安室と思いを通じ合わせてから漸く一週間が経った。漸く、と時の流れが遅く感じられるのは、あまりにもが彼に対してどきどきしてしまうから。心臓を酷使しすぎた彼女は、付き合い始めてから未だに手すら握っていないのに疲れている。それはある意味幸せな疲れだろうが。彼女の左手の薬指には彼から貰った指輪がきらりと光り輝いていた。同じく、ペアリングが彼の左手の薬指で光っている。潜入捜査をしている身である彼は外に出る時はそれを外してネックレスとして服の下に忍ばせているけれど、と家にいる時はいつも薬指に付けてくれていた。
、」
「あ、安室さん、もっと離れてください…!」
キッチンから2人のマグカップに紅茶を淹れた彼ががいるソファに腰を下ろす。その距離は肩が触れてしまうような距離で。それには顔を真っ赤にして心臓を五月蠅くさせる。ただただ、彼が近くにいるだけで恥ずかしかった。
恋人同士になって、零と彼のことを呼べるようになった彼女だが、それでもまだ下の名前で彼を呼ぶのは恥ずかしく、かと言って呼び慣れていない降谷という名字も違和感があり、結局安室に落ち着いていた。恋人であるのに「近い」などとぬかすことか、それとも彼の名を呼ばないことのどちらかに、否、両方に不満気になった彼はわざとぴたりとの身体にくっつく。そのむっとしたような表情には少しばかり焦る。
「前から手を繋いだり抱きしめたりしてただろ?なのにどうして恋人になってからの方が恥ずかしいんだよ」
「だ、だって……」
肘掛の方に追い詰められたは彼の目を見れずに俯く。さらに、横から感じる彼のじりじりと焦がすような眼差しに、ますます心拍数は跳ね上がって。キスだってしたのに、と小さくくすりと笑う彼の声にびくりと肩が揺れる。
――だって、今までは私の片思いだったから安室さんは私のことを何とも思っていなかったわけで。
「こ、恋人になったっていうことは、安室さんは私のことが、す、す…」
「好きだよ」
“好き”という言葉さえも言うのが恥ずかしくてどもる彼女の代わりに安室はさらりと告げる。それにまたもや頬を林檎のように赤くしたはマグカップの持ち手の部分をぐりぐりと弄りながら、どうすれば分かってもらえるだろうかと酸欠気味の頭で考えた。
の中では安室のその変化が問題なのだ。以前はのことを妹や友人のように思ってくれていたから、の一方通行な想いであり、跳ね返ってくるのは純粋な好意のみだった。しかし、今では彼からは愛や思いやり、そしてたまににとっては未知である情火が混ぜられたようなものが与えられる。つまり、安室がを愛しているから、彼女は恥ずかしくなってしまうのだ。この複雑な乙女心が彼に分かるだろうか。
「まぁ、焦らなくて良いよ。ゆっくり進んでいけばさ」
「あ、ありがとうございます」
だけど、呆れられていないかな。こんな風に彼と同じ空間にいるだけでドキドキしてしまって何も出来なくなる。そんな自分を彼は見捨てやしないだろうか、とちらりと彼を見上げれば彼は優しくを見下ろしていて。
その瞳には本当にを慮ってくれるような色が窺えて、彼女はほっとした。彼がゆっくりで良いと言うなら、はそれに甘えたい。
「俺は手だって繋ぎたいし、抱きしめたいし、キスもしたいけどね」
「ぁああの、がんばります…」
しかし、その直後ふっと笑った彼にぷしゅーと顔から熱が迸る。あの時はからキスしてくれたのになぁ、なんてからかってくる彼に「忘れてくださいっ」とはじわりと涙が滲んだ状態で懇願した。
あの時は頭で考えている暇なんて無かった。ただ、身体が衝動的に動いて彼の唇を奪っていたのだ。あの後もの凄く後悔していたせいで、彼とキスしてしまったことにドキドキする余裕なんて全くなかったは、彼に告白をされた時のキスが初めてのキスのようなものだった。何しろ、自分からキスした時はもう軽くパニックに陥っていてどんなものだったかあまり記憶に残っていないから。しかし、彼から受けたキスはきちんと覚えている。
――彼の熱の籠った瞳がゆっくり近付いてきて、そっと触れた唇。じっとりと彼の唇で食まれたそこは熱く…
?」
「は、はいっ」
彼とのキスを思い出していたら思わず無言になってしまった。慌てて意識を取り戻し上ずった声で返事をすれば、彼は何考えてたの?なんて目を細めてを見やってくる。それに何でもないです!と返しただったけれど、もしかしなくても彼は彼女が考えていたことを御見通しであるような気がした。
「ま、それは良いよ。明後日は映画を観に行こう。丁度新作が何作も出ているらしいし」
「良いですね、いつも家で見るだけだったから楽しみです」
安室の身体がぴったりと肩にくっついているのに緊張しながらも、は彼の言葉に目を輝かせた。いつも借りてきたDVDを一緒に見るだけでも満足していたが、映画館というのはまだ行ったことがないから。どんどん色んなことを教えてあげるよ、と微笑む彼に、この世界に帰って来て良かったとは思った。


 にこにこと微笑み、時たま顔を赤くする少女のような女――を前にした沖矢とコナンは彼女の左手薬指に光る指輪を見て僅かに目を見開いた。約二週間ぶりに会った彼女は何やらとても幸せそうで、思わずコナンはとあるカフェに彼女を連れ込んで聞き込みを始めようとしていたのだ。そこに沖矢がコーヒー豆をこの店に買いに来たことに気付いたコナンが呼んだことよって、現在に至る。
「えーと、つまりお姉さんは無事に安室さんとくっついたってこと?」
「う、うん」
「おめでとうございます。良かったじゃないですか」
「ありがとうございます、沖矢さん」
3人席の円卓で思い思いの飲み物を頼んで飲む彼ら。しかし彼女の幸せオーラに当てられた2人は若干お腹いっぱい気味ではある。彼女がどれだけ彼に片思いしていたかということを知っていた沖矢とコナンは素直にそれを祝福したが、まさかあの男が彼女に指輪を贈るとはと信じられない気持ちでもあった。その上彼が直々にその薬指に嵌めて結婚の約束もしたと言うのだから。
――本当に意外だったな。
沖矢は組織の頃から知っている彼とは全く違う様子に笑みを浮かべる。あの頃から彼は女に言い寄られることが多かったが、どれも大して関心を抱いてなさそうだったのに。それ程彼女のことを大切に想っているというわけか。ふっと笑った彼に何を思ったのか、「相談なんですけど…」と彼女は頬を赤くしながら口を開く。
「明日安室さんと映画館にデ、デートしに行くんですけど、どんな服が良いですかね?」
「デートですか。なるほど」
「そんなのお姉さんの好きな格好で良いじゃない」
頬を染めてアドバイスお願いしますと真剣に沖矢を見つめる彼女にコナンは若干呆れ気味だ。そんな彼を見ながら沖矢も「惚気かよ」と思わず赤井の口調で言ってしまいそうになるのを寸での所で止める。赤井の時なら許されるだろうが、いまは沖矢なので許されない。女性に優しい男を演じなくてはいけない彼は彼女に無難な回答をしておいた。彼女に際どい服を勧めて安室を間接的に動揺させるというのも中々楽しそうだとは思ったが。


 映画館があるビルはそう遠くないことから、歩いて行こうかと言う安室に頷いた。昨日沖矢に勧められて買ったフェミニンなワンピースを風にふわりと靡かせながら彼と共に歩く。
――安室さん、このワンピース好きかな。
隣を歩く彼にちらちらと視線を寄こす。そうすれば彼はその視線に気付いて「ん?」と微笑んだ。その柔らかく細められた瞳に見つめられるだけで、の心臓は情けなく跳ねる。ぼっと赤くなった頬に安室は見守るように柔らかい吐息を小さく吐く。
「今日の為に買ったのかい?」
「は、はい。沖矢さんにアドバイスしてもらったんです」
それ、と彼が指差したのはのワンピース。どうですか?と照れつつ彼を見上げれば、彼は何故か一瞬黙って。それにきょとんとすれば、彼は次いで口を開いた。
「脱がせたい」
「っひ、」
お世辞でも似合ってる、とか可愛いという言葉を望んでいたは思わぬ言葉に喉を引き攣らせた。ばくばくと心臓が喚きだし、彼がどういう意味でそんなことを言ったのだろうかと焦る。
「あの男が見繕った物なんて着るなよ。僕に訊けばもっと良いものを見つけた」
どうやら彼は沖矢がこのワンピースを選んだという事実が気に入らないようだった。そういう意味で「脱がせたい」だったのか、とほっとしたはえへへと笑う。やきもち、妬いてくれたのかな。
「ま、可愛いけど」
「ぁっ」
にこりと笑って告げられた言葉と、彼の左手に包み込まれる右手。どきっと心臓が収縮してびくりと肩が揺れそわそわと視線が彷徨う。彼の手から伝わってくる熱の心地よさに、増々頬に熱が籠って。
困って彼を見上げれば、何の為に歩いて向かってるんだよと笑う。どうやら車で映画館まで行かなかったのは、こうして手を繋いで歩く為だったらしい。それにもごもごと小さく抗議しただったが、彼はそれに聞こえない振りをしてぎゅっと彼女の手を握りしめた。

 映画館に着いて、何にしようかと彼がポスターや時刻表を眺める。ラブストーリーにする?とに気を遣って聞いてくれる彼だったが、はもし映画の中で恋人たちがキスをしたりするとどうすれば良いか分からなくなってしまうので、そういうシーンが無さそうなアクションを選んだ。どうやら彼もラブストーリーよりこちらの方が良かったらしく、2人はそれを見ることにした。
、飲み物何にする?」
「アップルジュースでお願いします」
「了解。ポップコーンは塩で良い?」
「はい」
映画までの時間は数十分ある。その間に飲み物やら買っておこうと彼が売店に並ぶ。手を繋いでいるは勿論彼と一緒にそこに続いた。手を繋いでいる状態にも少しずつ慣れ始めただったが、きっとまた明日になったらやり直しなんだろうなぁと客観的に自分を分析する。もうドキドキしない為には永遠に手を繋いでいるしかないような気がした。
店員からジュースとポップコーンを受け取った彼は暫く座ってようか、とソファに向かう。たちは映画が始まるまでの間、そこで会話を楽しんだ。
「あ、もう入れるみたいですね」
「ホントだ。じゃあ行こう」
たちが見る映画のアナウンスをする劇場員に、2人は立ち上がった。女性従業員の視線が2人の繋がれた手に向かうのがやけに気恥ずかしかった。私たち、ちゃんと恋人同士に見えてるのかな。チケットを見せて中に入り、一番大きなスクリーンの部屋に行く。後ろの方の席だから、と階段を上っていく安室に続いてはその背を追った。
飲み物やポップコーンをセットして席に座る。ファンタジーな能力を持った人間たちがNYの秘密結社で働く中で次々に起こる事件を解決していくという物語である映画。ストーリーは勿論アクションの派手さが楽しみなは映画が始まるまでの間わくわくしていた。
暗くなる場内。ポップコーンはの膝の上でしっかり待機してある。いつでも食べられるようにと安室と繋いでいた手はこの時ばかりは放された。ぱくり、と始まる映画を見ながらもしょっぱいそれを一粒ずつ食べる。
安室もそれに時たま手を伸ばして食べていた。
ふいに、物語の中盤で恋愛が介入してきた。どうやら主人公の男に恋人ができたらしい。ラブストーリーより余程上手くて面白い進め方にわくわくするだったけれど、何だか段々怪しい方向に向かっている気がする。
がっつりとキスをして所々肌色が見え始める画面に彼女は内心で「ぎゃー!!」と叫んだ。
――ど、どうしよう。
映画を見に来たのに見ないのもおかしい気がするし、かと言ってそれを見るのも恥ずかしい。何より隣に安室がいることが一番羞恥心を煽る。
ちら、と彼のことを盗み見しようとしただったが、何故かこちらを見ていた安室の瞳とばっちり合ってしまった。それに途端にいたたまれなくなって俯く。ラブシーンはものの数十秒で終わったのが、唯一の救いだった。


「あの時、何考えてた?」
2015/09/24
彼の言葉に声にならない悲鳴を上げたのはご愛嬌。

inserted by FC2 system