がっていた。


2016/01/23


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