第十七夜

 女官として禁城で暮らし始めてから4カ月。その頃にはもう、は大抵の仕事を覚え、より効率のいい方法で仕事を熟していくことも出来るようになっていた。
同室の少女たちとも、それなりに打ち解けることが出来て、お互いに心の余裕が出始めた最近では、仕事が終わった夜に就寝時間までの数分間を話して過ごすことも出来る。彼女らは身体を鍛えていたとは違い、体力がそこまで無いせいか、仕事の量が多くて大変だとよく口にした。そんな彼女たちに、先輩たちがそうであるようにいずれ慣れると励ますことがの常である。
 ふわあと欠伸をして起き上がり、寝着から女官の服に着替えていく。同室の少女たちはまだ眠っているが、この時間帯に起きてしまうのは、彼女が従者だった頃からの癖だ。今までは長くなっていった髪をポニーテールにしていたが、今は下ろした状態でいる。従者と女官が関わることはそれ程多くないが、従者だった彼女の面影を覚えている女官たちも中にはいるだろう。そのような者たちに紅炎の従者をしていた者だと分からないようにするために、彼女は髪を結ぶのを止めたのだ。
胸まである髪は正直結ばないと邪魔だ。だが、私がここで働いていることを紅炎に知られないためには仕方ないだろう。そう髪に手を伸ばすのを諦め、彼女は少し早いものの朝食に向かうことにした。
同室の少女たちを起こさないように扉をそっと開け閉めして、廊下へと出る。初夏のこの季節はまだ朝が肌寒いが、暫くすれば暑さを増すだろう。廊下を歩いて女官たちの食堂へと向かう途中、ばったりと数人いる女官長のうちの一人と出会った。拳を重ね、礼をする。
「おはよう、早いのね」
「おはようございます。昔から早起きだったので」
にこりと笑う彼女に、知らず知らず溜めていた息を少し吐き出す。早起きは良いことだと、彼女に好感を抱いたのか女官長は彼女の名前を聞いた。ですと彼女が言えば、ああと何故か頷く女官長。
食堂の扉を開けて中に入りながらも、彼女が丁度良かったわとを見やった。何が丁度良かったのだろうと不思議そうに首を傾げる彼女に、思わぬ言葉が女官長から紡がれた。
「今日から紅炎様の身の回りのお世話をして頂戴」
「えっ」
丁度紅炎様お付の女官が体調不良で辞めてしまった所だったと彼女は言う。だが、にしてみれば、その頼みは複雑でどうにかそれを他の者に代わってもらえないかと女官長に申し上げた。私のような新米の女官ではきっと紅炎様のお怒りに触れてしまいます、と。下積み時代の彼女よりも、もっと上手く出来る女官は他にもたくさんいる筈である。しかし、彼女はどこで聞いたのか知らないがの優秀さを知っているらしい。
「何年か働いている女官たちにも負けない能力なのだから大丈夫ですよ」
「で、ですが……」
折角料理を盆に乗せて席に着いても、この会話のせいで全く口にすることが出来ない。もだもだと尚断ろうとする彼女に、「これは命令です」と女官長がやや目付きを鋭くする。上司にそこまで言われてしまえば断れる筈も無く、彼女ははいと頷いた。
「お世話と言っても、何から何までするわけではないのだから安心なさい」
「はい」
些か顔色を悪くさせたを安心させるように微笑む女官長に、彼女は弱々しく頷く。今から彼と再会することを考えるだけで胃が痛くなる思いだ。彼女は、どう挨拶をすれば良いのか、まずは何を話すべきなのかを頭の中でぐるぐる考えながら朝食を詰め込んで行った。

 紅炎の部屋の前まで朝餉を運ぶ手が震える。思い出すのは、解雇を言い渡された時の彼の冷たい眼差しと声。もし、私がのこのこと戻ってきた姿を見たら彼はどう言うだろうか。私は紅炎様を影でお支え出来たらそれで良かったのに…。彼女は彼の怒る姿を想像して心臓を五月蠅くさせた。
何を話すかは一通りシュミレーションしてきた。だが、緊張はピークに達して今にも逃げ出してしまいそうで。大きく深呼吸をして、紅炎の部屋の前に立つ。こんこん、とノックをして「朝餉をお持ちしました」と上ずった声で言えば、少しして入れと促された。
心臓がけたたましく鳴っている。五月蠅い心臓に合わせて忙しなくなる呼吸を抑えて、失礼しますと彼女は扉をそっと開けて中に入った。紅炎はこちらに目をやらず、既に着替えた様子で椅子に腰かけ巻物を読んでいる。朝餉を並べるか、先に挨拶をするか迷ったが、挨拶をしない方が失礼だと思い、彼女は紅炎に声をかけた。
でございます。紅炎様のご命令に背き、申し訳ございません…!!」
彼女の身体は震え、口の中はカラカラに干乾び、それでもどうにかして言わなくてはいけないことを言い、深く頭を下げた。しかし、紅炎はそんな彼女をちらりと見てすぐに書物に目を戻すだけである。
「お前のような者は知らん」
その上、彼は彼女のことを知らないと言うではないか。あの時のように怒鳴られることを想定していた彼女にとって、それは予想外の出来事であった。許して頂けるとは思っても居なかったが、まさか存在自体を認めてもらえないとは。俯く瞳に膜が張るのが分かったが、彼女は申し訳ありませんでしたともう一度謝罪して、震える手で机の上に朝餉を並べた。きっと、ここに私がいても不快な思いをされるだろうから、とはでは失礼致しますと扉に手をかける。
「前の女官はどうした」
「体調を崩され、お辞めになったようです」
未だ巻物から目を離さない紅炎が、一度だけ声を上げた。その言葉は、まるで何故お前がここにいるのだと問いかけられているように彼女は感じたが、努めて平静を装い聞かれたことのみに答える。彼はそれに返事をすることなくひらりと手を振った。もう出ていけということなのだろう。
彼女は一礼して彼の部屋を静かに閉めた。
「……ッ」
閉めた途端溢れ出す涙。もう、本当にあの頃には戻れないのか。こちらにちらりとも向けられない瞳、興味を失った声音、冷酷に退出を命じる無骨な手。その全てに、胸が引き裂かれんばかりであった。
だが、気配に敏感な彼をいつまでも煩わせるわけにはいかず、涙を拭いながら次の仕事へと向かう。ぐすぐすと鼻を啜りながらも、どうして私が彼の担当になってしまったのか、とあの女官長に進言した者たちを恨んだ。
彼に会えなくても、あんな風に存在を否定されるくらいだったら、目の届かない所で密かに彼の役に立ちたかった。
涙を止めることに専念していた彼女には、彼女を見つめる二つの目が緩く弧を描くことに気付かなかった。


最初は気付かなかった。彼女が、紅炎の元従者であることを。しかし、秋紫はその面立ちに見覚えがあった。彼は、否、今となっては彼女だが、そこまで長くない髪を頭の上で一つに束ねていたから、印象が異なり気付かなかったが顔立ちや身体付きは本当に一緒だった。
何せ、下々の者たちにとって皇族は憧れの存在。そんな憧れの第一皇子に女官の少女たちとそう年齢が変わらない、女のような顔をした少年が新しい従者になったことは、もっぱら噂の的だったから。そんな少年がいつの間にか解雇され、禁城を去っていたのには驚いた。だが、良い気味だとも。理由は結局下々の者に伝わる筈も無く、なぜ彼女が辞めていったのかは分からず仕舞いだった。何かが第一皇子の怒りに触れたのだろう。
そういったことに興味ある女官たちの間で、少年の人気は半々に分かれた。紅覇様のように可愛らしいではないかと言う者と、姫君たちのように何故少年がそこまで寵愛されているのか分からなくて妬む者。私は後者だった。紅炎は女官たちの憧れの存在。未だに正室を娶っていない彼に、いずれは私が正室に…なんて夢を見る者たちもいる。そんな彼のもとに実力もあり年もそれなりに重ねている者たちが付き従うのなら分かる。しかし少年は実力はまだまだだし、年若い。李家のように由緒ある家柄出身でもなく、田舎者の少年がなぜ。
意味が分からなかった。あのような男などどこにでもいる、価値のない存在だと思った。美しさなら側室の姫君たちや私達の方が上だ。そう思っていたのは私の友人である辛苑も同じで。
だから少し細工をしてやった。従者という私達にとっては目上の存在だった彼女が手の届く所にまで下りてきた。このことを今利用せずに、いつ利用する。
「思惑通りね」
「泣かされるなんて、いったい何をしたのかしら」
ふふんと笑った秋紫に辛苑が首を傾げる。本当に、と秋紫は思った。紅炎は厳しいが、かといって部下を泣かせるような――側室泣かせであることは有名だったけれど――人ではないのは確かだ。余程彼女が酷いことをして紅炎の信用を失ったのだろう。
秋紫たちにとっては、今回のことは気にくわない存在であるが紅炎にどのように拒絶されるかを見たかったがゆえの行動であったが、予想以上にが傷付いているようだったので大満足であった。
「でも紅炎様お優しいから最終的には許しちゃいそうよね」
「そうかしら?そのうち女官も解雇されるんじゃない?」
辛苑の言葉に今度は秋紫が首を傾げる。紅炎が優しいとは言うが、彼の優しさはとても範囲が狭い。彼の家族や信頼に値する従者たちにしかそういった情は向けられないのだ。今回のの反応からも、その枠から外れていることが分かる。きっとそのうち彼自らが彼女を解雇するだろう。そうすれば彼女ももう二度と禁城にやって来ようなどとは思わないに違いないと秋紫は考えた。

2015/08/13


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