第十二夜

 が紅炎の側室の命によって暴行を受けてから一週間、その頃になれば、彼女はもう今まで通りに身体を動かし鍛錬できるようにまで回復していた。実際は医務室からは二日程で出してもらえたのだが、紅炎を筆頭に青秀や楽禁たちに完全に治るまでは休んでいろ、と言われてしまった彼女は退屈さえ感じながら身体が治るのを待っていた。
紅炎の従者になるまでは、休みを貰えたら大喜びをしていたのだが、今となっては従者になる以前の休日の過ごし方が思い出せなくなってしまっていた彼女だった。紅炎に仕えることばかり考えていた彼女は、いつのまにか彼無しの生活に耐えられなくなっていたのだ。そう分かってしまえば、紅炎のために働きたいという思いからソワソワと落ち着かない気分になってしまった。
そんな苦行を耐え抜いたは、久しぶりに紅炎に剣技の手ほどきを受けていた。先程までは青秀か紅炎に相手をしてもらっていたのだが、交替だと言われて彼は今木陰で休んでいる。彼はよりも先に紅炎の従者になったというだけあって、よりも紅炎を攻め立てているように見えた。
次は、私の番だ。そう意気込んで彼女は腰から青凛丸を抜いて紅炎に向かって行く。以前に何度か注意されたことがある癖や欠点を意識しながら、彼に打ちこんでいく。真正面から受けた彼の剣をギリギリと音を立てながら横へといなす。そこから払うように刀を押し出して、紅炎の腹部を狙ったが、あっさりと受け止められてしまった。
「今のはひやりとしたぞ」
「ありがとうござい、ます…ッ!」
ふふ、と笑いながらそう言う紅炎に、彼女は息を乱しながらも返事をした。ひやり、って絶対なさってない!余裕な彼の態度に彼女は内心叫ぶ。再び押され出したに、青秀ががんばれ!と野次を飛ばす。
――ああ、もう!青秀うるさい!
青秀の応援はありがたいが、紅炎の剣捌きに集中しなくてはならない今の彼女にとっては、邪魔な音でしかなかった。青秀の声に気を取られていたからだろうか、一瞬彼女の動きが鈍くなる。
――拙い!
そう思った時には、既に紅炎の剣が胸に当たっていた。
「わっ!」
しかし、奇跡的に剣は衣服と素肌を軽く切る程度であった。吃驚して地面に倒れ込んだ彼女に、紅炎が怪我はと近寄る。しかし、彼女はそれに顔を青褪めさせた。いけない、このままでは胸が…!サラシまで切れて胸が露わになっている状態であれば、今までどうにかして隠してきた性別がばれてしまう。
「だ、大丈夫です、紅炎様!」
「遠慮するな」
の片腕を掴んで傷を確認しようとする紅炎に、彼女は慌てた。青秀がその様子に気付き、彼女と同じように慌てながら走ってくるが、それよりも早く、紅炎が彼女の秘密を暴いた。珍しく彼の言葉に従わないに痺れを切らした紅炎が、両手を捕えて、それを確認してしまったのである。
「こ、紅炎様…!!」
男には無い筈の乳房が確かににはある。服が切れたといっても全貌が見えるわけではないが、それは男でないと判断するには十分だった。瞬間、彼の無表情は冷え冷えとしたものに変貌した。捕えていたの両手を解き、その射抜くような視線で彼女を見下ろす。
彼女はただ、顔を青褪めさせて紅炎を見上げることしか出来なかった。
「こ、紅炎様……」
「後で俺の部屋へ来い」
今まで女であることを隠し、黙っていたことを彼に詫びようとしたであったが、言葉を遮られ、言外に拒絶されたことを感じ取った。今までの様子とは打って変わり、誰も寄せ付けない態度になった紅炎は、戸惑い慌てる青秀を連れての目の前から去る。
――何ということだ、知られてしまった。
自室に戻り服を新しい物に着替えながら、彼女は心臓が五月蠅く喚いているのを感じた。紅炎からしてみれば、今まで俺のことを騙し続けてきたのかと怒りを感じたことだろう。も、立場は違えど、主を欺いていた罪悪感が今更ながら襲い掛かってくる。
――これは、許されない罪だ。
ごくりと生唾を飲み込んで部屋を出る。
いつか、紅炎に打ち明けるつもりであった。そのいつかは明白には決まっていなくとも、主を欺き続けるつもりは彼女には毛頭なかった。しかし、なんと悪いタイミングで彼女の真実が明らかにされてしまったことだろうか。紅炎の怒りは、を寵愛していたからこそより大きい。彼女は、あの瞬間、もっとも尊敬し忠誠を誓っていた主を裏切ったのだ。それがたとえ、彼女の意志には関係なくとも。
こんこん、と紅炎の部屋をノックした。返事はない。今までなら入れと彼の言葉が聞こえたのに。自身の犯してしまった過ちと、彼の怒りに今にも涙が溢れそうだった。
そっと扉を開けて、中へ入る。そこには紅炎と眷属が四人とも集まっていた。
礼をするよりも前に、彼女は紅炎の足元に額づく。扉を開けて、目が合った瞬間に、彼女は悟ったのだ。彼のへの視線が怒りだけではなく、軽蔑が含まれていることに。ずきり、と心臓が痛む。
ぶるぶると震えるのは、彼の拒絶の言葉を恐れて。彼の怒りのままに殺されるならまだいい。だが、彼女が今一番怯えていることは、彼から突き放されること。それは、彼女の存在意義を失くすも同然だった。
「――お前は、これまでの間、何を考え行動してきた」
痛い程の静寂の中に、紅炎の言葉が響く。その言葉は、一つ一つが重く彼女に圧し掛かってくる。
――あの時、俺は確かに嘘を吐くことは許さんと言った筈だが。
ひたすら床に頭を付けている彼女には、何故か紅炎の酷く底冷えするような眼差しを感じた。彼の言葉に、益々震えは大きくなる。声を上げる事すら出来なかった。それ程、彼の怒りを彼女は一身に受けている。
「俺を欺き、従者として寵愛され、いずれは正体を明かし、俺の子を孕み妃になろうなどと身分不相応なことを考えていたのか?!」
そのように唆し、お前を禁城に送り込んだのはお前の両親か。そう一気に感情の荒波のままに捲し立てた彼はサイドテーブルに置いてあった花瓶や、茶器を全て腕で薙ぎ払った。
――ガシャァアン、パリィンッ。鋭い耳を劈くような高音が室内に響き渡る。
彼の怒りから、空気までがわなわなと震えているようだった。彼の言葉一つ一つが、彼女の心を抉り、千々に破壊していく。悲しかった、恐ろしかった。心臓が幾千ものナイフでグサグサと刺され、血を流すような痛みを感じる。
今まで彼女が仕えてきて、こんなに紅炎が激怒している様子は見たことがなかった。自身が、父親のために行った行為が、これ程までに主を怒らせ、失望させることになるとは、村を出た当初の彼女には思いもよらぬことであった。
――私が彼をここまで激高させたのだ。彼女は震える唇を開いた。
「恐れながら、申し上げます。私は今まで一度たりともそのようなことは考えたこともございません。私の男装に、両親や家の者は一切関わりはなく、私が勝手に行動したことにございます」
足を怪我した父を、戦地に送り出したくなかった私の我が侭にございます。震える唇で、彼女はそう言い切った。どうにかして、両親への誤解を解きたかった。今回の罪は、私一人の問題で、一族には何も関係がない。処罰なら、私一人が受ける。
彼女は震える手で腰から刀を外し、両手で頭上へ捧げる。
「主を欺いたことは許されない罪でございます。ご処分ください」
紅炎に捧げるかのように頭上に持ち上げられた刀の意味は、この場にいる者なら全てが分かっている筈だ。躊躇なく、自身の命を差し出すに、青秀が紅炎様と身を乗り出すが、紅炎の冷徹な視線に一蹴されてしまう。
彼にも、痛い程分かる。が行なったことは、簡単に許されるものではないのだと。
「お前を殺す価値など無い。二度と俺の前に現れるな」
「……………ッ!!!」
感情を排した彼の声が響く。その言葉はにとっては死刑宣告以上に辛い選択であった。目の前に現れるな、つまり、今日を持って彼女は紅炎の従者ではなくなり、禁城から追い出される。今まで堪えていた涙が彼女の眦なら溢れ、床に落ちた。
――もう、二度と紅炎様に仕えることが出来ないなんて。嫌だ、いやだ…!!
「はい……」
震える手で刀を腰に戻し、彼女は再び床に頭を振り下ろした。鈍い音が響き、額も割れるように傷んだが、彼女には関係なかった。
「今まで…ッ、お世話になりました……!」
絞り出すように、出された言葉は、別れの言葉。紅炎の命は絶対。それがたとえ、自身の願いとは真逆なものであっても、違えることは出来ない。
――嫌だ、この身は許されなくとも、この罪を許してもらいたい。紅炎様の傍にあることを認めてもらいたい。だけど、それはもう、出来ないことなのだ。私が望んではいけない。罪深い私は、今すぐに彼から離れなくては。
彼女は立ち上がり、礼をして紅炎たちに背を向けた。紅炎は彼女に見向きもしない。まるで、興味を失くしたものたちと同じように扱う。それに胸を抉られながらも、彼女は煢然として前を向いた。
――さようなら、紅炎様。

ぱたんと扉が閉まる音が、紅炎との世界を断つ、残酷な音。


2014/06/20



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