第十五夜

 侶家の縁談を断ったは両親に何故かと問い詰められた。あれ程栄えている家であり、性格の良い朝陽だというのに、何が気に入らないのだ。そう疑問を表す彼らに、彼女は禁城での日々を語った。
正直、彼女は紅炎のことを主以上として見ているのか、それとも純粋に主を想っているのか、分からなかった。彼は彼女にとっての唯一無二の主であり、何よりも大切な存在だった。しかし、それが恋愛感情を含んでいるのかは分からない。それでも、彼が彼女の特別な存在であることには変わりなかった。
「私は、紅炎様の傍にいたいのです」
己の罪を許してくれるかは分からない。彼の姿を見ることが出来るのかさえ分からない。それでも、もう一度禁城に戻り、一からやり直したかった。彼に会えなくても、陰で彼を支えることは出来る。そして、出来る事ならこの身が傍にあることを認めてほしい。
「禁城へ行くことをお許しください」
そう言って、深々と頭を下げるに、凛は狼狽えた。こんな風に、彼女が彼らに頼みごとをするのは珍しい。そして、その内容もまた、彼女を驚かせていた。あんなにも、自分の思うままに生きていた彼女が、誰かに仕え、誰かの為に尽くしたいと思えるような娘になったのか、と。
「……一生結婚せぬと言うのか」
「はい」
暫くして父から吐き出された言葉に、彼女は意志の籠った目をして頷く。その様子を見て、彼ははぁ…と溜息を吐いた。報われるか分からない想いの為に、茨の道へ娘を送り出すのか。何故、態々彼女は困難な道を選ぶのだろう。彼は、大切な娘をそのような場所に送り出すのは嫌だった。その上、結婚しないと言う。孫の顔が見たいと思っていた願いも叶わないのか、そう落胆したが、彼は彼女がこのような目をする理由が分かっていた。彼女の目は、一度誰かに忠誠を誓ったそれだ。武家の男ならば、その目はよく見なくても分かる。彼女にとっての幸せは、この村で結婚して子を産むことではなく、ただひたすら主に仕えていくことなのだ。
「良いだろう。お前の好きにしなさい」
「父上!!」
この家を出て、国に仕えることを許してくれた彼に、彼女は抱き着いた。そんな彼女を彼も抱きしめ返しながら、お前がこのように考えるようになったのも、成長したからだなぁと少しばかり寂しげな声で呟く。
隣から彼女の頭を撫でる凛は、頻繁に手紙を送ってねと言った。そんな二人の言葉に頷いて、彼女は少しばかり涙ぐんだ。
「絶対に、絶対に約束します」
両親に抱きしめられた彼女は、彼らの寛大な心に感謝した。

禁城に戻るといっても、今の彼女には何の地位もない。帝都から令状が着ているわけでもないし、彼女が禁城へ赴く必要は何もないのだ。そのため、もともと考えていた、女官の職を目指すことに決めた。女官として働くなら、性別を隠す必要もない。正々堂々と女として働くことが、紅炎に対して誠実であると思ったのだ。しかし、彼には二度と姿を見せるなと言われているから、彼女が彼の視界に入ることは許されない。武官になると、いつ紅炎の目に触れるか分からないが、女官ならばそうそう彼に会うことも無い筈。それ故、彼女は女官を選んだ。
雇用方法は、女官は武官たちとは違い、筆記試験でふるいにかけられる。そしてその試験まではあと二か月しかない。急いで試験勉強に取りかからないと、今年の採用には間に合わなくなり、一年待たなくてはいけなくなる。
「頑張らなきゃ…!」
髪をぐいっと後ろで一つにまとめて、彼女は机に向かった。試験に受かるなら寝る間も惜しんで勉強するつもりだ。
 試験勉強は思ったより順調に進んだ。彼女はもともと禁城で働いていたこともあり、実践的なことは身体に染み込んでいるからだ。その上、女官の仕事を見ていたことから、ある程度の知識は最初からある。
礼儀作法も習得済みであるし、他の教科に力を入れられることが出来て、彼女は心なしか機嫌が良かった。
女官となり、禁城で再び働ける想像が出来て、益々勉強が捗る。
「えーと、この問題は…」
しかし、彼女は計算が苦手だった。現在解いている問題は、数式が分かればそれ程手間取らず融ける問題なのだが、彼女はその数式を忘れてしまっていた。どうにかして解法を自分で見つけ出したい彼女はうんうんと唸って筆を握り締めた。

 とうとう、試験当日になってしまった。は今、久しぶりに帝都へ赴き、落ち着かなさ気に周りを見渡している。もし、落ちてしまったら。そう不安になる気持ちを叱咤するようにパシン!と頬を両手で叩く。
「よし!大丈夫!」
試験会場へ入り、自分の席に座り深呼吸する。
今まで頑張ってきたんだ。計算はとうとう完璧にすることは出来なかったけれど、その他なら完璧に近い。きっと、受かる筈だ。そう心の中で己に言い聞かせて彼女は試験問題を解き始めた。
 試験が終わって、は大きく息を吐きだした。やることは全部やった。後は、結果を待つだけだ。合否発表は、四日後の昼ということもあり、一度村に帰る時間もないので、彼女は帝都でその四日間を過ごすことにした。
試験が終わってしまえば、不思議と心も軽くなり、今までちゃんと観光したことが無かった帝都を見て回ることにした。一人で国一番の市場を見て回るというのは、少しばかり寂しい気がしたが、彼女はそんなことを忘れて
あちこちへと視線を移らせる。
華美すぎない簪が多く並べられている店や、世界各地の物語が書かれた巻物が置いてある店、食べ物から生活用品まで様々な物を売っている。
ふと、彼女は一際目を惹いた巻物の店に入った。
店主の了解を得てから、巻物の帯をしゅるりと解いて、中を少しばかり確認していく。一つ一つ丁寧に巻物を扱う様子の彼女に、店主も次第に一々彼女の動作を確認することなく、手元の仕事に精を出し始めた。
「あ…これ…」
ふと、新たに彼女が開いた巻物には、普段はお目にかからない、トラン語の文章がびっしりと連なっている。この字は、よく紅炎が好んで読んでいたものだ。歴史探究のために、休日の時間を使って熱心に読み耽っていた彼。そんな主の姿が思い出されて、彼女は思わずその巻物を握り締めた。
「その巻物が欲しいのか?」
店主の50代半ばの男性が、食い入るようにそれを見つめていた彼女に声をかけた。その声に、はっと意識を取り戻した彼女は、曖昧に頷く。
「これは昔からのトランの民の文化を残していくために作られた物語なんだとよ」
研究書としては貴重なものだろうが、こんな物を買うような物好きは早々いないし、安くしといてやろうか。パイプ煙草を吹かしながら、どこか気だるげに言った店主に、彼女は目を見開いた。
トラン語の巻物など、早々手に入れられるような物ではない。禁城でも、トラン語の書物は皇族たちや許可を与えられた者しか読むことを許されていない。もともと、世界共通語ではないそれを読めるのは、幼い頃から英才教育を受けてきた者のみだ。
彼女も少しばかりトラン語を勉強したことがあるが、このように分厚い巻物を全部読めるような実力はない。
安くしてもらえるのは嬉しいが、どうせ読めないのなら買ったって意味が無い。そう頭では冷静に考えられるのに、気付けば彼女は買いますと口にしていた。
「じゃあ、32煌だよ」
「はい」
店主に提示された金額を懐から取り出す。ちょうどぴったり紙幣を渡せば、彼は無表情にまいどありと言った。そして、もう用は終わったのだからと、しっしと犬を追いやるように手を振った彼に多少苦笑しながら、彼女は外へ出た。
「どうして買っちゃったのかな…」
手にある分厚い巻物を見下ろしながら、彼女は呟いた。その答えは言葉にしなくても、何となく分かる。
きっと、トラン語の巻物を読んでいた時の、紅炎の顔が政務をしている時とは違い、目を輝かせている様子を思い出してしまったからだ。彼の、何よりも大切な時間を、この巻物から感じ取ってしまったから。
彼女は予想外の出費に、とりあえず一度宿に戻ろうと、足を宿場に向けた。

2014/07/10


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