第十四夜

 今日も今日とて、は自室からろくに出ないで、空をぼんやりと眺めていた。既に実家へ帰省してから一カ月が経つ。その間、ずっと彼女は紅炎に突き放されたことを嘆き悲しんでいた。
そんなことは無意味だと分かっている。悲劇の主人公気取りである、とも理解していた。前を向いて、これからを生きなければならないことも知っている。だけど、どうしても未来を考える度に、紅炎の傍で彼の為だけに尽くしてきたことを思い出すのだ。それが、どんなに幸せで、遣り甲斐のある仕事だったか。
いずれ、煌帝国の皇帝となり、世界の王としてこの世を統べるだろう彼。そんな姿を、傍で拝見したかった。
そう思う度に涙が溢れて、彼女のこれからの生活への気力を奪う。
――諦めなければならない。忘れなければならない。
そう思いながら空を見上げるのだけれど、目を閉じる度に決まって主の顔が浮かぶのだ。
 コンコン、と扉を叩く音がする。返事をするよりも前に、外から「旦那様と奥様がお呼びです」と侍女の落ち着いた声がした。分かった、と扉越しに伝えれば、彼女の気配はそこから消える。
どうしたのだろうか。ろくに部屋から出てこない娘を心配して、呼び出したのだろうか。そう思いながら彼女は自室を出て、彼らの部屋へと向かう。
コンコン、と両親の部屋の扉を叩き、は自身が来たことを伝える。そうすれば、入りなさいと父の声が聞こえ、彼女はゆっくりと扉を開いてその中に入った。
腰掛けに腰掛けている二人の前の、一人掛けの腰掛けに促されて、彼女はそれに腰を下ろす。
「お前がいつになってもふさぎ込んでいると、侍女たちが心配しているぞ」
「すみません…」
彼の少しばかり、彼女を思いやることが現れている声音に、はそっと頭を下げた。禁城での日々を忘れられないのです、と告げれば、そうかと彼が眉を寄せ頷いた。
少しばかり重くなった空気を壊すように、凛は彼女の心を解すように微笑みながら、口を開いた。
「あなたに縁談が来ているのよ。相手はこの村一の豪商の方で、性格も良いと評判だわ」
そっと窺うようにを見つめる凛に、彼女はそうですか…と呟く。
結婚など、禁城にいる間は一度も考えたことがなかった。ただひたすら紅炎に仕えることが彼女の喜びで、それ以外には目もくれていなかったから。
――結婚か。
もし、その男と結婚すれば紅炎のことも、禁城での遣り甲斐があった日々のことも忘れられるだろうか。
中々返事をしない様子の彼女に、凛が呼びかける。
「いきなり結婚はあなたも心の準備が出来ないだろうから、一度会ってみない?」
一緒に食事をするだけで良い、と凛は彼女に伝える。それは、両親からの最大の譲歩であることが、彼女には分かった。普通なら、娘の結婚相手など、家父長制のこの世の中では父の一存で決められる。それを、このように娘の意向を聞くのは、彼らがのことを何よりも大切に思っているからだ。
――結婚することで、あの日々を忘れることが出来るなら。
生唾を飲み込んで、はぎゅっと拳を握りしめた。
「はい、その方と会います」
数年前とは違い、素直に両親の言葉に従った彼女に、彼らはそうかと頷いた。
結婚すれば、お前も武人だった頃の自分など忘れて、妻として生きることがどれだけ幸せか分かるだろう、と微笑む父。家庭を持てば、きっと禁城で働いていた頃よりも遣り甲斐がありますよ、と彼女の手を握る母。
その二人の視線を受けて、彼女は小さく微笑んだ。

縁談相手の男と食事をする日がやって来た。その日は朝から忙しく、屋敷全体が賑わっている。何しろ、今まで結婚などしないと奔放に生きてきたが、少しでもその兆しを見せ、相手の男と会うのだから。
は何重にも着せられた新品の着物に圧迫感を覚えながらも椅子に座っていた。相手の男を驚かせようと、侍女たちは彼女の髪を綺麗に結い上げ豪華な髪飾りで止め、化粧も普段より気合が入ったものにする。彼女にしてみれば、相手は村一番の豪商とはいえ武家よりも身分が低いのだから、ここまでする必要性は感じていなかったのだが、侍女たちが盛り上がっている様子なので黙っておく。
「お嬢様は本当に可愛らしい顔立ちをしていますわ」
「相手の殿方も吃驚なさいますわ」
上機嫌な様子でを飾り付けていく彼女たちに、は曖昧に笑った。何やら普段より帯はきつく締められているし、化粧によって毛穴が塞がって息苦しさを感じるし、髪の毛は容赦なく引っ張られているせいで、やはり食事会など面倒だった、というのが彼女の本音だ。
手鏡を渡され、鏡の中に映る自分を見て、彼女は言葉を失った。ここ一カ月髪もろくに結わず、化粧すらしてなかった娘とは思えないような顔がそこに映っている。
「お嬢様はせっかく元が良いのですから、化粧しなくてはいけませんよ」
そう侍女に言われて、彼女は自室から出された。そろそろ相手の男の屋敷に行く時間だからだ。長くひらひらと脚に纏わり付く裾を蹴飛ばしたくなりながらも、静々と玄関へ向かう。家臣や侍女が撮り過ぎる度に、褒め言葉を貰う彼女だったが、どうにも禁城での男装の日々が抜けきらなくて、女として褒められるのには照れくささを感じる。
「綺麗だぞ、
「本当に、よく似合っていること」
玄関で既に待っていた両親が、彼女を見て微笑んだ。凛にいたっては、過去ののじゃじゃ馬振りを思い返しているのか、少しばかり涙ぐんでいる。気が早い彼女の様子に、は苦笑しながらもありがとうございますと言った。

 馬車に乗り、十数分後に着いた縁談の相手の屋敷。屋敷の主人である男と、その妻が彼らを迎えて、今は両親同士で形式的な挨拶を交わしていた。
どうやら、はこの家の息子の相手として選ばれたようだった。その彼は、そう待つことなく彼女たちのもとへやって来た。
「どうも、初めまして。侶朝陽です」
「初めまして、です」
の前まで来て頭を下げた男は、20代後半のような容姿であった。美丈夫ではないが、笑うと目の端に小皺ができて、優しい雰囲気の方だと、彼女は相手に失礼にならない程度に観察する。
屋敷の中に通されて、彼女たちは食卓へついた。彼女の両親は彼の両親の前に腰を下ろし、彼女は彼の前に座った。程なくして運ばれてきた料理を頂きながら、両親同士の会話が始まる。
彼らはお互いに良い雰囲気で、特にこちらが気を遣わなくても良さそうだと、彼女は判断した。ちらり、と前に座って食事に手を付けている朝陽に目を向けると、彼はにっこりと微笑んだ。
さん、ご趣味は何ですか?」
「……読書です」
朝陽さんは?そう返しながら、彼女は内心驚いていた。今、私は趣味はと訊かれて、紅炎様に仕えていたことを思い出していた。
確かに、彼の従者になってからは休日の過ごし方が分からなくなるほど、彼に尽くすことが自分の日常となり、幸せであったけれど、それは趣味ではないだろう。危うく、禁城での日々を口にしそうになった彼女は、気を紛らわすために彼の言葉に耳を傾けた。
「僕も読書は好きなんですよ」
専ら商業に関するものと経済書なんですけどね。そう言った彼に、彼女は微笑んだ。
――、書庫にある巻物を持ってこい。あの青い表紙のものだ。
頭の中で、紅炎が囁く。その声はじんわりと脳から身体全体に響いて、彼女はそれを消すように軽く頭を振った。
「気が早いかもしれませんが、あなたが僕の妻になってくれたら、これからはこの村だけでなく、近隣の地区にも商品を売りに行きやすくなるんです」
それに、妻と一緒に色んな町や村を回るのがとても楽しみで。彼は少し照れた様子ではにかんだ。これからのことを既に考えてくれている彼に、彼女は同じようにそれはとても楽しみです、と頷いた。
――、二度は言わぬからよく聞け。お前の弱点を教えてやろう。
「でも、こんなに綺麗な妻を連れて各地へ赴くのは少し心配ですね」
「そんな…朝陽さんはお世辞がお上手ですね」
――誰よりも早く、俺の所へ来るのはいつもお前だな、
朝陽と会話をしているのに、彼の言葉にかぶせるように紅炎の声が脳内で響く。
やめて、やめてください。私は、貴方を、あの日々を忘れるためにこの人と結婚しようとしているのに、どうして私を突き放したのに、いつまでも私のことを縛るのですか。
彼女は、彼に不信感を与えないようにと、彼の話にあわせて相槌を打つけれど、紅炎の声は無くならなかった。

食事を終えて、少し散歩に行きませんか?と席を立った朝陽について行く。庭には、彼女の屋敷とはまた違った趣の菜園があり、華やかな花に蝶がひらひらと舞い降りていた。
――この人と結婚すれば、何よりもまずこの人のことを考え、家を守るために家族や家業を慮り、その隙間には何も入って来なくなるだろう。彼の言う通り、この村付近の町村に出向くことはあれど、きっとこの先、帝都や禁城のすぐ側にまで行くことは無いだろう。
それは、一生、紅炎に会えないということだ。結婚したら、私はもう家の人間ではなくなり、侶家の一員として家を守らなくてはならない。その責務の中に、彼が入ってくるわけがないのだ。彼のことを考えることさえ許されなくなる。
ぴたり、と彼の後をついて行く足が止まった。
――言葉にせずとも、俺がお前をどのように思っているかなど、お前には分かるだろう。
そう言って、彼女の頭を撫でた、彼の小さな、小さな微笑が目蓋の裏に甦る。
どうして、彼を忘れることなど出来ようか。あんなにも、紅炎は、のことを気にかけ、彼女が望むものをくれ、暖かな気持ちにさせてくれたというのに。あの日々を忘れることなど、紅炎への裏切り行為だ。
ぽろり、と彼女の眦から涙が落ちた。
「――さん、どうしたんですか?」
彼女の涙に気付いた朝陽が目を見開いて慌てた。おろおろと狼狽している彼は、そっと彼女の両手を包み込み、涙を流す彼女と目を合わせようとする。
そんな様子の彼に、彼女の胸はきりきりと痛んだ。
私は、こんな優しい人のことを利用して、紅炎様を忘れようなど…。なんて、狡い人間なんだろう。
もう、気付いてしまった。紅炎への想いが、どうしたって消えてくれるわけがないことを。そして、この縁談の結末も。彼女は彼を見上げて、言った。
「許してください、私はやっぱり、あなたと結婚することは出来ません」
を気遣うように見下ろしていた彼の瞳が見開かれる。どうしてですか。そう詰め寄る彼に、彼女は震える唇を開いた。
「私の命は、とうの昔にある御方へ捧げているのです」
私は、その方のことを忘れられません。
そう続けた彼女に、彼はわなわなと震えた。怒っているのかもしれない。折角縁談話をくれたというのに、彼女の心には既に彼ではない他の男がいるのだから、そうなってもしかたないだろう。
「……万が一にも、僕を選んでくれる可能性はないのですか…?」
しかし、彼は怒っていなかった。寧ろ、悲しさを堪えるように、眉を寄せている。
声を荒げず、率直な心を伝えてくれる彼に、彼女はまた胸が痛んだ。
きっと、彼と結婚すれば、彼女は彼を愛するとまではいかずとも、親愛の情を抱くようになるだろう。だが、紅炎がその心にある限り、彼女の一番は彼にはなりえない。それは、誠実な彼にとって裏切り行為でしかない。
はい、は消え入りそうな声で頷いた。それを聞いた彼の手が、ゆるゆると力を失って、そっと離れていく。
「……暫く、一人にしてください…」
「はい…」
から背を向けた彼が、空を見上げながらそう言った。罪悪感からズキズキと痛む胸を押さえながら、彼女はちらりと彼を見つめて、その場を去った。
彼を利用しようとした彼女が願うのも筋違いかもしれないが、それでも、彼女は彼の幸せを願わすにはいられなかった。あんなに優しい彼のことを、選ばない自分が愚かだということも分かっている。彼の手を取れば、あの頃の日々と引き換えに、何も危険のない平穏で暖かな暮らしを手に入れられるだろう。
それでも、彼女は平穏に背を向け、困難な道を歩くことを決めたのだ。


2014/07/09


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