第一夜

  煌帝国の南部、錦東(きんとう)村。自然が多い農村だ。広がる田園、空は青く、山々は冬が明けたことに喜び、新芽を生やしている。鳥は自由に羽ばたき、ちらほらと立っている家々に止まることもあれば、瞬く間に飛び出して空中を旋回していることもあった。
その中で、一際大きな屋敷から出てきた少女。腰より下まである黒髪を結びもせず、桃色を基調とした綺麗な着物が汚れることも厭わずに、裸足で駆けて行く。その後ろ姿に必死で、お待ちください!お嬢様!!と悲鳴を上げている侍女が数人いた。彼女はそんなことを気にせず屋敷の裏に回り、馬房にいる一頭の駿馬に駆け寄る。
「おはよう、夏琴!」
「ブルルルルル」
乱れた髪を後ろに払って彼女は愛馬に微笑んだ。夏琴は鼻を鳴らして彼女が伸ばした手に顔を寄せる。屋敷の中で、また朝からお嬢様が乗馬を!!そう騒ぎ立てる侍女たちの声が届く中、彼女は夏琴に跨り屋敷を飛び出して行った。
 少女――は15年前に中流階級の武家の一人娘として生まれた。男(おのこ)を、そう望まれていた彼女だったが、周囲の期待を裏切る形で彼女はこの世に生を受けた。だが、男児でなくとも彼女は両親からも、忠臣からも愛され慈しまれ、心が清らかで優しい少女にまで成長した。一人娘だからといって砂糖のように甘やかすわけではなく、武道を父から教わっていた彼女は今ではそこら辺の同い年の少年たちより強いだろう。
ただ、彼女にはある問題点が一つだけあった。それは外見が可愛らしく武家の娘であるというのに、冒険心がありすぎること。お供の一人も付けず勝手に愛馬に乗り、村を駆け巡って両親を困らせている、所謂お転婆娘だったのである。15という年齢にもなればもう婚儀の話が来てもおかしくは無い。実際何度か彼女にもそういった話が持ってこられたことはあったのだが、相手がそのじゃじゃ馬振りを見て彼女を断るか、彼女がまだ結婚はしたくないと言うのが常だった。
いい加減、娘を嫁に出して安心したいと彼女の父親は常に思っていたが、彼女はそんな彼の気持ちを察せず、今日も村の少年たちと遊んでいるのだろう。はぁ……と元気が有り余っている自身の娘のことを考えている彼の元に、妻の凛が穏やかな笑みを浮かべてやってくる。
「あなた、そんなに気を落とさないで。もあと一年すれば落ち着く筈ですわ」
「凛よ…本当にそうだろうか。あの子は俺たちが男児を望んだあまりに、あんなに奔放になってしまったのかもしれないな」
元気なことは良いことだが。ふうむと顎髭を擦りながら、肘掛に乗せている肘を動かす。凛はそうですねぇと彼に同調するかのように眉尻を下げた。
そこに失礼しますと侍女の一人が入ってくる。彼女の手には一通の手紙があった。
「旦那様、帝都からお手紙が着ております」
「そうか。ご苦労」
彼は侍女から手紙を受け取り結んである紐を解いて中身を確認した。横で凛が禁城からなんて、いったいどういうことです?と訊ねるが、彼は全てを読み終わって諦めたように目を伏せる。見なさい。彼女は彼に言われて渡された手紙に目を通す。その内容は彼女の目を見開かせるには十分だった。
「…“一家に一人、男児を国に武人として貢献されたし”……そんな、あなた…!」
「仕方ない、俺が行くしかあるまい」
手紙をわなわなと震える手で握り締めた凛は、動揺している。そんな彼女を落ち着かせるように彼女の肩に手を置き、彼は首を振った。この家に男は主である彼しかいない。武家に定められていることだから仕方がないのだと彼女に冷静に諭すが、一昨年の鹿狩りの最中に落石が彼の右足に落ちて、それ以来彼は歩くのに杖が必要になっていた。もし、彼が国に仕えている間に戦争が起きれば、彼が死ぬ確率は高い。
「あんまりだわ…」
「嘆くな。いつか来ることと覚悟は出来ていた」
涙を流し、悲しむ彼女を彼は抱きしめた。


  朝一番から村の少年たちと遊んでいたは、昼前に屋敷に帰ってきた。何やら家を出た時とは違う、どこか重苦しさを感じながら彼女は足を洗ってから家に上がった。すぐにやって来た侍女が、今すぐ旦那様の所へと少し焦った様子で言うものだから、彼女は何かあったのかと父の部屋に向かう。
「父上、ただ今帰りました」
か。入りなさい」
扉をノックして部屋に入る。中には父と母が神妙な顔付きで椅子に座っていた。常とは違う二人の様子に若干困惑しながら、彼女は彼らの前にある椅子に座る。どうしたんだろう、二人とも何か怖い物でも見たかのような顔をしている。どうしたのですか?とこの場の雰囲気に耐えられず声を発すれば、父は丸められた手紙を手に掲げて見せた。
「俺は明日にでも禁城へ向かわなくてはならない。皇帝からのお達しだ」
「…まさか、父上が…?」
彼女はその手紙の意味がろくに説明されずとも分かった。兵として、国が男を求めているのは理解出来る。しかし父は不慮の事故で右足が動かない。怪我をするまでは武術と剣術を誇る彼だったが、たとえ禁城で鍛錬をしても今の彼なら戦に出てしまえば真っ先に死んでしまうだろう。彼女は拳を握りしめ、溢れんばかりの悲しみを抑えつけようとした。
彼が命令に応じなければ、この家は皇帝の力によって滅ぼされてしまうだろう。そうなれば私たちは露頭に迷い、その日暮らしの生活を強いられる。犯罪に走ったり売春しなければ生きていけなくなるかもしれない。そんなことをこの父が許す筈はないだろう。家族と忠臣たちを何よりも大切にしてきた父は、たとえ彼自身が死のうとも私たちが生きていることを願う。彼女は父の性格と彼から与えられる愛を知っていたから、その不安はもはや確信だった。
「無事に帰ってこられるかもしれないが、どうなるか分からないからな」
「分かりました。父上、今までありがとうございます」
椅子から立ち上がり彼に頭を下げた所で、彼女の心は決まっていた。父を禁城には行かせたりしない。父の代わりに私が武人として国の役に立つ。彼はそんな彼女のことを抱き寄せてぎゅっと抱きしめた。その腕の中で彼女はただただ決意を黒い瞳に燃やし、もう会えなくなるだろう両親とこの家の者たちに思いを寄せていた。
 夜になり、両親や家の者たちが寝静まった後、彼女は寝台から抜け出した。予め用意しておいた男物の着物に一人で着替え必要最低限の荷物を持って部屋を出る。まず、武器庫に行き、必要な刀を探す。蝋燭の僅かな明かりを頼りに、壁に掛けられている一振りの刀を発見した。これは、確か父がある東の国に遠征した時に持って帰ってきた品である。刀という、切れ味の鋭い長刀だ。それを手に掴み彼女は鞘からそれを取り出した。蝋燭の赤い光が刀身に反射して、オレンジ色に輝く。
「私は、今日から男だ」
躊躇せず、長い髪をむんずと掴みばっさりと切り落とした。一度だけでは到底全てを着ることは出来ず、二度三度と切るうちに、彼女の長かった髪の毛は肩ほどまでしかなくなってしまう。それを後ろで一つに結び、床に散らばった髪の一房を掴んで倉庫を出る。向かうは両親の寝室だ。気配を殺し、屋敷の中を歩く。そうっと音を立てず両親の寝室に忍び込みサイドテーブルに置いてあった手紙を掴んだ。これがなければ呼ばれた証明にはならないからだ。そしてそこに切った髪の毛を置いた。これで、翌朝彼らは私が居なくなったことに気が付くだろう。誰かに攫われたのではなく、自分の意志で家を出たことを表すため、彼女はそうした。
――父上、母上。今まで私を愛してくれてありがとうございます。
最後に、数秒眠っている彼らのことを見つめて、彼女は両親の寝室から出て行った。

  愛馬――夏禁に乗り、屋敷を出る。
「禁城まで4日程、よろしく頼むよ」
他の馬と眠っていたのに、起こしてごめんね。そう謝罪の意を込めて彼の背を撫でる。そうすれば彼はブルルルと鼻を鳴らして応えてくれた。
――暗闇の中に、一人の少女がとけて消えていった。

2014/04/18


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