第九夜

 紅炎の従者として彼に仕えはじめてから既に一年半が経とうとしていた。既には19歳となり、彼の従者として以前にも増して働いている。
――失敗することを恐れるな。そこから学ぶことの方が多いのだからな。青秀など、俺の従者になった当初は将軍たちをお前以上に怒らせていたぞ。
彼女が仕事で不手際をやってしまい、それの謝罪に伺った時、このように紅炎に言葉を貰ったことは、今でも彼女の中で大切なものとして残っている。
初めての失敗に、寛容にそれを受け入れてくれた彼女の主。あの時の彼女にとって、その言葉は自己を肯定してくれるものだった。あの時から、彼女の心境は少しずつ変わっていった。主の為に尽くすという考えは元々あったが、それ以上に、心から紅炎に仕え、彼の手となり足となりたいと思うようになったのだ。しかし、彼女にはまだ眷属器がなかった。何故なら、紅炎が戦地に赴くことがなかったからである。何度か戦はあったが、全て彼の弟妹たちがその戦地へと赴いて行った。それを惜しんだこともあったが、最近の彼女はいずれ自分にも眷属器が与えられると信じている。
  そんなが、まだ成人しておらぬ青年であるというのに、紅炎に寵愛されているという事実は、禁城に住む者なら周知のことであった。忠誠心は人並み外れてあるが、力量的にはまだ従者の中で一番下だというのに、何故。そのように陰ながら彼女のことを悪く言う輩は少なくない。そんな彼らはを犬と揶揄することが多かった。呼び名は多くあれど、番犬や忠犬という呼び名が特に多い。特にそれが顕著に表れるのは、側室だというのに全く相手にされなく、それどころか、従者の青年を可愛がっているという噂を聞いた、煌帝国傘下の元姫君たちである。また、彼女らとは別の、若いというのに寵愛されていることから、出世の道を歩んでいるのことを妬む武官たちであった。
そして、今はその側室の姫君とその従者によって、行く道を塞がれていた。こういったことは少なくはなく、最近は更に過激になってきた嫌がらせに、彼女は内心眉を顰めたが、それを表面には出さず、紅炎の側室に微笑んだ。
「ご機嫌麗しゅう、奥方様」
「麗しゅう…ねぇ…」
腰を折り、深々と礼をしたにもかかわらず、目の前の女性は綺麗な顔を怒りで歪めた。彼女にしてみれば、相手の気を荒立てないように精一杯配慮したつもりなのだが、相手にとってはそうではなかったようだ。
キッと眉を吊り上げ、を見下ろす彼女は、わなわなと震える手でぐっと拳を握った。彼女から漂ってくる不穏な空気に、はまずいと顔を強張らせる。
「どうして、こんな…大して美しくもない男を寵愛されるのかしら…!」
嫉妬の炎でギラギラと目を光らせながら、彼女が腕を勢い良く振り上げる。には、それがスローモーションのように見えた。避けることも、押さえることも可能な速さであったが、相手は紅炎の側室。避ければ余計怒りを引き起こし、押さえれば従者ごときが無礼な、と騒がれることになる。
――紅炎様のもとに伺うところだったのに、運がない。
主に呼ばれ、彼のもとへと向かう筈だった彼女は、心中この道を選んだ自分の不運さを呪った。
バシンッと鋭い音が中庭に響く。一瞬後にやってきたジンジンとする熱と頬の痛みに、彼女は頭一つ分高い側室の顔を見上げた。
「何…?その顔は…。気に食わないわね」
しかし、それは彼女の怒りを煽るだけだったようだ。しまった、と思った時にはもう遅い。連れて行きなさいという言葉と共に、彼女の後ろに控えていた二人の従者がの身体を拘束する。
「な、何の真似でしょうか?!」
「躾のなってない飼い犬を調教してあげるのよ」
は必死に彼らの腕を解こうと身を捩るが、彼らは身体が大きく腕の力も強い。暫く抵抗してみたがまったくもって歯が立たないことから、彼女は諦めて項垂れた。

 が連れてこられたのは、側室の女性たちが住む後宮だった。紅炎が来いと言ってから既に数十分は経っている。主の命に従えなかったことだけが、今の彼女の胸を占めていた。
しかし彼女は高を括っていたのだ。このように後宮に連れてこられたといっても、相手は元姫君で残酷に弄ぶような知恵などないだろう、と。だが、目の前に広がった光景に、彼女は目を見開いた。
この側室の女性の中庭に十数人の男たちが並んでいたのだ。それを見て漸く彼女は悟った。何が何でも逃げるべきだったと。
「さぁ、お前が勇敢だという証明をしてちょうだい」
そうすれば、私も少しはお前のことを認めてあげられるかもしれないわ。そう言って、うふふと笑った彼女に、はとうとう顔を歪めた。
――嘘だ。私を甚振って楽しむ気しかないくせに。私が勝てるなんてこれっぽっちも思ってないくせに、よくも。
どん、と彼女を拘束していた従者に背を乱暴に押されて、男たちの前に立たされる。どの男も屈強な形をしていた。武器を使えるのであれば、皆倒せるかもしれないが、先程従者によって刀は取り上げられてしまっている。使えるのは自分の身しかない。
退路を確認したが、そこには既に従者が立ちふさがり、逃げられないようになっている。
――紅炎様のもとに行くためには、こいつらを倒さなくちゃいけない、ってことね。
目の前で悠々と笑んでいる側室の女性に、彼女はぞっとした。こんな残虐な顔を一国の王女が持っているなんて。
「さぁ、始めなさい」
彼女のその言葉と同時に、男たちが飛び出してきた。ぐるりと円状に囲まれそうになったところを、彼女は持前の俊敏さで避けた。しかし、彼女と同等とまではいかずともその動きに対応できる者たちもいる。先陣切ってやってきた短髪の男は、長いリーチを活かし、拳を彼女の顔目掛けて突き出した。それを必要最低限の動きだけで避けて彼女は反撃に出た。また彼が突きだした拳をかいくぐり、その腕と胸元を掴んで一気に地面へと叩き付ける。そして、その勢いのまま彼の項に重力とスピードが乗っかった肘鉄を食らわせた。
「ぐああっ」
「一人目…」
即座に彼女の背を向けて腕を振り上げた男を確認して、は昏倒した男から身を離す。二人同時に拳と蹴りを出され、彼女は瞬間的に後ろへと回避した。しかし、それを見越していたのか、後ろには数人の男たちが既に回っており、彼女の背を思い切り蹴り飛ばした。
「うっ、く…」
砂利の上に無様に転がり、頭を打つ。ずきずきとした背を抑えながら立ち上がれば、視界の端で楽しそうに笑っている紅炎の側室が見えた。

 既に紅炎の呼び出しから一時間が経とうとしていた。それでも、まだを甚振る男たちの数は残っていた。しかし、地面に伏している数は既に10を超える。あと5人を倒せば、彼女は紅炎のもとへ行ける。
そう頭では分かっているのだが、何度も蹴られ殴られ、関節技を決められた身体はふらふらと左右に傾く。
――くそっ、これしきのことで、ふらつくなんて!
「あはは!良い気味だわぁ」
紅炎の側室は高らかに笑い声を上げた。砂利で服を汚し、殴られて流れた鼻血が彼女にしてみては滑稽だったのだろう。そんな笑う彼女に気を取られている間に、男が一人に迫ってきた。
「しまっ」
避けようと足を後ろに出したが、意志とは別にぐらりと傾いた身体。そんな彼女の鳩尾に、筋肉で強化されている膝が炸裂した。衝撃を受け流すことが出来ぬようにと身体を押さえられ、彼女の口から唾液が出た。
「ガ…ッ、ああぁああっ!!!」
地面に落とされ、腹部を押さえて悶えるの頭に、彼女の笑い声が響く。
――痛い、くそ、なんで、私が…!紅炎様、ごめんなさい、ご命令に背いて…。
痛みでチカチカと瞬く視界を閉じて、彼女は意識を手放した。
頬に伝った涙を知っているのは、彼女の下にある、潰れた小さな花だけ。


2014/06/20


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