第十三夜

 あれからはすぐさま荷物をまとめて、禁城を出た。夏琴に乗り、いくつもの村や町を通り過ぎて行ったが、錦東(きんとう)村を出た当時とは違い、家に着くまでの記憶がまったくなかった。
何も言わず毛髪だけを残し、家を飛び出して行った娘が約4年ぶりに帰ってきたことを、両親や家の者たちは涙を流して喜んだ。しかし、はまるで、魂が抜けたかのように空っぽになった心を感じていた。
あれほど父に元気でいてほしいと、母に幸せなままであってほしいと願っていたのに、喜ぶ家族の顔を見ても何も嬉しくなかった。その晩、彼女は久しぶりに両親と同じ寝台で就寝した。

 禁城からが帰ってきて一週間。その頃にもなれば、彼女の存在はあって当たり前のものとして屋敷に受け入れられていた。しかし、禁城から帰ってきてずっとふさぎ込んでいる様子のが、両親や侍女たちにとっては心配の種だった。
様、夏琴とお散歩には行かれないのですか?」
「行かない。部屋でゆっくりする」
がまだ15歳の時であったら、彼女たちにとってこの言葉はとても嬉しいものであった。年頃の娘がいつになっても落ち着きなく、髪を振り乱して村の子供たちと遊びまわるなど、もっての他だったから。しかし、今の彼女を見ていると、侍女たちは素直に喜べない。この四年間の禁城で何かがあったのは明らか。ここまで落ち込んでいる様子の彼女を侍女たちは見たことがなかった。しかし、そう簡単に理由を訊けるわけでもなく、今日も彼女たちはもやもやとした気持ちを抱えながら日々の仕事に精を出す。

 ずっと、両親や侍女たちが自分のことを気にしているのは分かっていた。だけど、彼女はあえてそれに気付かない振りをしていた。未だ胸の内でぐるぐると渦巻いている後悔と悲しみを、どのように言葉にすれば良いのか分からなかったのだ。
はぁ……。憂鬱な溜息を吐き出して、窓の外を眺める。の心とは裏腹に、空は晴天であった。小鳥たちが楽しそうに空を駆け巡り、囀っている。
ぼんやりと、禁城での日々を、彼女は思い出してみる。
あの頃は、全てに遣り甲斐を感じていた。気を許せぬ友人と、頼りになる同僚。そして、何よりも愛しい主。その輪の中にいることが、何よりも幸せだった。普段は面倒見の良い紅炎の眷属たちに、従者としてのアドバイスを何度もしてもらったり、青秀と何度か喧嘩をしながらも友人として絆を深めていった。そして、紅炎に対する思いは、初めは皇族に対する憧れだったのが、次第に自身の命よりも大切で、何よりも尊敬できる方、という認識に変わっていった。誰よりも彼の役に立ちたいと思った。誰よりも近くにありたい。誰よりも、理解したい。誰よりも忠実でありたい。そう思っていた。

、お前は俺の従者になる気はあるか?」

「お前は茶を淹れるのが上手い」

「ハハハ!!お前にはまだ早かったようだな」

「嘘を吐くことは許さん」

「俺の子を孕み妃になろうなどと身分不相応なことを考えていたのか?!」

「二度と俺の目の前に現れるな」

まるで走馬灯のように、紅炎との思い出が目蓋の裏に甦る。褒められたこと、叱られたこと、心配してくださったこと。それら全てはの身となり、決して離れることはない、愛しいものであった。だが、紅炎との最後のやりとりは、彼女の心をズタズタに切り裂くだけだ。何度思い出しても涙が出てくる。到底、この思いを口にすることは出来ないことのように思われた。思い出すだけでもこんなに苦しくなるのに、どうしてそれを言葉に出来ようか。
「紅炎様……っ」
一週間前のように、彼の傍で働けていないことが悲しくて、未だに受け入れられなくて涙が溢れだす。自分に非があるのは分かる。元々、彼は第一皇子という身分から望みもしないのに、女性たちの欲望の対象になることが多い。それが、純粋な恋心なのか、それとも権力や外見に目が眩んだ末の恋なのかは分からないが、彼は近寄る女に対して嫌悪感すら抱いていたようだった。夜伽の時も何度か側で待機することがあったが、彼は一度も側室の女たちを自分の部屋に入れることは無かった。それ程、女と言う生き物に対して失望していたのだ。
しかし、彼はいとも簡単にを部屋に入れた。それは、彼女のことを男だと信じていたから。彼の信頼に応えられる従者であったから。
――それを、私は自分から壊したのだ。紅炎の信頼を裏切り、結局女とはそれしきの生き物なのだと思わせた。
ぐす、と鼻を啜る。頬から伝った涙はぽたぽたと床に落ちていった。震える肩を抱きしめるように、腕を回す。
会いたい。紅炎様に会いたい。声を聞きたい。私の身ではなく、この罪を許されたい。役に立ちたい。
紅炎に対する想いが溢れ出して、尚更涙は止まらなかった。
主の傍にいなくては、自分の存在意義が見いだせない。紅炎の命に応え、彼の役に立つことが、この数年間のの全てだった。それまでは自分のためだけに生きていた彼女が、初めて誰かに尽くしたいと思った。死ぬまでついて行きたいと思わせた、そんな彼から突き放された。それでは、もう、生きていても意味がない。死んでいるのと一緒。紅炎のために何かが出来ないことは、彼女にとっては生きているか死んでいるかも分からないものになってしまった。
それなのに、たった2年で、彼女をここまで変えてしまった彼は、残酷にも彼女を捨てた。


 小さく息を吐きだした主に、青秀は巻物を読み終わったのだと気付いた。机の上に広げられていた巻物を丁寧に巻き戻している様子の彼を見て、青秀は今言うべきだろうかと逡巡する。やや間を置いて、彼は紅炎に紅炎様、と声をかけた。何だ、と横を見た彼に青秀はごくりと生唾を飲み込む。
「あいつ、は紅炎様に仕えることが――」
「その名を口にするな」
一週間前に紅炎の従者から解雇されてしまった妹分であり、友人であったの許しを請う言葉は、紅炎によって途中で遮られた。一週間も経ち、そろそろ彼の怒りも収まってきただろうと思っていた青秀は、しかしと言葉を続ける。
紅炎様が怒る理由も分かる。は主を欺いていたのだ、それなりの罰は必要である。しかし、彼女には男装をして煌帝国に仕えるだけの大きな理由があったのだ。その理由をきちんと彼に理解してもらえば、は許されるのではないだろうかと青秀は考えていた。しかし、
「二度言わすな、青秀」
「申し訳ありません、紅炎様」
ギラリと怒りを露わにする鋭い瞳に見据えられて、青秀は口を噤んだ。すぐ側で紅炎の書類整理をやっていた黒惇は、気を落とした様子の青秀を見て、心中で溜息を吐く。青秀はちらりと黒惇に何か言ってください、というように視線を向けるが、彼はその視線を無視して書類整理を続けた。
恐らく、の名を聞き気が立っているだろう主を余計に煽りたくなかったからだ。
 終業時間がやってきて、二人は紅炎の部屋から退出した。話すタイミングを見計らっているのか、青秀はどこかソワソワと視線を中庭や廊下、空へと彷徨わせる。
「黒惇殿、紅炎様はどうしてを許してくださらないんすかね?」
紅炎の部屋からは離れた所で、青秀は憂鬱な口調でそう言った。その言葉に、黒惇はゆるゆると息を吐きだして、暫し瞑目した。自身に主の心が完全に分かるわけではないが、たぶん自身が考えていることは半分ほど当てはまっている筈だ。
「女だったことを黙っていただけで解雇って、厳罰すぎじゃないかなぁって俺は思うんですけど…」
はぁ、と友人の姿を思い浮かべているのか、青秀の表情はより物憂げなものへと変わる。禁城に連れてこられた当初は誰も寄せ付けようとしなかった彼が、ここまで他の誰かを気に掛けるのは大した成長だと黒惇は思った。これも、ひとえにあの娘が彼に様々な影響を及ぼしたからだろう。自身の主だって、あんなにも彼女のことを可愛がっていたのだ。つまり、彼女には人を惹きつけるような魅力があった。
「――紅炎様は、一番に可愛がっていたに裏切られて、傷付き怒っているのだろう」
側室たちでさえ、あんなに寵愛された事はなかった。いつでも傍に控えさせ、従者としての仕事を与え、失敗すれば叱るが、それ以上に彼女を褒めてその実力を伸ばしてきた。そんな彼女は絶対の信頼を紅炎に置いていたというのに、秘密を抱えていたことが彼の矜持を傷付け、信頼を裏切る形になったのだろう。
「紅炎様は、ご家族以外でなら、一番にを寵愛なさっていたからな」
「確かに、それは分かりますけど…」
でも、だからといって…。そう途中まで言いかけた青秀は、はぁと溜息を吐く。あの時の、泣きながら紅炎の言葉に従った彼女の姿を思い出すと、それは厳しすぎだったのではないかという気持ちになるのだ。
それに加え、がいなくなってからの紅炎は、普段の感情を露わにしない様子と比べると、明らかに苛立っている時が多い。それは、やはり彼が内心で彼女のことを求めているからなのではないか、と青秀は思っていた。
あの頃のように、共に主に仕える日が戻ってくることを、彼は願った。


2014/07/06


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