毎回夢に出てくる「あの人」
顔も声も分からないのに
なぜこんなにも愛おしいのですか


世界の裏切り 第59話


――
脳髄に響く、甘く優しい声。
――
ねえ、そんな声で私を呼ばないで。その優しい声で私の名を呼ぶことが、どんなに残酷なことかあなたは知っているでしょうに。
なぜ、そんな悲しげな表情をして私を見るのですか。嗚呼、泣かないで。あなたが泣くと、私まで悲しくなってしまう。
――あなたは誰なの?…教えて……教えてよ…。


意識が浮上して、うっすらを目蓋を開ける。視界は涙でぼやけているが、私は自分の部屋に寝ているのだと理解した。
、起きたんだ。良かった」
「シャル?」
クリアになりだした視界の端にシャルナークのにっこりと笑った顔が入って、どういうことだろうと考える。何だろう、心なしか身体がだるい。
「吃驚したよ、打ち上げの後に急に熱出して5日も寝込んでたんだから」
「え……?」
ベッドの脇に椅子を置いてそこに座ったシャルが話し出す。そんなことがあったなんて、と自分自身の事なのにどこか客観的に感じているのは、倒れた時の記憶が無いからに違いない。確かに打ち上げで皆の機嫌が上昇していた所までは覚えている。だがそこから先の記憶が無いから、そのあたりから症状が出始めていたのだろう。
「ごめんね、迷惑かけて」
「何言ってるんだよ。確かにパクたちは心配していたけど、こうして熱も下がったんだし、大丈夫だよ」
ベッドに横たわったまま彼を見上げたら、くすくすと笑われてしまった。こういう所、シャルは上手いと思う。私が申し訳なさを感じさせないように軽く話題を振ってくれて、にっこり笑う。
彼の少し冷たい手が私の額を触り、熱がもうないということを確認した。その時、心臓が妙な感じに跳ねてしまったが、彼には気付かれていないだろうか。
「パクたちに、の熱が下がったこと言ってくるね。あ、ここに飲み物置いておくから」
「うん、ありがとう」
「また戻ってくるから、安静にしててね」
そう言って彼は部屋から出て行った。静かになった部屋の中で、今まで見ていた夢をそうっと思い出す。
夢の中で、私たちは地面にへたり込んでお互いに手を合わせて見つめ合っていた。彼は黒くて大きな目に、黒の長髪を持っていて、容姿はまるで―――
「…私」
そう、彼は私に瓜二つだったのだ。パーツによって男女の違いはあれど、明らかに関係ないとは言い切れない繋がりを感じた。そして、彼の私に対する態度。それを思い出すと、悲しくて苦しくて、胸が締め付けられる。
こんな痛み、忘れてしまいたい。どれだけ涙を流そうが、止まることが無いこの悲しみは、いったいどうすれば良いのだろう。
――私はあの人を知っていたのだろうか。もしかして、忘れてしまったの?
囁くような小さな声が聞こえる。ああ、駄目。何故か分からないけれど、これ以上考えてはいけないと誰かが頭の中で警告してくる。
――彼の事が気になる。けれど忘れたい。二律背反したこの気持ちが心の中で鬩ぎ合って、堪らなく苦しい。


少し、外の空気を吸おう。この部屋で一人そんなことを考えているから苦しくなるのだ。そう考えて軽く上着を羽織り、部屋を出る。屋上へと続く階段を上り、扉を開けてフェンスに寄りかかった。上を見上げると、ヨークシンでは見えなかった星たちが瞬いていて、心が静まっていく。
吐く息はまだ白くないけれど、閑寂とした空気が夜の空には満ちていて、どこか物哀しい気持ちになった。
「もう、安静にしててって言ったのに」
「シャル…ごめんなさい」
突然かけられた声に目を軽く見開きながら、彼を振り返る。暗闇の中に薄らと見える彼の腕の中には温かそうな毛布があって、彼はそれで私の身体を包み込んだ。
「何考えてたの?」
まるで、私の心を読むように問いかけられた言葉に、暫し逡巡する。彼に、どう伝えれば良いのか分からない。
「…思い出せなくて、辛いの」
彼の横顔を見ることなく、満天の星空を見つめながらそっと呟く。今まで出したことが無い思いを口に出して、少し緊張していた。彼からの返事が少し怖くて、なんで怖いだなんて思うのかも分からなくて、足元を見つめる。――私って、すごく弱い。
「…なら、思い出さなければ良い」
「シャル…?」
そう言って彼は突然私のことをふわりと抱きしめてきた。少し力を入れれば離れることが出来る程度の、優しい抱擁。彼の名前を呼ぶけれど、彼の逞しい胸に顔を押し付けられて窺うことが出来なかった。
忘れることが出来ない程記憶に残ってしまった、あの人。名前も知らない、記憶にもない闇色のあの人が私の心を酷く締め付ける。
が辛くないように、悲しみを忘れられるように、俺がいつも傍にいる……」
――あの人を忘れて良いの?シャルが忘れさせてくれるの?
ぎゅうっと腕に力を入れた彼に、身を任せる。優しくて、残酷なシャルナーク。私が欲しい言葉を知っていて、それを投げかけてくれる愛しい人。まるで、甘い罠のように私を引きずり込んで。彼の優しさは中毒性のある蜜のよう。
「利用して良いよ。俺、のこと好きだから、どんなことでも出来る」
「…ううん、利用なんてしない。――私も、シャルのことが好きだから…」
想いを伝えて、少し恥ずかしくなった。ちら、と上を見ると彼と目が合う。綺麗な翡翠色の瞳、まるで宝石のようにきらきら光って。吸い込まれてしまいそう。
そのままじっと見つめ合うと、触れるだけのキスをされた。
「何で泣くの?」
いつの間にか流れていた涙を、彼が掬い取って舐めた。しょっぱい、なんて呟きながら。
「幸せで…」
素直に思いを口にすると、彼は抱擁を強くした。
「俺も」
はにかんだ彼の腕の中で、目を閉じる。空には満天の星空が煌めいていて、私たちをそっと見守っていた。
暗闇の中に、ぽつんと存在する一つの影。元々は二つあったものが合わさって、求めていたものが満たされた。


願わくば、この幸せが一秒でも長く、永久に続きますように。


2012/09/29


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