海辺からホテルに戻ってくる最中、はずっと心臓をドキドキさせっぱなしであった。だって、ようやく安室と結ばれることができたのだ。それに、彼の本当の名前を知ることができた。
助手席で、窓の外をぼんやりと眺める。
――降谷零。
二人きりの時だけ、呼ぶことを許されたその名。左手の薬指でキラリと光り輝く指輪がそれを肯定してくれているようで。は人知れずうふふと身悶えした。
 しかし、その幸せな思いに浸っているだったが、突如ホテルの自分たちの部屋を思い出してはっとする。待ってほしい。ホテルでは寝室が一緒なのだ。
ちらりと運転席にいる安室を見やれば、彼は一瞬だけこちらに目を向けて「ん?」と首を傾げる。ぱちりとかち合った瞳に、瞬間の身体にはビリビリと電流が流れたように衝撃が走る。ぼっと頬に集まった熱は、暗い車内のおかげで彼には伝わっていないだろう。
――ど、どうしよう。
ホテルの寝室のことを考えて悶々としてしまう。いくらなんでも付き合った途端同じベッドで寝るなんてことにはならないだろうが、付き合ったからこそそうなるかもしれない。先程とは違って緊張からドキドキとし始めて手の平にじんわりと汗が滲む。うう、格好悪い。安室さんはあんなに余裕なのに。
情けなく眉を垂らして唇をきゅっと結ぶ。安室のことは大好きだ。ずっと、ずっと思い続けてきたのだから。だけど、それとこれとはまた話が違う気がする。
漸く着いたホテルのロビー。車は正面玄関に止めた時に従業員が移動させてくれた。
「まだレストランはやってるから行こうか」
「は、はい」
お腹が空いただろ?と柔和な笑みを浮かべてを見る彼に、彼女はぎくしゃくとした動作でぎこちない笑みを向けてしまった。ばか、緊張しすぎ。何てことない会話なのに、どうしてこうまで彼のことを見ていると心臓がばくばくと騒ぎ立ててしまうのか。耳元で狂ったように太鼓を叩いている心臓に冷静になってとお願いするけれど、そんなものは利かなくて。は宿泊部屋に戻る頃になってもまだ緊張していた。

 食事を終えて部屋に戻る。ふかふかの絨毯の上を歩いているうちに緊張での意識は天井へと上り詰めそうだった。隣を歩く安室の話もあまり頭に入って来ない。ちゃんと会話をしないとと思っても、寝室のことばかりが頭の中を占めていて。どうしよう。くりかえし頭の中で自分の言葉が回っていて、彼女は安室に「どうすれば良いんですか!」と半泣きで問い詰めたくなった。勿論そんなことは出来る筈も無く、彼の笑みと声音に心臓を酷使するしかない。
カチャリ、と部屋の扉を開けて、暗闇の中に光を灯す。白い照明かと思ったが、彼が点けたのは柔らかいオレンジ色の間接照明だった。
、先にお風呂入っておいで」
「ひゃい!」
とん、と背中を押して洗面所へと誘う彼にびくりと肩が跳ねる。その上返事をする声まで裏返って、は恥ずかしさのあまりに今すぐ穴を掘ってその中に埋まりたくなった。くつくつ笑う安室の声が背中から聞こえるけれど、彼が言う「先に」という言葉が気になってそれどころではない。いったいどういう意味なの…!
洗面所の鏡では、頬を赤くした自分がとてつもなく困った表情をしている。それでもお風呂は入らないと、という思いからシャワーを浴びて身体を洗っていく。
「………」
身体を洗う途中でピタリと手を止めた。もしかして、普通に洗うだけじゃ駄目なんじゃ…。泡だらけになった自分の身体をさらに入念に磨いていく。寝室が一緒じゃなかったらこんなに不安にならなかったのに!そう内心悲鳴を上げる彼女だった。
 が出てから少しして、安室が風呂に入ったおかげでは寝室で一人きりの時間を過ごしていた。気分を紛らわせるためにテレビを点けたけれど、大人の恋愛ドラマが放送されていて、すかさず彼女は電源を消した。
一人きりであったけれど、あはーんな空気が寝室に残ってしまったおかげで彼女はますます落ち着かなくなってきた。彼が風呂に入ってから既に30分は経っている。長風呂派ではない彼はそう遅くならないうちに出てきてしまうだろう。
「落ち着いて……」
胸に手を当てて深呼吸を繰り返し、心臓を落ち着かせようとするけれど、上手くいかない。そわそわとベッドから立ったり、座ったり、ぐるぐる寝室の中を歩き回ったり。丁度カーテンを開けて窓の外の半月を見上げている時に安室が戻ってきたようだ。
「何してたんだ?」
「月が、綺麗だったので」
濡れた髪を拭きながら近付いてきた彼の穏やかな笑み。それに加えてしっとりと汗をかいた首筋や火照った頬なんてものを見てしまったはそれだけでオーバーヒートを起こしそうだった。熱くなった顔を彼に見られたくなくて俯けば、彼はくすりと笑っての手先をそっと取ってベッドに導く。
――え、うそ、うそ…!!
羞恥心や不安から僅かに震える彼女と共にベッドの淵に座った彼。じっと見つめてくる彼の瞳からちらちら燃える炎が見えたような気がした彼女は、ただ目を見開いて心臓をどくどくと五月蠅くさせることしかできない。
だけど、
「もう、おやすみ」
「えっ?」
するりとの頬を撫でた彼は音を立てずに立ち上がって、ふっと笑う。髪の毛を乾かすから、先に横になってて良いよ。そう言う彼に、はただぽかんとした間抜け面を晒す。良いの?普通に寝てて良いの?
「そんなに目を開いてるとドライアイになるよ」
「――わっ」
固まるの鼻をきゅっと摘まんだ彼に、一気にの肩からは力が抜けた。微笑してドライヤーを取りに行った彼を見送って、ぱたりとベッドに倒れ込む。未だに心臓は五月蠅かったけれど、布団の中に潜って目を瞑り、彼がドライヤーで髪を乾かす音を聞いているうちに、何だかうとうとしてきて、彼女はすやすやと眠ってしまっていた。


 髪の毛を乾かし終わった安室はそっと音を立てぬように寝室に入った。この頃になれば身体の熱も引いていて、心地よい体温に欠伸を噛み殺しながら自分のベッドの淵に座っての寝顔を眺める。
彼女が帰り道からどことなく緊張しているのは分かっていた。その原因がきっと寝室だということも。だけど、先走って不安になって百面相を始める彼女がおかしくて、可愛くて中々「取って食いはしないから安心しろ」とは言うことが出来なかった。だって、こんなにも彼女が自分のことで一生懸命になっているのが愛しくて。
部屋の電気を消して、一面ガラス張りの窓を開けて、バルコニーに出る。バルコニーに置いてある椅子の一つに腰を下ろして沖縄の秋風を味わう。闇夜に浮かぶ月は青白く光っていて。電気がなくても、月光だけでこの世界を照らすことができていた。風に靡いた白いカーテンの隙間から、青白い月光に照らされたの寝顔が見える。
安室はそれを、ゆっくり瞬きをしがなら眺めた。穏やかな寝顔に、胸の中が満たされる。
「馬鹿だな。そう簡単に手を出せるわけがないのに」
ふっと笑って零した安室の言葉は、彼女に届くことはない。届かなくて、良い。
そよそよと頬を撫でる風は爽やかな潮風で、安室の気持ちを穏やかにさせる。このまま、彼女に抱く劣情もゆっくりで良いから冷ましてほしかった。男だから、好きな女と同じ部屋で寝ることになったら、そういう目で見てしまっても仕方ないだろう。だけど、今夜、安室は彼女に手を出す気は全くなかった。
――何よりも大切だから、触れることが恐ろしい。
加減を間違えて、壊してしまったらと恐ろしくなるのだ。そっと椅子から立ち上がって部屋の中に入る。沖縄とはいえ、秋の夜の風は身体が冷える。窓を閉めてもカーテンを開けたままにしておいたおかげで、部屋の中には月光が差し込んでいた。
のベッドの隣に片膝を付いて、間近で彼女の寝顔をじっと眺めた。彼女を想うから、この身の内に燻る情火も押し留めることができる。額に触れるか触れないかの加減で、彼女の前髪を整える。
すり、と彼の手にすり寄って来た彼女。健やかな寝顔は男を知らない少女のそれだ。それが、愛おしかった。
「俺は本当にのことが大切なんだよ」
彼女が目を覚まさないように、彼女の額に触れるだけのキスをする。彼女が良い夢を見られるように、と祈るように。
――がいるだけで、それだけで幸せなんだ。
だから今はまだ、清らかなままで。


世界の美しさを知る
2015/12/20

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