第十一夜

 遅い。紅炎はいつまで経っても来ない、彼の忠実な青年を頭に思い浮かべて、苛立ちから筆を一本折った。はいつもなら呼んで数分もしないで彼のもとにやってくるというのに、今日は違った。先程武官の一人に彼を呼びに行かせたというのに、まだやって来ない。
その事実に、苛立ちと少しの疑念が過る。何か、あったのか。そう思い至ったのは、日頃から窺えるの紅炎に仕える態度ゆえ。普段から紅炎に絶対的な信頼と忠誠心を持つ彼が、そう簡単に命令に背くとは考えられない。
何かあったのだ。紅炎はそう結論付け、椅子から立ち上がった。
「周りの者たちにも手伝わせてを探してこい」
「はっ!」
執務室の外で待機していた武官に即座に命令して、彼は椅子へ座りなおした。
しかし、落ち着かない。平生であれば、が傍に控え、茶を飲みたいと思えばそれが伝わったかのように茶を持って来て、紅炎が執務をする弊害になりそうなものは、片っ端から排除していくの姿がない。たった、それだけのことなのに、以外に傍に控えさせる時もあるというのに、紅炎は途端に書類に集中できなくなった。
「まったく、お前が早く来ないからだ」
ふんと鼻を鳴らして、彼は巻物を読むことにした。このままだらだらと書類に向かっていたとしても、進むとは思えない。それならば、自分の趣味に時間を費やした方が合理的だ。
そう思ったのだが、巻物にさえ集中できずに、彼の苛立ちは益々高まっていった。

 数十分後に慌ただしく部屋へとやって来た武官に、紅炎は目を移した。やっとが見つかったらしい。
はどこにいた?」
「それが、大怪我をして医務室に横になっておられました…!」
切迫している様子の武官から、それとなく嫌な予感を覚えた紅炎であったが、武官からその言葉を聞いた彼は微かに目を見開き、椅子から立ち上がる。無言で部屋から出た紅炎に、武官は背筋を凍らせた。紅炎の無表情は今に始まったことではないが、今回のそれは平生とは違う。研ぎ澄まされた気迫のようなものが、その無表情から溢れていたのだ。
「道中で見聞きしたことを話せ」
「はっ!」
武官は先程医務室の医師から聞き及んだことを紅炎に伝えた。医師が気付かぬ間に、気絶したが医務室の入口の床に倒れており、その怪我は何者かによって大変痛めつけられたものであった。口は切れ、頬にも青痣があり、医師はこれはただ事ではないと――この時点で医師は、喧嘩や決闘とは違ったものを感じていたらしい――出来る限りの処置をした。は、今は静かに寝台の上で、眠っているらしい、と。
それらを全て聞いた紅炎は仕事に戻って良い、と彼を解放した。一礼をして遠ざかっていく武官に、紅炎は拳を握りしめた。
は新参者の武官のように血の気が多く、喧嘩っ早いというわけでも無い。逆に、いつもそういった武官同士の喧嘩を仲裁するような人間だ。そんな彼が全身打撲傷を負って医務室にいるということは、やはり何かしらがあったのだ。例えば、酷く侮辱されて名誉の為に戦った、あるいは、を妬む武官たちからの集団暴行か。
とにかく、と話をすれば全てが分かる筈だ。そう紅炎は足を速めた。

 消毒液の匂いが充満する医務室に入る。紅炎を確認した医師と看護師が頭を下げ、壁際に寄った。の容態を伝えてこようとした彼に手を挙げ制する。それで彼は紅炎が何を言いたいのかを察し、そのまま壁際に立つことにした。
白い清潔な寝台の上に、目を閉じて横たわっているを見つけ、彼はそこへ足を向けた。なるほど、武官が言っていたように、顔にも腕にも痛ましい打撲傷があった。衣服があるせいで今は分からないが、きっと、その服の下にも同じように紫色に変色した肌があるのだろう。そんな彼の姿を見て先程と同じように苛立ったのは、彼が自身の末弟以上に女のような顔をしているからだろうか。
「…………」
そっと、ガーゼが張られている口の端を指で撫でる。急激に、紅炎の中には怒りが噴き出した。
――何故、俺の呼ぶ声に応えず、こんな怪我をしている。名誉を守る為なら、俺に一言述べてから行け。不可避の暴行であったなら、何故助けを呼ばない。
、起きろ!」
バシン、との頬を叩いた紅炎に、壁際に控えていた医師は慌てた。いくら、彼が怒っているとはいえ、相手は気絶するまで暴行を受けた怪我人だ。しかし、そんな医師の心配とは別に、彼はその叩いた頬を優しく撫でた。先程の大声が嘘であるかのような態度に、医師たちは困惑する。
「……、紅炎様…」
「何があった」
頬を叩かれた衝撃からか、が目を覚ました。ぼんやりとした目を慣らすように数回瞬きして、彼女は傍に座っている紅炎を視界に入れて、微かに目を見開く――つもりだったが、実際は腫れた右目は動かなかった。
身体の節々が痛み、寝台に寝かされていることから、彼女はあの集団暴行から漸く逃れることが出来たのだと安心した。しかし、鋭い視線を投げかけてくる紅炎に、彼女はまた不穏な様子を感じ取った。
「私が勝手に――」
「嘘を吐くことは許さん」
紅炎の側室が嫉妬から、私を甚振った。そう言うのは簡単だったが、彼女はそれを言わないつもりだった。もし彼女が紅炎にそのことを伝えれば、彼は側室の狼藉に、彼女の国に何かしらの報復をするだろうことは分かっていたから。そうなってしまえば、関係ない人々までをも巻き込むことになりかねない。そう思ったからこそ、黙っていようと決めた彼女だったが、紅炎の鋭く射抜く視線に晒され、口を噤んだ。
「俺に嘘を吐くことは許さん。全て話せ」
言い聞かせるように紅炎が再度言うと、彼女の意志は彼の前に崩れ落ちた。紅炎が嘘を吐くなというなら、にはその言葉通りに真実を述べる以外の選択肢はない。その上、彼の射抜くように見据えるその目から、微かでも心配の気が見えてしまったから。そんなものを見てしまえば、彼女は首を縦に振るしかなかった。
は気分が進まないながらも、紅炎に呼ばれた後のことから順を追って説明し始めた。紅炎の側室の女性たちには日頃から嫌がらせを受けていたこと。そして、今回の嫌がらせは通常の比ではなかったこと、さらに、紅炎の命にすぐさま応じることが出来なかったことの謝罪。それらを伝え終った彼女は、彼の目を見て驚いた。
まるで、獲物を前にした猛獣のように、瞳をギラギラと光らせている。
「そうか…」
紅炎としては、何故もっと早くに嫌がらせのことを伝えなかったのかとに問い詰めたいところであったが、問い詰めたとしても、彼の口から出てくる言葉は分かりきっていた。
――どうして紅炎様の奥方様の悪口を言えましょうか。
そう言うに決まっている。彼はそれゆえににそれ以上の言葉を投げかけるのは止めた。そして、そのままわしわしとその頭を撫でる。紅炎の色んな感情が混じっている、そう気付いた彼女はされるがままにされていた。
「しっかり休養しろ」
「ありがとうございます」
そう言って立ちあがる紅炎に、は礼が出来ずに心苦しさを感じた。彼は威厳ある外套を翻して、颯爽と医務室から出ていった。
医務室から出た彼は、口元を歪める。しかし、彼自身はそれに気付いていなかった。
――俺の従者を傷付けるということは俺のことを傷付けるも同じ。
を傷付けた側室の女に怒りが湧くのと同時に、側室の女たちの祖国に攻め入る大義名分ができたことに、によくやったと褒めてやりたくなる。だが、胸糞悪いことには変わりない。
「直ちに側室の女たちを祖国へ帰せ。戦争だ」
「仰せのままに、紅炎様」
予め呼び寄せておいた楽禁に指示を出す。これから更に軍議が忙しくなるだろう。
――俺のものを勝手に傷付けるとは、万死に値する。
彼は、燃えたぎる衝動を感じながら、ギラついた目で空を見上げた。


2014/06/20



inserted by FC2 system