来葉峠での死体すり替えトリックは上手く成功した。まさかここまで上手くいくとは思ってもみなかったが、それは水無怜奈も一緒だろう。だが今は一刻も早くこの胸と頭を濡らしている血糊を洗い流したい。
彼女の車から下りた赤井は、周囲の気配を探りながらも予め用意しておいたアパートに戻った。扉を開けて靴を脱ぎ、一直線に向かうのは浴室だ。綺麗に掃除されている浴槽に湯を張る為にボタンを押す。ピッ、という音と共にお湯を出し始めた給湯器を見て、とりあえずこの汚れた服だけでも脱いでおこう、とニット帽や上着、シャツを脱いで洗濯籠に入れた。
「はぁ…」
リビングに戻って上半身裸のままテレビの電源を付けた。先程の事件はまだニュースで報道されていないだろうが、一応確認しておく。酒を仕舞っておいている棚からバーボンを取り出した所で、これから風呂に入ることを思い出し元の場所にも戻す。酒を飲むのは風呂を上がってからにするか。
とりあえず水を一杯飲みながらニュースキャスターが話している様子をぼんやり見る。だがこれといって気になる情報は無かった。組織の気配もないし、本当に先程までのことが嘘だったかのように平穏だ。
ピピッと風呂が沸いたことを知らせる音が鳴って赤井は浴室へと向かう。くわ、と欠伸をして残りの服も脱ぎ捨てて、浴室の扉を開いた。
「………」
しかしすぐにそれを閉めた。何故なら、湯が張った浴槽に一人の見知らぬ少女が服を着たまま気を失って浸かっていたから。見間違いだろうか。幾らなんでも煙草にそんな幻覚作用なんてある筈がないのだが、と目頭を押さえる。腰にタオルを巻きつけて再度扉を開いてみれば、やはりそこには先程の少女がぐったりと目を閉じた状態で浴槽に浸かっている。
「う…ん…」
「おい、大丈夫か」
しかしとうとう彼女は目を覚ましたようだ。どうやって赤井がいる部屋に気配もなく入ってきたのか全く分からないが、尋問するにしてもこの状況では出来るわけもない。そう思って彼女に近付いた所、しぱしぱと何度か瞬きをした彼女は徐に赤井の姿を視界に入れて「ぎゃー!!!」と大きな悲鳴を上げた。
その上、あまりにも衝撃的だったのかそのまま気絶して湯の中に溺れそうになっている。ぎゃー!なんて叫びたいのはこっちなんだがな。そう思いながらも、赤井は全身濡れている彼女を湯の中から救出して、一先ず服を着替えさせることにした。勿論、こんなに年が離れた少女に下心なんて湧く筈もないから。今は会えていない妹とそう年齢が変わらない彼女にそんな思いを抱いたら犯罪だろう。それ故、彼女も許してくれるだろうと躊躇なくその服に手をかけた。


 赤井と共に暮らし始めてから1カ月。最初はが異世界の海賊の娘だということを信じてくれない様子の彼だったが、1カ月も共に暮らしていればが言っていることは嘘ではないと信じてくれたようだった。
だが、彼に信じてもらうまでの道のりは辛く長いものだった。何しろ彼は何か事情があるようでを軽い監禁状態にしたし――信じてもらう為には仕方ないとは諦めていた――、やたら組織とやらについて訊いてきた。その上、普段の彼とは別人になりすましているようなので彼のことは沖矢さんと呼ばなくてはいけない。そうしなくてはいけない理由をは知らされなかったけれど、そこまでするぐらいなのだから誰かに命を狙われているのだろう、と海賊の勘を働かせた彼女だった。だが、そんな風に外に出ることを許されなかっただったが基本的に彼はご飯を与えてくれるし優しかった。何かしらの疑いが晴れた後は、勿論彼はすまなかったと謝ってくれたし。
 そんな彼と過ごす日々は大層平和だ。少し前に暮らしていたアパートが火事になって住む所が無くなってしまった際には大いに慌てただったが、彼が知り合いの工藤家宅を借りることが出来たようで今はそこに暮らしている。アパートと違ってもの凄く広いし豪華な内装には勿論喜んだ。
そして今はこの家の主である工藤有希子がやって来て赤井に料理を教えている所だった。週に一度やって来てくれる彼女のおかげで彼の料理の腕前が徐々に上がっているのは嬉しい。は勿論食べる専門だが。
「次は玉ねぎを――って、いきなり強火は駄目よ!」
「すみません」
身体の大きな赤井が――姿は沖矢で声は赤井なのだが――スタイル抜群で可愛らしい有希子に注意されている様子は思いの他面白い。うふふ、と笑って彼らを見ていたらその視線に気付いた彼がギロリとに鋭い視線を向けた。うわ、怖い。いつも沖矢の姿の時はにこやかにしている彼だったが、こうやってしばしばには素を出してくるものだから困る。コナンくんに接している時みたいに優しくしてよ。そう思ったけれど、そういえばコナンと接している時の彼もこんな風に雰囲気が尖っていたかもしれないとは思い直した。出来れば有希子さんと同じように接してほしい。これなら大丈夫だろう。
「有希子さん、どうやらも料理作りに参加したいそうです」
「あらっ!ちゃん大歓迎よ!いらっしゃーい!」
「えっ、ちょっ」
赤井の言葉によってぱあっと顔を輝かせた有希子はびゅんとの所までやって来て、早業での身体にエプロンを身に着けさせ台所に連れて行く。勿論料理が出来ないは慌てたが、台所で不敵に笑っている赤井を見て嵌められたと肩を落とす。どうやら先程笑ったことに腹が立ったらしい。彼はプライドが高くて完璧主義者のようだから、の態度に少しばかり矜持を傷付けられたのかもしれない。に対してだけ大人気ない様子の彼にちえっと思うものの、言葉にすれば今度は彼に夜の晩酌に付き合わされ翌朝二日酔いで頭痛と吐き気を覚えることになるのは分かっていたので、有希子の指示に従って牛肉に下味を付けることにした。
「そんな顔をするな」
「えっ、顔に出てました?」
下味を付ける段階で既に「そんなに塩かけちゃ駄目よ〜!」と有希子に注意されたは、彼女の足を引っ張っていることに申し訳なさを感じていた。叩けば大丈夫だから気にせず次に行きましょう!と彼女はに微笑んでくれたけれど、やはりは赤井よりも料理をしたことが無いおかげで一々彼女の手を煩わせてしまう。赤井さんが呼ばなければ有希子さんの邪魔せずにすんだのに、と思っていた所、彼から頭をぽんと撫でられる。それに驚いて彼を見上げれば、お前程考えていることが分かりやすい奴はいないと返されては苦笑した。どうやらお見通しだったらしい。流石は赤井さんだ。
「誰にでも得意不得意はあるものよ!」
「そうですね。だが、俺の料理の手伝いくらいはしてほしいな」
「え、えぇ〜……。頑張ります」
有希子がそんなにすかさずフォローを入れてくれるけれど、対して赤井は容赦ない様子でを見下ろす。姿は沖矢なのにふんと不敵に笑う彼に不承不承頷けば、本当はお前にも作ってもらいたいんだがな、と炒めた野菜にトマト缶を追加させて煮込み始めた彼が言う。美味しそう。トマトが好きなはそれにじっと目を向けていたけれど、彼の言葉にぎくりとする。
「面倒くさいからって……料理って大変なんですよ」
「違う。一緒に暮らしてるんだから一度くらいお前の手料理を食べたいと思ってもおかしくないだろう」
そんな彼にこの現状を見てそう言うのか、とジト目で見上げれば彼は首を振った。彼のその言葉に暫し沈黙が訪れる。
――私の手料理が食べたい?
わけが分からなくて隣での様子を窺っていた有希子に視線を向ければ、彼女は目をキラキラさせてこちらを見ていた。いったいどうして彼女がこんな風にわくわくした様子なのか分からないが、本当に17歳の子どもがいるのかと疑ってしまう程可愛い。こんな奥さんを貰えるなんて優作さんは幸せ者だなぁ。
脱線しかけた頭を元の思考に戻して、はありがとうございますと彼に伝えた。の料理下手な様子を見た上で料理を食べたいと言ってくれるなんて懐の深い人なんだなぁ、と嬉しくなって。彼は勿論何で礼を言われるのか分からないといった顔をしていたが。
「因みに、有希子さんが勘違いしているようなことはないですよ」
「あら〜、本当に?」
うふふと楽しそうに笑っている有希子に、赤井がにこやかに話しかける。にはその会話の意味がよく分からなかったが、とりあえず今はこの料理教室に集中しようと、赤井たちの会話を遮断させた。


 ふと、珍しく赤井がリビングのソファで居眠りをしているのを発見した。時刻は14時過ぎのこと。もうすぐコナンたちが来るのに寝ているなんて。きっと昨夜遅くまでジョディやキャメルたちと何か大切なことをしていたということだから疲れていたのだろう。その間は沖矢に変装している優作の演技をコナンと一緒に眺めていたから、彼の苦労は分からない。
穏やかな顔をして寝ている彼にむくむくと悪戯心が擽られる。今は沖矢のメイクをしていないから大丈夫だろう、とペン立てに置いてあるマジックを取り出してそうっと彼に近付く。ちょっとだけ。本当にちょっとだけ。にやにや、と起きた時の彼の様子を想像してしまって、思わず笑い声を出してしまいそうになるのを堪える。
いつも何かとのことをまるで妹のように叱り教育してくる彼に対する意趣返しだ。これくらいならすぐに水で落ちるし可愛いものだろう。
そっとキャップを外してマジックを彼の顔に近付けた所、突然ぐいと手を引かれて視界がぐるんと回った。
「わっ!?」
「何だ、か」
どん、と背中にソファの柔らかさを感じた後、漸く落ち着いた視界に赤井によって押し倒されたということを理解した。やけに気配を殺していたからのことを泥棒かと思ったらしい。何か、すみません。勢いで攻撃されなくて良かった。まあその場合には能力で防ぐことが出来ただろうけど。でも怖いことには違いあるまい。
気配を殺して赤井に近付いた正体がだと分かったことで彼は拘束していたの腕を離したが、その手に握られているマジックを見て眼差しを鋭くした。
――あ、これはまずい。
「何だ、これは」
「――カレンダーに予定を書こうと思って…」
「お前、俺に近付いてきただろうが」
へらりと笑って彼の追及から逃れるようにマジックを背後に隠そうとするもそれを彼の手に阻まれる。やばいこの顔絶対に私がやろうとしていたこと分かってる。思わず無言になれば、彼はほうと頷いてニヤリと不敵な笑みを浮かべる。あ、何か変なスイッチ押しちゃったみたいだ。
「俺相手に黙秘か。いつまで耐えられるかな」
「え、ちょっと何す――!?」
が逃げられないようにと足の上に座り込んだ彼。痛みは感じないが、如何せん彼の身長と筋肉のせいで重い。その上彼はの脇腹に指を這わせた。如何わしい言い方だったが、所謂くすぐりである。自身の能力は攻撃を食らわないものであることは知っていたが、どうやらくすぐりは効くようで。こちょこちょと脇腹を擽ってくる彼には笑い声を上げた。
「ひっあはは、――っっ!うひひっ、…!!」
「すごい顔だな」
じたばたと身を捩って彼の魔の手から逃れようとするけれど、彼の体重のせいで全く逃げることが出来ない。ちくしょう。顔に落書きしようとしていました、ごめんなさいって言わせたいだけだろうにこんな方法を取るとは汚い大人だ。
ぐいぐいと彼の腕を押し返すけれど彼の腕力は強くて押し返せないし、彼はここ最近一番の良い笑顔で。は笑って泣いて叫ぶことしか出来ない。
「あー!!ひひっ駄目!そこあははっやめて!!」
更に彼は器用なことにの脇腹を片手でくすぐりながら、足の方にまで手を伸ばす。やめて、駄目だって足の裏は脇腹以上に弱いんだ。逃げようとするけれど到底逃げられるわけも無く、の左足の裏は赤井の手によって餌食にされた。だがその姿勢は疲れるのかすぐさま脇腹に集中砲火がやってくる。
「やぁっ!!ごめ、んなさぁい!〜〜〜っ!!!も、やめっ」
苦しい。死ぬ。笑いすぎて涙は止まらないし息はまともに出来ない。ひーひー、と顔を真っ赤にして笑い泣くを見下ろして、赤井は大変満足そうだ。ごめんなさいなんてこんなことしなくても言うのに。いや、未遂だったから言わなかったかもしれない。ちくしょう、許さないぞ赤井さん。
「…2人とも、何してるの……?」
しかしそこに新しく加わる女性の声。え?とが涙目でその声の方を向けば、リビングの扉を開いて顔を真っ赤にして固まっているコナンとキャメル、眉を寄せているジョディがいた。その後ろからは何やら「お邪魔しちゃったかしら」と笑っている有希子が覗いている、ああ、救世主か!彼らの出現によってぴたりと動きを止めた赤井の様子など確認する余裕などなく、はコナンたちに向かって手を伸ばした。
「皆さぁん…助けて…」
「……赤井さん……」
「秀、これはいくらなんでも…」
「いや、これはだな、ただお仕置きをしていただけで」
「お仕置き!?」
はぁはぁ、と息も絶え絶えに4人を呼べば、コナンとキャメルは赤かった顔を元に戻して赤井のことを咎めるような目で見た。ジョディは彼らより更にきつい眼差しを彼に送っている。やった、どうやらコナンたちはの味方であるらしい。あら残念、と言っていた有希子はがこのまま笑い死にしても良かったと思っているのだろうか。ちょっとショックだ。
彼らの視線によってに覆いかぶさっていた赤井が退いて、はわーん!とジョディに走り寄った。くすぐられすぎてまるで生まれたての小鹿のようなふらふら具合だったけれど。
「ジョディさん、助かりました…」
「もう大丈夫よ」
優しく受け止めてくれたジョディに安堵して見上げたら、ものすごく良い笑顔で微笑み返された。この後、赤井がどうなったのか、は知らない。


世界中の幸せがお前に降り注ぎますよう
2015/07/31
タイトル:ジャベリン//リクエスト内容:もしも赤井さんのもとにトリップしていたら

◇あとがき◇
こもりさん、今回はリクエストありがとうございました。相手はおまかせということだったのでこんな風に友情メインになりましたがどうでしょうか?楽しんでいただけたら幸いです。
時期的には赤井さん死亡(仮)→緋色編後って感じです。服を脱がしたことを後々知った夢主に頬を引っぱたかれた赤井さんは「解せぬ」状態になりましたし、有希子さんに好きなんじゃないかって疑われたり、ジョディさんたちに無理やり襲っていたんじゃないかと勘違いされてしまったので、少し不憫な赤井さんでした(笑)ちょっとキャラがフランクになり過ぎたかもしれませんが、お許しください。赤井さんサイド書いていてとても楽しかったです!またお越しくださいませ。

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