今まで信じていたことが崩れていく、そんな音
私は必死に耳を塞いで
それを聞こうとしなかった


世界の裏切り 第58話


痛い、痛い。胸が締め付けられて苦しい。息が出来ない。階段を駆け下りながら、嗚咽と共に涙を流す。どうして、泣いているの?私はあの人の事を知らないというのに、どうして、こんなに胸が張り裂けそうに苦しくなるの。
――君を愛しているのに。そう呟いたあの人の言葉を思い出す。ああ、なぜこんなにも私の心をかき乱して、切なくさせるのですか。ひたすら止まることのない涙は、もしかしたら一生分の涙なのかもしれないだなんて馬鹿なことを考える。
漸く階段が終わってビルを飛び出した。足元が覚束ない。足が震えているのかと思ったら、全身が震えていた。
――どうして、どうして。分からないのに、知らないのに私の心を締め付けるあの人の声、涙。泣かないでほしい、泣かないで。
あの人が泣いていると、私までとても悲しくなってくる。勝手に身体が動いて、いつの間にか彼の頬を包み込んでいて、私自身が混乱した。離れなければ、そう本能的に悟って彼から逃げてきたけれど、かき乱された心は未だ落ち着きを取り戻さない。
ピリリリリリリリ、と携帯の鳴る音がする。相手はシャルだった。
「…もしもし?」
?今セメタリービルの近くまで来てるんだ。団長の付き人はもう良いんでしょ?こっちおいでよ」
いつも通りの優しい彼の声に、うんと頷く声が震えそうになってしまった。慌ててそれを隠す。
――ねえ、あなたの声はこんなにも私を安心させるの。知ってる?
詳しい場所を彼から聞いて、私はその場所に移動することに決めた。泣きすぎて、少し鼻声気味になっているのを彼に気付かれたかもしれないけれど、彼は何も言ってこなかった。それに少し安堵して、私は走り出した。


「シャル」
、こっち」
名前を呼ばれて、彼が座っている木の枝に飛び乗る。じっと見つめられたら泣いたことを知られてしまいそうで、俯いているとふいに彼に抱きしめられた。
「――っ」
「何があったか知らないけれど、辛い時は我慢しないで。言いたくなかったら、何も言わなくて良いから、俺を頼って」
頭上に響く彼の声とどこまでも優しい心遣いに、止まっていた涙がまた溢れそうになる。どうして、あなたはこんなに優しいの?そう伝えたかったけれど、今声を出せば震えてしまうことが分かっているから、少しの間だけ彼の優しさに甘えることにした。




――初めはただの興味だった。近頃有名になってきた演説屋として働いている女がパーティーの主催者に代わって演説をすると必ず相手はその事柄に納得するということを噂で聞いたのだ。その事柄に念が関わっているのは容易く想像でき、俺がその能力が気になったのが全てのきっかけだったのだろう。
俺がそれに興味を持った結果、シャルに集めてもらった資料で彼女がどんな能力を使うのかを知って、その能力がほしいと思った。けれど相手はゾルディック家の箱入り娘で、あのイルミの双子の妹である。彼女から能力を盗んだら些か分が悪いような気がした。イルミは――そういった事柄はあまり話さなかったが、彼がどれだけ彼女に執着しているのかを理解していたから――俺の事を恨み依頼を引き受けてくれなくなるだろう。
お互いが本気を出せばただでは済まなくなる、そう分かっていたからこそ彼女を利用する為、進んで俺たちに協力するように仕向ける為に邪魔な記憶を奪い、蜘蛛に繋ぎとめることにしたのだ。
――けれど、今ではどうだ。団員達は彼女の人柄に絆されて、仲間のように扱っているではないか。まるで、それがそうであるべき真実だと思い込もうとしているように。たぶん、きっかけなんてものは好きなだけあったのだと思う。シャルは流星街にいた時からのことが好きだったし、パクは彼女の記憶を奪ったことの罪悪感から彼女に優しくしていた。その他の団員も同じく、時間に差はあれど仲間のように、仲間以上に慈しんできたのだろう。しかも、あの一筋縄ではいかないフェイタンまでもが彼女に心を開き始めたときた。
かく云う俺も、彼女に感化された者の一人だ。いつからだかは分からないが、いつの間にか彼女の事を利用する道具、ではなく仲間の一人として見始めていた。どうしてかはいくら考えても出てこない。しかし、それでも良い気がする。それだけの魅力が彼女にはあったのだということなのだろう。
だから、彼女に蜘蛛の仲間だという印としてルビーのイヤリングも与えたし、重要な仕事にも彼女を同伴させた。その結果、どうだ。この俺が、罪悪感に悩むことになった。今までどれ程残虐非道な行いをしてきたのかを忘れたわけではない。それに比べたら今回のことなど、それらの足元にも届かない筈なのに、それなのに一人の少女に心を掴まれている。その事実に気が付いた時、この感情は危険だと感じた。この感情を持ち続けていたら旅団崩壊の危機にも繋がりうる。そう、頭では認識しているのに、心がそれを拒んだ。
彼女を解放しろと、思いやれと。欲望には忠実だった俺には知りえない考えが俺を苛め続ける。
だから、これは一か罰かの賭けだった。9月3日、ウヴォーの弔い合戦としての大切な日に、俺はイルミへ十老頭の件に加えて、ヨークシンでの新たな依頼をした。時間的に厳しいかと思っていたが、彼は少し考えた後に了承の返事をしたから、あとは二人の運に任せるだけだった。運が良ければ、彼らは再び会うことが出来るだろう。
果たしてはイルミに出遭えるのだろうか。遭った時、彼女はきっと彼の事を覚えていないことに違和感を覚えるだろう。だが、そこから先の事は彼女の判断に任せることにする。こんな、善人ぶった俺なんて今回限りだ。甘ったるくて、普段の俺なら絶対に正気の沙汰とは思えない、そんな考えなのに。それほど、彼女を一人の人間として認め、大切に感じているのだろう。彼女が真実を知って尚、蜘蛛に留まると言うのならそのまま受け入れるし、もし出ていくと言うのなら止めることはしない。
きっと、これが最初で最後の―――


「お前が決めろ、


蜘蛛か愛する家族か。その手でお前が本当に望んでいるものを、足掻いて選びとれ。


2012/09/22

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