最近ポアロの従業員として新しく入ってきた安室透という好青年は、店にやって来る女性客を尽く虜にしているようだった。29歳という年齢よりも若く見える容姿が彼と年齢が離れている少女たちをも虜にしている理由なのかもしれない。それに加えて物腰の柔らかさと男性女性に関わらず丁寧に接する態度だろうか。
「梓さん、買い出しなら僕が行きますよ」
「え、良いんですか。ありがとうございます」
雨が降っている中、足りなくなってきた材料を買う為に傘を取り出した梓にも、安室の優しさは平等に与えられる。にっこりと笑って、梓が持っていたメモを受け取った彼は雨の中に出て行く。きっと、女性に優しい彼のことだから雨の中女性を歩かせて身体を冷やしてもらっては困る、などと考えてくれたのかもしれない。
数十分経って帰ってきた彼の手には、マスターから頼まれた食材がきちんと袋に入った状態で。梓は少し足元が濡れている彼に再度礼を言った。
「僕がしたかったので」
「そうですか」
微笑して冷蔵庫に食材を入れていく彼は、こうやって相手に気を遣わせないことにも長けているらしい。こういう所も女性の心を掴む所以なのだろう、と梓は少しばかり彼の完璧さに恐ろしくなった。こんな人に恋をしたら、相手は気が気じゃないだろう。


 その日も、梓は朝から安室と同じシフトでポアロで働いていた。時刻はそろそろお昼。昼食を食べにくる客で賑わっている店内には、やはりというか女性客が多い。梓も働いているというのに、梓が通りかかった時にはメニューを選んでいる振りをしている彼女たちは、安室が傍を通ると手を挙げて彼を呼ぶ。おかげで、梓よりも安室の方が少しばかり忙しそうだ。
「安室さん今日も服装お洒落ですね」
「ありがとうございます。館田さんも今日のネックレス素敵ですね」
注文する際に、ここぞとばかりに彼に話しかけてアピールする女性客は少なくなかった。どうにも、彼を狙う女性たちは積極的な人が多いらしい。いや、積極的な人が全面に出過ぎていて消極的で見つめているだけで良い、みたいな人に気付かないだけかもしれないけど。
彼の華麗な言葉の切り返しに、そうですかと嬉しそうに笑うその女性客。だけど、梓は知っていた。彼のそういった優しさは誰にでも平等に分け与えられていることを。だから、彼女だけが特別なのではないのだ。
そこに、ちりんちりんと来客を告げるドアベルが鳴った。
扉付近にいた彼がいらっしゃいませ、と言うけれどその言葉は途中で途切れる。どうしたんだろう。彼が接客中にそうやって動揺するのは珍しい。
、どうしたんだい?」
「散歩のついでに来ちゃいました」
扉から入ってきたのは、黒髪に飴色の瞳を持った可愛らしい女の子だった。二十歳を過ぎているかまだかといった容姿の彼女は風でふんわりと舞ったシフォンのスカートを押さえつける。どうやら彼女は彼の知り合いだったらしい。親し気に下の名前を呼び捨てする彼に、店の女性客たちはちらちらと彼女を見つめる。
「昼食作っておいたのに」
「だって…安室さんと一緒に食べた方が美味しいから」
「分かったよ。あと2時間で終わるけどそれまで待てる?」
「はい」
会話をしながらも窓際の席に彼女を誘導した彼は、席に腰を下ろした彼女を見下ろしながらふっと笑った。昼食を一緒に食べられないのなんて月1程度じゃないか、なんて言いながら。それは、どうしようもない子どもに向けるような慈愛の籠った笑みでもあり、少し照れて喜んでいるような笑みでもあった。
女性客たちに向ける笑みや言葉遣いとは違うそれに梓は軽く目を見開く。彼に、特別な存在がいるなんて今まで思ったこともなかったから。それは他の女性客たちも同じだったのだろう、彼女の好みまで把握している様子で今日のおすすめを彼女に教えてメニューを勝手に選んでいる彼に信じられないといった様子で眺めている。彼女は彼の選んだメニューで満足しているのか特に文句を言わずそれでお願いしますとにこにこ笑っていた。
「じゃあちょっと待ってて」
「はーい」
ぽん、と一度頭を撫でた彼に頷く彼女。明らかに客としてではない接し方をしている彼に、無意識で行なっているのだろうかと梓は戸惑った。
そもそも、先程の彼らの会話からして、彼らは一緒に暮らしていることになる。あの、誰にでも優しくて平等な彼が、誰か一人だけ特別を作るなんて。何だかやっと彼から人間らしさが見えたような気がして梓はふふと笑った。女性客たちには悪いけれど、きっと彼を人間らしくしてくれるのはあのという女の子なのだ。
「どうしたんですか?梓さん」
「随分と仲が良いんだなぁって」
キッチンにやって来た彼が、梓がにこにこと笑っているのに気が付いて不思議そうに訊ねてくる。その様子は先程彼女と話していた時とはやはり少し雰囲気が違う。きっと、気心知れた仲なのだろう。それが面白くてふふと笑えば、彼はああと納得したようだった。
「従妹ですからね」
「そうなんですか。あれ?でも」
微笑した彼に一度は納得するも、それならなぜ彼女は彼に敬語を使っていたのだろうかと疑問が湧く。それに察知した彼が「彼女、今までイギリスに住んでいて最近になって初めて会ったんですよ」と言う。ああ、なるほど。だから親戚と言うよりはどこか友人や恋人のような雰囲気だったのか。
彼から視線を移し料理を待っている彼女に向ける。料理が待ち遠しいのか、彼女は少しばかり気分が高揚した様子。
「可愛い子ですね」
「世話が焼けますけどね」
マスターと共に料理を作り始めた彼に素直な感想を伝えれば、彼は小さな憎まれ口を叩いた。彼らの関係性はまだよく分からないけれど、きっと彼にこんな表情をさせる彼女は彼にとっては特別な存在なんだろうなぁと認識させるには十分だった。
どことなく、彼女が来たことによって店内の様子がぴりぴりしたものに変わってしまったことに苦笑しながら、梓は出来上がった料理を客に運んだり注文を訊いたりしていく。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
が頼んだ、というよりかは安室が選んだトマトソースのパスタをことりとテーブルの上に置く。はトマトが好きなんですよ、と言っていた彼の為にいつもよりソースの中にトマトを多めに入れたことは内緒だ。
嬉しそうに梓に微笑んだ彼女は、いただきますと言ってパスタを食べ始めた。そんな様子をキッチンから窺っていた安室の穏やかな笑みを発見した梓は、小さく笑った。それに気付いた彼が苦笑する。どうやら梓に見られているとは思ってもみなかったらしい。


 時折キッチンからホールに出て注文を受けている安室は、が店の外を歩いていた蘭を発見して店内に呼んで一緒に話しているのを見て落ち着いたらしい。
ジュースを飲みながら、何やら楽しそうに話す彼女たちをそっと見て、梓はこれで店内のぴりぴりした状態から抜け出すことが出来そうだと思った。安室はきっと何故店内がぴりぴりしていたのかは分かっているだろうが、彼女は何も気付いていないだろう。実際、時折女性客から向けられるその視線に彼女の瞳は不思議そうに丸められていたから。
しかし蘭が来て彼女が安室だけではなく蘭とも接している様子を見たことによって、印象が和らいだらしい。
「でね、その時園子がその人のことをイケメン!って目をハートにして」
「園子ちゃん彼氏いるのにね」
「そうなんですよ!」
けらけらと友人の話で盛り上がっている様子の彼女たち。会話に花を咲かせている様子に、楽しそうだなぁと梓は思った。きっと、彼女たちが話しているのはその友人の面白おかしかった時の話なのだろう。
しかし、蘭はそろそろ園子との待ち合わせ時間だからと店を出て行ってしまった。どうやら、彼女とは空いた時間を潰す為に一緒に話していたらしい。
彼女が出て行ってしまって話す相手がいなくなった彼女は暫くぼうっとした後、安室が働く様子を眺めていることにしたようだ。時たま、彼が彼女の視線に応えて彼女に笑みを浮かべる。
言葉を交わすことはないけれど、それが逆に2人の親密さというか甘さを感じさせて、梓は目が合って笑いあうくらいなら会話をしてほしいと2人のまとう空気に照れた。他の女性客もそんな2人に、どこか悔しそうというか居心地悪そうにしている。
「では、お先に失礼します」
「お疲れ様です」
そして漸く安室の勤務時間が終って、彼はエプロンを脱いで畳む。マスターと梓に挨拶をして少しばかり急いだ様子で窓際の席に近付く彼。普段なら、彼の勤務時間が終った頃を見計らって店内にいる女性客が絡んでくることもしばしばあるのに今日ばかりはそれがない。
「お疲れ様です」
「お待たせ。お腹空いたから早く帰ろう」
「はーい」
会計をする為にレジに来たと安室に、梓はにっこり笑った。安室が会計をしようとした所、彼女の方がそれより早く一万円札を出す。それに、安室は「まだ慣れてないんだから僕が出すよ」と言ってそれを彼女の財布にしまい込み、彼の財布から金額ぴったりのお札と小銭を出した。慣れる、というのは彼女がまだ日本の貨幣の使い方に慣れていないということだろう。彼女はそれに些か不服そうだったが。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
律儀にも店員の梓に声をかけてくれた彼女に、彼女の印象は良くなる。お疲れ様でした、と安室が小さく頭を下げて彼女と共に店を出て行った。
――類は友を呼ぶというか。彼の性格が良いから、一緒にいる彼女の性格も良いのかもしれない。
並んで仲良く店の前を歩いてく彼女たちは、何か楽しそうに話している。
今日この時間に来てしまった女性客にとっては災難だっただろうなぁ。そんなことを思いながら、どことなくどんよりと淀んでいる女性客たちを見渡す。だけど、梓にとっては彼の新しい一面が見れて良い一日だった。


勝手にこころに住み着くのは犯罪ですか
2015/07/16
タイトル:モス

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