その日は、安室とは朝から箱根に向けて車を走らせていた。それは安室が商店街でカップル限定の温泉宿2泊3日の旅の券を当てたからである。しかし、実はその“当てた”という件は彼の嘘であった。事前に彼が宿に予約を入れ、カップル限定だから今日は恋人の振りをするようにとに嘯いて頷かせたのである。
――今日ぐらい、恋人の気分になっても罰は当たらないだろ。
そんなことを思いながら彼は隣に座っているをちらりと見た。温泉にわくわくしているのか、宿のパンフレットを見ている。写真が多く載っているから、難しい漢字が読めなくても分かるだろう。それなりに良い所を予約した為、雰囲気も良い筈だ。
、ガムくれるかい?」
「はい。どうぞ」
運転中のためハンドルから手を放せない安室は、に飲み物入れ付近に置いてあるガムの箱の存在を教える。その箱から一粒ガムを取り出した彼女は指で摘まんだそれをあーんと口を開けて待っている安室に近付けた。普段の彼女だったら、こんなこと恥ずかしがってしないだろうが、今日は徹底的に恋人らしくするのだと言い含めている為、単純な彼女は恋人らしく振舞ってくれる。ふと、そんな彼女に悪戯心が疼いて、その指ごと口に含んだ。それにびくりと震える彼女。
「!?」
「ごめん、見えなかった」
「あ、そうですか…」
ころん、とガムを奥歯に押しやって、故意ではなかったのだと彼女に苦笑する。そうすれば、素直な性分の彼女はそれに納得して赤い顔を冷まそうとしていた。そんな彼女を横目に見て、思わずムラッとしてしまったのは致し方ないと思う。


 昼頃に到着した、安室が当てたという旅館の趣はとても良くて、は瞳を輝かせた。船に乗っている間は一度も見たことがない和の国の造りをした建築。竹の筒に水が溜まる度にコーンッと良い音が響く。あれはししおどしと言うのだと安室から教えてもらったはへえと頷いた。日本人は素晴らしいものを考えるなぁ。
安室様のお部屋はこちらでございます、と着物を着た女将に案内されて、はとても興奮した。着物、なんて物はテレビの中でしか見たことがないし、この女将の物腰の柔らかさに日本人の品が窺えて。すごいすごい、と内心で和の国日本を堪能しているは部屋に到着して更に気分が高まる。
「たたみ!」
「ああ、家には無いからね。良いだろ?」
扉が開かれた先には、日本式の部屋を象徴する青々とした畳が敷かれている。新品に近いからだろう、畳の良い匂いがしてはそれだけで幸せな気分になった。女将がいなくなったことを良いことに、ごろんと寝転がって畳の感触と香りを楽しむ。改めて日本を感じた瞬間だった。
「すごい素敵な部屋ですね」
「気に入ってくれて良かったよ。もう昼だから昼食頼もうか」
「はーい!」
上着を脱いでクローゼットのハンガーにかける安室の言葉に頷く。どうやら、食事はこの部屋まで持って来てくれるらしい。至れり尽くせりな状況に、はだらしなくにやける。まるで自分が働かなくても良いようなお姫様になったような気分だ。いや、いつも食事を用意してくれるのは安室だけど。
それから暫くしてやって来た、色鮮やかで食材の味を生かした海山の幸の料理に舌鼓を打つ。陶器や漆器で料理の美しさが引き立てられていて、食べるのが勿体無く感じられるような内容だった。量も満腹、とまではいかないけれど十分お腹は満たされている。
、浴衣あるけど着る?」
「着ます」
昼食を食べて落ち着いた頃に、クローゼットから取り出されたそれに、は目を輝かせた。よくテレビで若い女の子たちがこれを来て夏祭りに出かけたりしていたのに、も憧れていたのだ。旅館で着る浴衣と祭りの時に着る浴衣は少し違うようだが、白地に椿の花が咲いているその柄を見ては喜んで安室の手からそれを受け取った。安室が着る浴衣には白地に大きな白虎が描かれている。一見派手な筈なのに白と白という組み合わせのおかげか下品さもなく、上品で雄々しい。
「着方分かるかい?」
「分かんないです。見本見せてくださいよ」
手に持った浴衣を広げてみても、には着方はさっぱり分からない。それに気付いた彼が、服を着たままその上に浴衣を羽織る。合わせ目は左が上だからね、と言って帯をくるくると締める彼に理解したははいと頷く。
じゃあ着替えようか、と自分の寝室で着替えようと思ったは今まで開けていない扉を開くが、そこは洗面所だった。あれ、一体どういうことだろう。
「安室さん、寝室どこですか?」
「ん?ああ、夜はここに布団を敷いて寝るんだよ」
「え?」
何故寝室がないのか分からなくて、窓辺の椅子に座って中庭を見ている彼に声をかければ、思いも寄らぬ言葉が返ってきた。それは、もしかしてこの部屋で一緒に寝るということだろうか。なんで、嘘。
「むむむ無理ですって!」
「いつもと同じじゃないか。寝る場所は違っても部屋に鍵なんてかかってないし、ほとんど同じ空間で過ごしてるだろ」
ぶんぶん、と首を横に振る。どうして好きな人と同じ部屋で寝なくてはいけないのだ。そんなの緊張して寝られるわけがない。しかし、彼に言葉にうん?と首を傾げ、え…確かにそうですけど…?と返した。何か自分が言いたいことと違う気がするんだけど、彼に当たり前のように言われるとそれが正しいのかもしれないと思ってしまうから不思議である。
「それに、今日は恋人としてこの部屋が与えられてるんだから、別々の部屋にするなんて出来ないよ」
「そ、そうですか……」
尚且つ、正論を言われてしまいは渋々頷いた。確かに、宿泊の条件として恋人同士であること、と上げられているのだからそれもそうだろう。何だか腑に落ちないけれど。それにあんまり別の部屋を望むと我が侭だと思われるのではないか、と思っては彼の言葉に従うことにした。布団を離して寝たらきっと寝れる筈だ。
仕方なしに洗面所で着替えることにして、は扉を閉めた。着ていた服を脱いで浴衣を羽織り、彼に言われた通り左側を上にして帯できゅっと締める。うわぁ〜初浴衣!可愛い!最後にバレッタで髪の毛を一つにまとめた。
鏡で確認しても別におかしな所はないので、洗面所から出る。
「あ、」
「良く似合ってるじゃないか」
そこには、が洗面所で着替えているうちに浴衣に着替えた安室が洋服を畳んでいた。白虎が正面に来るようになっているデザインによく似合っているとも思った。ほけ、と彼に見とれていたのに気が付いて、慌てても安室さんも似合ってますねと彼に伝える。顔に熱が集まって、彼にバレないように冷ますのに必死だった。


 安室に卓球とやらに誘われたは赤と黒の面がある団扇のようなラケットに首を傾げた。これでピンポン玉を打ちあうらしいが、どことなくテニスに似ているようで似ていない。ネットに引っかからないように、と少し高めに球を打つ。
「わっ」
「そう、その調子」
卓球初心者ということもあり、かなり手加減してくれている安室とラリーを続ける。だけど、やはり慣れなくて何回も彼にポイントを奪われてしまう。温泉に来たら大抵の人達は卓球をやるというのだから不思議な習慣だ。はそう思いながら落ちたピンポン玉を拾って、彼に向けてサーブをする。今回も打ち返されるんだろうな。そう思っていた所意外にも反応に遅れた彼はのポイント獲得を許した。
「やった!」
「……、肌蹴てるよ」
ぴょんと飛んで彼から1ポイント奪ったことを喜ぶ。しかし、彼の言葉に視線を下にずらしてみれば、帯が緩くなって合わせ目から肌と下着が露出していたことに驚いた。
「―――ッ!?」
卓球台の影に隠れるようにしゃがみ込んで浴衣の合わせ目をぎゅっと手繰り寄せる。み、見られた。今日の下着の色は淡い水色だ。それを彼に見られるなんて。かあっと顔が熱くなって心臓がどくどくと忙しなく動いてどうしようもない。何でもっと早く言ってくれなかったんですか!なんて彼に八つ当たりをすれば、ごめんと苦笑している彼の声が聞こえる。とにかく、早く帯を締めないと。まさか、卓球をした程度でこんなに簡単に着崩れるとは思ってもみなかった。幸いなのは、この場に安室しか人がいなかったことだろうか。
「あれ…、んっと…」
彼に背を向けて立ちあがって、浴衣を合わせてきつめに帯を結ぼうとするけれど、先程の羞恥と緊張から手が震えて上手く結べない。しゅるりと手の中から逃れてしまう帯に益々焦る。
「貸してごらん」
「え、あ…」
そんなを見かねた安室が背後から帯を掴んで結んでくれた。まるで背中から抱きしめられているかのような格好に心臓が内側からけたたましく叩いているのが分かる。恋人らしくする、という約束があったけれど特に人がいないここでまでそんな風にする必要はないんじゃないか。そう思ったが、羞恥と共に胸が喜びで締め付けられるのも事実。
居心地が悪くなってしまったに気付いたからか、彼は汗もかいたし温泉に行こうかと一度部屋に戻ることを提案する。顔の熱が引きそうにないはそれに頷いて、一先ずタオルやらを取りに行くことにした。


 脱衣所の前で安室と別れて、は荷物を籠の中に入れた。広々としたそこは、風呂に入るには丁度良い時間帯だろうに人一人いない。きょろきょろと脱衣所の中を見渡したはもしかして独り占めできるのではないだろうか、と嬉しくなった。
安室から離れたおかげで先程の羞恥心は収まってきたし、温泉を楽しもう。わーい、と浴衣や下着を脱いでタオルを身体に巻きつける。髪の毛はバレッタで上にまとめている為湯に髪の毛が入るなんてことは無いだろう。
がらり、と浴室の扉を開けばそこはいきなり露天風呂だった。うわぁ、すごい。
ごつごつとした岩肌に乳白色の湯がたぷたぷと揺れている。さっさと身体洗って入ろう、とお湯で身体を綺麗にしてから露天風呂へと飛びこんだ。
「わーい、独り占め!」
湯に入った為身体の力は抜けるがるんるんとした気分で旅館の下に広がる町を見ようと、外側にゆっくり近づく。山に囲まれた町並みに心を癒され、腕枕に顔を乗せる。温かいし、肌にも良さそうな感じだし最高だ。
しかし、そこにがらりと新しく扉が開く音がした。何だ、独り占めの時間はもう終わってしまったのか。
「残念だけど、独り占めじゃないよ。あと、温泉に飛びこんだら駄目じゃないか」
ふと、ここで聞こえるはずが無い安室の声に、はびくりと肩を揺らした。いや、ここは女風呂ではないか。彼が入って来られる筈がない。何やら後ろを振り向いたら敗けな気がしてはそのまま町の景色を見続ける。きっと幻聴だよ。どれだけ安室さんのことが好きなんだ。そう、自分の嫌な予感にふっと笑って「幻聴か」と呟いた。
「幻聴じゃないよ」
「なっ……!?なんで安室さんがここにいるんですか!?」
しかし、そんなの言葉を否定する声が突如隣から聞こえ、思わずそちらに顔を向けてしまった。嫌な予感は当たり、そこには岩肌に背中を預けてを見て笑っている安室がいる。
温泉からだけではない熱が顔に集まる。なんで、なんで安室さんがここに。
「混浴って書いてあったじゃないか」
チケットにも、温泉の入口にも。そうきょとんとした顔でを見つめる彼に嘘でしょとは心中呟いた。難しい漢字が読めないにはそれらの漢字を気にすることなく、ただ温泉旅に心を躍らせていた。カップル限定と条件に書いてあったのが漸く分かった気がした。そんな驚愕に目を見開いている彼女に、安室は漢字が読めなかったのかと苦笑している。笑い事じゃない。は声にならない悲鳴を上げた。
お湯の色のおかげでお互いの身体は見えないけれど、どうして裸の付き合いをしなくちゃいけないんだ。恥ずかしくて死んでしまう。大体、乳白色の湯からうっすら透けて見える安室の鎖骨や彼の肌が色々目に毒だった。大前提として自分の身体を見られたくないという羞恥心があるけれど。
「出るんで安室さん目閉じててください」
「待てよ、今入ったのに勿体無い」
隣で寛いでいる様子の彼の姿をなるべく目に入れないようにして、はお湯から上がろうと女子更衣室に近い手摺を目指す。しかし、お湯のおかげでゆっくりしか進むことが出来ないの背に彼の手がかかる。ぐい、と引っ張られたのはの肌を隠す為の大切なタオルだった。するり、と身体から離れていったタオルには悲鳴を上げる。
「いやああああななな何すんですか!!」
「見えないから大丈夫だろ」
胸の前で腕を交差して顎まで浸かって身体を隠す。酷い、何てことをするんだ。いくら恋人の振りをしているからと言っても許されることと許されないことがあるんだ。じわり、と羞恥から目に涙を浮かべて彼が取り上げたタオルを取り返そうと手を伸ばす。湯の中にある為どこにあるのか見当がつかなかったが、手に触れたタオル生地に「返してください!」とそれを引っ張った。
は、早く巻かないと。焦って身体にそれを巻きつけようとするが、何故かそれは先程が身体に巻いていたものよりも短くて下半身まで隠れない。え、何で?何で!!
、大胆だね。僕のタオルを取るなんて」
「ひ、」
安室から離れる為にとっていた距離を簡単に詰めてくる彼の熱に浮かされたような瞳に身体を震わせる。逃げようとするの肩を掴んで離れられないようにする彼。その言葉に、は漸く理解した。が奪ったのは自分のタオルではなく、彼の腰に巻かれていたタオルだったということに。パニックになって、肩を密着させる彼に「返しますから返してください!」と懇願する。今、この状況が危険だということぐらいにだって分かっていた。2人とも何も身に着けてないのだ、あまりにも危険すぎる。しかし、彼は意地悪な顔をして聞こえなかったなどとほざくではないか。
「あああああむろさ…!?」
「こういうことがしたいなら言ってくれれば良いのに」
「ち、ちが」
その上、背後から回された彼の両腕がの腹の上で絡められて、背中に彼の胸板が密着する。すぐ耳元で聞こえる彼の声に、直接触れている彼の肌の感触の生々しさに頭が沸騰した。ろくに抵抗できないを良いことに、彼の指がつつつ、と腰を撫でる。
……」
「っ…!!」
右耳に吹き込まれた、彼の甘く低い擦れた声にひくりと喉が鳴る。身体が硬直して心臓が内側から激しく叩いた。ばくばくと今にも心臓が口から出そうなに追い打ちをかけるかのように、彼の唇は露わになった項を伝って右肩の銃創にまで到達してちゅうっと吸い上げる。びくびくとの身体が震えると同時に、耐えがたい熱が顔に集まって、はその瞬間意識を手放した。


今まで散々身体を硬直させて震わせていた彼女がくたりと安室の肩に身体を預けてきたことに気が付いて、安室は動きを止めた。
「ん?…いきなり刺激が強すぎたか」
顔を真っ赤にして瞳を閉じている様子の彼女はきっと逆上せてしまったのだろう。少しばかりからかってやろうと冗談半分で彼女のタオルを取り上げた安室だったが、冗談だったのは最初だけで彼女の滑らかな肌に触れてしまえばスイッチが切りかわってしまっていた。きっと、彼女が逆上せていなかったら…、なんて。
先程までの彼女の熱を求める男の目を隠し、常のように柔らかい輝きを持つ瞳で彼女を見下ろす。取り上げた彼女のタオルを身体に触らないように巻いてやり、自分の腰にもタオルを巻きつけた。
――少しだけ…。
タオルで隠れていない肩甲骨辺りの肌に唇を寄せて吸い上げ、噛み痕を付ける。じりじりと燻っている欲望をそれで全部消化することはできないけれど、この所有印に些か気分が良くなった。
彼女を抱き上げて、女子更衣室の扉の前まで連れて行く。
「すみませーん!!」
「はい!」
中居を呼んで彼女が逆上せてしまったことを伝えて、その後のことを任せた。別に安室が彼女に服を着せても良かったが、それだと後々面倒になりそうだと思ったから。快く頷いてくれた中居に礼を言って、安室は男子更衣室に向かう。自分も早く着替えて意識を失っている彼女を受け取らなくては。

 カーテンの隙間から入る月明かりが唯一の光である部屋に、2つ敷かれた布団がある。その片方には誰もおらず綺麗なままだ。もう片方の布団の中では、逆上せてからずっと寝ているの頭を腕枕で支えている安室がいる。
浴衣姿の彼女はいつもと違って数段大人びて見え、色気がある。初めての浴衣だからだろうが、動けばすぐに着崩れるということを知らなかった彼女。きっと、何度も寝返りを打つうちにまた浴衣の合わせ目が肌蹴ていくのだろう。すらりとしたふくらはぎに、むっちりとした太腿が合わせ目から覗く様は想像するだけで腰に来るものがある。
じっと、静かにを見つめる彼の瞳には愛しさと燻る欲望とが混在していた。はぁ…と何度目か分からない溜息を吐く彼は、空いている手で彼女の髪を梳く。滑らかで、指通りが良い。
――起きた時、どんな顔をするかな。
同じ布団の中で寝ていることに目を見開いて顔を赤くするだろうか。それとも、夕食を逃したことを悔やんで打ちのめされるだろうか。それとも、温泉で安室に過度なからかいを受けたことを思い出して、羞恥から目に涙を溜めるだろうか。
考えうる反応を脳裏に思い浮かべて安室は小さく笑った。彼女が安室に向ける表情なら、全てその瞳に収めたい。だから、楽しみだった。彼女が起きた時の反応を今か今かと待っている。だが、暫くは起きないだろう。
「早く僕のことを見て」
今手を出すことはこんなにも簡単なのに、それでもこうして彼女の寝顔を見つめることしか出来ないなんて。それ程、の存在が大切だということなんだけど。安室は彼女の前髪を掻き分けて、ちゅと額に口付けをした。


あなた専属の騎士なのです
2015/07/09

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