第十八夜

 紅炎の部屋付きはそれからも毎日あった。が彼の部屋に赴いても彼は目を合わせようとはせず、彼女もまた彼の機嫌を損ねぬように必要最低限の言葉のみを口にし、彼とあまり関わらないようにしていた。
しかし、それでも彼女の心はズキズキと痛む。あの頃であれば、小さくとも向けられた微笑や、些細なことで褒めてくれた言葉、そして何より従者としての思いやりを与えられていたそれらが、今はもうない。
彼の部屋を掃除する中で、ふと彼女はあの時買ったトラン語の巻物の存在を思い出した。買ってからまだ一度として開いていないそれは、にとっては必要ないものだ。寧ろ、トランの資料を好んで読む紅炎にこそふさわしい。
ちらり、と巻物を読んでいる彼に視線を寄こしたがすぐに逸らした。気配に鋭い彼であれば少しの視線でもすぐに気付くだろうし、そんなことで彼の趣味の時間を邪魔したくないから。
失礼します、と礼をしては彼の部屋から音を立てずに出て行った。
「っと…!」
「こ、紅覇様!!失礼いたしました」
しかし、丁度扉の先に第三皇子の紅覇が目を丸くした状態で立っていた。どうやらが扉を開けた時に、ノックをしようとしていたらしい。ご無事ですかと彼を心配する従者たちの様子に、慌てて拳を合わせ地面に膝を付けば、「まぁ良いよ〜」と間延びした声で許しをいただいた。良かった。もしその綺麗なご尊顔に傷でもつけていたら物理的に首が飛んでいたかもしれない。紅炎に何か用があったのだろうから、とすぐに離れようとした彼女だったが彼の「ちょっと待って」という声に足を止める。
「お前、確か炎兄に追い出された従者じゃなかったっけ〜?」
「は、はい……仰る通りでございます…」
可愛らしい容姿からは想像しにくい、ジロリとした鋭い瞳を紅覇から向けられた彼女は恐る恐る頷く。もしや、紅炎の命に従わずのこのこ帰って来たことが彼の怒りに触れたのだろうか。彼は紅炎のことを本当に兄として尊敬しているから、の存在を許せなかったのかもしれない。
禁城の中でも過激な性格をしていると評判な紅覇に鋭い瞳を向けられ、はこれからどうなるのかと恐れた。しかし彼は紅炎への用を思い出したのだろう、に「1時間後に僕の部屋の前で待ってて〜」と言い紅炎の部屋の扉をノックした。それを見て、は慌ててはいと頷いた。急いで離れないと。
紅炎の部屋の側に彼女の気配がいつまでもあっては彼も心休まらないだろう。扉の中に消えゆく紅覇に深々と礼をして、彼女は背を向けた。

 女官長に紅覇に呼び出された旨を伝えると、日頃の仕事ぶりを認めてもらっているおかげで、仕事を休み彼のもとに行くことを許された。定刻通り、紅覇の部屋で待っていると紅炎の棟の方角からやって来た紅覇が「忘れずに来たんだね〜」とを見やる。
「じゃ、入って」
「失礼いたします」
彼の執務室に通された彼女は、純々に勧められた椅子に腰を下ろす。その前の大きな腰掛けにゆったりとした様子で座った紅覇は仁々からお茶を貰ってそれに口を付けた。これからいったい何が始まるのか、と背中に冷や汗をかき背筋をぴんと伸ばしている様子のは彼からしたら滑稽に映ったかもしれない。
殿もどうぞ、と名前を憶えていてくれた鳴鳳からお茶を頂き、彼女はありがとうございますと彼に礼を言った。あの頃と同じように、優し気な笑みをしている彼にずきんと胸が痛む。もう、私は紅炎様の従者ではないのに。
「で?お前、炎兄に追い出されたのにどうして戻ってきたわけ?」
寛いだ様子である彼からの言葉に、お茶を飲んだばかりだというのに口の中がカラカラと干乾びていく。何と答えるのが正解なのだろうか。そう逡巡する彼女に、本心で言ってよねと彼から釘を刺された。そうすれば、はいと頷くしかなく。そっと、禁城から離れていた頃の記憶を思い起こしながら、彼女は彼に途中何度かつっかえながらも説明した。
――紅炎に仕方なしとはいえ嘘を吐いていたことの罪悪感。故郷で結婚しようか悩んだが、やはり自分は彼の役に立つのが幸せだと感じたこと。そして、また禁城で働き、存在を知られないような遠くからで良いから彼の姿を見ていたかったこと。
それらを話した彼女に、紅覇は「ふ〜ん」と頷いた。
「それで戻ってきたんだ」
「はい、申し訳ございません…」
ちら、と向けられた彼の瞳にはそっと目を伏せた。だが、何で謝るの?と彼が不思議そうに首を傾げる。それにの方が戸惑った。だって、紅炎の命に従わないで勝手に帰ってくるなんて、彼にとっては許せないことだろうに。
「許すのは僕じゃない、炎兄だよ。僕はお前がどうなろうが関係ないしね〜」
その言葉に増々頭が垂れる。確かに、彼の言う通りだ。彼に謝罪しても、そして彼に許されても何も現状は変わらない。だけど、と続けられた言葉には落ちていた視線を紅覇に戻した。
「お前が本当に炎兄のことを思ってるのは伝わったよ。そういう奴嫌いじゃないし〜、炎兄の部屋付きになってるのが辛いなら僕から女官長に言ってあげようか?」
「よ、よろしいのですか?紅覇様…」
爪を麗々に研いでもらっている彼からの言葉に、先程までの暗い気持ちが吹き飛ぶ。紅炎の部屋付きになってからというもの、彼と共にいられることに嬉しさを感じる以上に罪悪感と悲しみ、そして苦痛などの負の感情を覚えることが多くなっていたのだ。勿論、紅炎も彼女がいることによって不快になっているのだから、紅覇が計らってくれるならその方が良いのかもしれない。
「うん。じゃあ後で伝えといてあげる〜」
「ありがとうございます、紅覇様」
用はそれだけだからもう良いよ、と言う彼に拳を合わせて深々と礼をする。少しばかり、肩の荷が下りた気がした。静かに彼の政務室から出て、ほっと一息吐く。
これでもう、紅炎と直々に顔を合わせることも無くなるのか。我が侭を言えば、それは寂しいと思う。だけど、そうしなくてはいけない程、彼女は紅炎から拒絶されているのだから、仕方がないのだ。
きっともう今日で最後になるだろう。その前に、彼にあの時買った巻物を渡してみようと思った。いらないと言われるだろうけど、何もしないで諦めるのは勿体無い気がして。

 紅炎の夕餉の仕度をする際に巻物を懐に入れて来た。カチャ、となるべく音を立てないように並べた豪華な料理を眺めて、「お食事の用意が出来ました」と彼を呼ぶ。そうすれば彼は無言のまま席に着いた。普段であれば、は彼が席に着いた時点で部屋を出ている。しかし、今日は、今日だけはそのままそこに立ち続けた。
それに気付いた紅炎がちらりとを見やる。驚くほど心臓が激しく喚いていた。
「お食事の前に、こちらをご覧になっていただきたいても…?」
「…何だ、これは」
そっと差し出したそれは、トランの文化を残していく為の物語。きっと、よりも紅炎の方が活用できる。そう思って彼に渡しただったが、はらりと紐解いたそれを見て紅炎は薄く笑った。
「これで俺の気を引くつもりか」
中身を確認しふんと鼻で笑った彼の言葉にはぽかんとした。間抜け面だったかもしれない。だが、それ程までに彼の言葉を理解出来なかった。
「俺に媚びて許しを請うなど…」
コロコロ、と床に転がった巻物。それを確認した所で、漸く彼の言葉が脳に浸透して、はカッと顔に血が上った。
――許しを請う?私が、紅炎様に?許されないことをしたのに、そんな巻物一つで貴方に許してもらおうなんて。
わなわなと身体が震えるのは、初めて感じた紅炎への怒りから。悲しみや動揺も多く含まれていたかもしれない。
「媚びるなど…!私はただ、この巻物を見た時に紅炎様がお喜びに――!!」
喉がぐっと詰まって、熱くなる目頭。の思いが彼にとっては媚びているように見えたことが、とてもショックだった。私はただ、紅炎様の喜ぶ顔が見たかっただけなのに。しかし言葉の途中で感情のままに彼に声を荒げてしまったことに気付き、はっとして深々と礼をした。
涙で歪んだ視界では、彼の表情は良く分からない。
「ご無礼をお許しください。その巻物は捨てるなり焼くなりしてくださって結構です」
では。そう言って拳を合わせ彼の部屋から出て行く。ずず、と鼻を啜って暗くなった中庭を足早に進んだ。周囲に漂う金木犀の香りが殊更彼女の涙を誘発して、止まらない。
――きっともう彼と直接会うことは無くなるのに、最後がこんなんだなんて。
流れる涙を袖で拭うけれど、次から次へとそれは溢れてくる。もう、やだ。遠くから見ているだけで良かった。彼の傍にいなくても良かった。近付いたら傷付くことなんて最初から分かっていた。それなのに、何もしないで見ていられなかったは馬鹿だ。
「紅炎様…っ」
彼女の小さな嘆きは夜空に吸い込まれていった。

2015/10/11


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