第十九夜

 の涙を見るのは初めてではなかった。あの時、紅炎が解雇を命じた時に一度見ていたから。だが。床に転がる巻物を拾い上げ、それを紐解く。中身は、今までの禁城の書庫にはないものだ。理由は、あまりにもその資料が周知の事実を書き連ねている物だから。しかし、知識として知っているのと実際に読むのとではやはり違うだろう。
「……」
そっとそれを机の端に置いて、昼間の出来事を思い出す。紅覇から提案されたそれは何故か同じくやって来た紅明も賛成して、何故ここまで気に掛けるのかと不思議に思った程だ。
――そう、紅炎は紅覇の従者の魔道士たちの手によって、水晶版を通して彼と話すのことを見ていたのだ。彼女はそれに気が付いていない様子で。それ故、話していることは真実に近いのだろうと思う。
「兄王様、たった一度の嘘などお許しになられては?」
「お前はやけにあいつの肩を持つな」
「以前笑わせてもらった恩があるので。少しだけですよ」
横に座って同じくその光景を見ている紅明は始終穏やかな様子だった。まるで、何をそんなに怒る必要があるのだと言わんばかりに。それに紅炎は眉を寄せる。たった一度の嘘だろうが、あの時確かに紅炎は彼女から裏切られた。従者が主を裏切るなどあって良いことか。彼らはその身分ゆえ、誰彼かまわず信用することなどできないのに。部下たちだって、全てを信じているわけではない。だが、長年連れ添った従者たちは信用している。それにもかかわらず、彼女はずっと彼を欺き続けていたのだ。
平生の彼であったら、その程度の嘘など取るに足らぬことと受け流すことは出来た。だが、に対してだけはそれが出来なかった。それが何故かは分からないが、それでも彼女だからこそ許せないと思った。可愛がってやっていたからこそ、それがいつまでも怒りとして心に残っている。
――許すか、許さないか。
そっと思考の渦から現実に戻ってきた紅炎はふんと鼻を鳴らしてちらりと内容を見た巻物を元の場所に戻した。


 翌朝、の目覚めはあまり良くないものであった。昨夜の記憶が、彼女を苦しめるのだ。ううん、と唸って寝台から起き上がる。同室の子たちはまだ仲良く夢の中のようだった。
――だけど、今日から私は紅炎様の部屋付きではなくなる。
それだけが、唯一の救いだろうか。あんな別れになってしまったのはとても心残りだけれど、これ以上主の側にいて彼を不快な思いにさせることはなくなるのかと思うと、少しばかり気が楽になる。
はあ、と溜息を吐いて女官の服に腕を通していく。同室の少女たちを起こさぬように気配を消してそっと部屋を出て、食堂へと向かった。
普段通りの道で食堂へ向かうと、そこには珍しく秋紫と辛苑がいた。相変わらず綺麗な容姿をしている二人におはようと声をかけられ、彼女は同じように挨拶をして頭を下げた。
「あなた凄いじゃない。紅炎様のお部屋付きなんて」
「本当。普通の新人には回ってこないわよね」
彼女たちの席に着いた途端話された内容に、は曖昧に頷くことしかできない。紅炎のお部屋付きという言葉で思い返されるのは、彼と再会してからの彼の冷酷な態度。苦笑して、本日からは外される筈ですと彼女たちに伝えれば、え?と首を傾げる彼女たち。それにが紅覇との約束を話すよりも先に、側を通りかかった女官長――それに気付いた三人は同時に彼女に礼をした――が「何を言っているのですか」と声を上げた。
それに、までもえ?と首を傾げる。
さんの仕事の良さは紅炎様もお認めです。これからも励むように」
「え、そんな…」
常にキリッとしていた女官長が珍しく柔和な笑みを浮かべ、を褒める。それ自体は嬉しいことなのだが、今日からも変わらず紅炎の部屋付きとはいったいどういうことだろうか。困惑するは女官長に紅覇との約束を簡潔に話してみるが、それでも彼女は「そんなことは聞いていませんよ。寧ろ、紅覇様もあなたをお褒めになられていました」と言う始末。
――な、なんで…。紅覇様はいったい何をお考えなのだろう。
動揺を露わにした彼女はまともに朝餉を食べることができなかった。


 朝餉を持ち紅炎の部屋に向かう。初めて彼の部屋付きになったと聞かされた時のように、手が、足が情けなく震える。昨夜、あんなにも彼に対して無礼な態度を取ってしまったのに、今更顔を合わせるなんて出来ようか。そう思ったところで、どうして紅覇は女官長に話をつけてくれなかったのだろうか、と眉を寄せる。だが彼は第三皇子殿下だ。本来ならなどの頼みなど、聞かなくても良い身分なのである。だが、何故。そう悶々としていた彼女だったが、紅炎の部屋の前に着いたことで気持ちを改める。
ここで何か失態をしてしまえば、昨日と同じになってしまう。
「朝餉をお持ちしました。失礼いたします」
彼女の言葉に対して返事がないのはいつものこと。それに慣れつつある自分に呆れながらも、そっと音を立てぬように彼の部屋の中に入り、大きな机の上に料理を並べていく。紅炎は寝台の側の椅子に座って巻物に集中しているようだった。二人の間に会話は生まれない。しいん、として耳鳴りが起きそうな程に静かな空間に時折、磁器の当たる音が微かに響くのみである。
それが再会してからの常だった。それが、常である筈だった。

その声にびくりと肩が震えた。静寂を破って彼女の身体に向かって投げかけられた声は、確かに彼女の名の響きである。突如、部屋がぐわんと大きく揺れたように感じた彼女だったが、実際は混乱のあまりに自分の身体がふらついて床に尻餅をついただけだった。女官にあるまじき行為だったが、今はそんなことも考えられない程にの頭の中は真っ白で。
ぽかんとして返事も出来ない放心状態の彼女の目に、紅炎が椅子から立ち上がりこちらに歩み寄るのが映った。
ぺたん、と床にへたりこんだは目を見開いたまま、目の前にやって来た彼を見上げる。きっと、間抜けな顔をしていたことだろう。
「お前を許そう」
たった、一言。平生の彼のように、感情の起伏が窺えない表情で彼が言う。それに、彼女の瞳からは勝手に涙が溢れ出した。ようやっと動いた唇からは、「なぜ」という擦れた声しか出ない。昨夜、彼女は彼に対して無礼な行いをして、みっともなく泣き喚いたというのに。どこに許しをいただく要素があったのだろう。
「俺が許すと言ったのだ。それで良いだろう」
彼は理由を教えてくれなかった。しかし、それは何故かの心を瞬間的に歓喜で満たしてくれた。紅炎様、と彼の名を紡ぐ唇が震える。ぐいとの腕を引っ張って起こしてくれる彼の姿が、溢れる涙で滲んで。彼女は何度も申し訳ございませんでしたと彼に頭を下げた。
「俺の従者として傍にいろ」
「はい……!もう一度、紅炎様の従者にしてください…!!」
次から次へと涙を大量に流すに、紅炎は再会してから初めてふっと笑った。その笑みに胸を締め付けられる。
――もう、二度と紅炎様に嘘は申さない。
この方の為に生きていくのだ。この方の為だけに命を捧げる。煌帝国でも皇帝でもない、世界でたった一人、唯一無二の私の王。彼を守るためなら盾にでも矛にでもなろう。彼の前に立ちはだかる壁があれば、壊してみせる。私が、紅炎様の従者として。
そう、決意した。神という存在があったのなら、彼女はきっとその神にも誓いを立てていただろう。
涙でぐしゃぐしゃになったの顔を見て、「なぜこの顔が男に見えていたんだろうな」と彼が小さく呟いた。


2015/12/18


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