毛利探偵事務所の下にある喫茶ポアロは安室がバイトとしてやって来たことで、以前にも増して女性客が多くなった。それはもちろん見目麗しくどの客にも優しい男がいる、という噂を聞き付けた彼女たちが一目でも良いから彼を見てみたいと足を向けて見事に彼の魅力に心を掴まれてしまったからに過ぎないのだが。マスターや梓は例え客の目的が安室だろうが、彼のおかげで売り上げが伸びているのは事実なので大層喜んでいる。
そこで、今後も女性客に贔屓にしてもらおうということで、今週末の日曜日に料理が上手い安室が料理教室を開くことになった。
「というわけなんだ。だけど人手が足りなくてね、に手伝ってほしいんだ」
「私が料理出来ないって知ってるじゃないですか…」
梓からいっぱい人が来ますね、とキラキラした目を向けられた安室は料理を教えるのは良いがあまりにもスタッフが足りなくててんてこ舞いになりそうなことを懸念していた。そこで、に頼んだわけである。勿論事前にマスターと梓には了解を得ているから後は彼女が頷くだけで良い。
だが、予想通りというかは電子レンジで卵を爆発させたことから料理の自信を無くしてしまっているらしい。
は別に料理をしなくて良いよ。下準備とかお客さんへの対応とかそういうことをしてくれればさ」
「それなら、まあ…分かりました」
安室の言葉で漸く頷いてくれた彼女に、じゃあ当日はよろしくねと安室は微笑んだ。

 そして当日。ポアロに赴き、梓たちにを従妹として紹介をして彼女も今日だけスタッフとしてこの店で働くことになった。料理教室を予約した客が来るのは10時過ぎだから、まだ時間には余裕がある。
安室とお揃いのエプロンをに渡して、安室は手早くエプロンを結んだ。しかし、を見ればまだ紐が上手く結べていないようだ。普段彼女はエプロンを着けることがないから仕方ないか。
「貸してごらん」
「あ、ありがとうございます」
彼女の後ろに立って、ごちゃごちゃと絡まっている紐を解く。きゅっとリボン結びにして、ついでに料理を作る際に邪魔になりそうな彼女の長い髪の毛をまとめ上げた。
髪の毛と綺麗に紐が結ばれたことを手で確認した彼女は「えへへ」と笑う。そんな彼女に早く持ち場に着いて、と彼女の額を指でとんと押して安室は笑った。あんな顔をして、本当に隠しているつもりなのだろうか。彼女の自身への想いが伝わってきて、安室は心中愚痴る。可愛い、とは思うがそれを気付かぬふりをするというのは存外に疲れた。大切に思っているから尚更。
「こんにちは〜」
「いらっしゃいませ」
しかし、本日の料理教室の客第1号がやって来た為、安室はその考えを振り払った。今はこちらに集中しないと大変だ。
続々と集まってきた女性客を前に、安室は今日はキッシュを作りますと声を上げた。パイ生地やタルト生地を使うキッシュは作るのが面倒くさいと思われそうな料理だが、生地さえ作ってしまえば後は野菜と肉類を切ってアパレイユを作れば簡単に出来る料理だ。
助手として隣に立つに、まずは生地を作る為に材料をボールの中に順番に入れていってもらう。安室が口で説明をしていく中、女性客たちの視線は安室と傍にいるへと突き刺さる。これは、あまり気分が良いものではないな、と隣にいる彼女を見れば素直な彼女はやはり居心地悪そうな顔をしていた。


 暫くして安室が客の間を歩いて分からない所を教えているのをは見ながらこの後使う野菜とベーコンを切っていた。料理しない、って言ってたのに嘘つき。そう思ったがこれくらいならも出来るよね?と彼に言われてしまえばやるしかない。だが、が野菜を切っている間に彼の名を呼ぶ女性客の高い声にはうんざりしていた。
彼女たちは先程から安室と一緒にいるに敵意の籠った目を向けてくる癖に安室へ向ける視線は甘ったるい。猫かぶり怖い。と思う。安室さんはああいう可愛い人たちが好きなのかなぁ。
ザクザクと玉ねぎを等間隔に切っていると、「安室さん、手切っちゃいましたぁ」と彼を呼ぶ女性客の声が聞こえた。良いよね、私は能力者だから手なんて切れないし。イラッとしたら、手ごと玉ねぎを切ってしまったが、大丈夫。能力のおかげでの手は傷一つない。彼の助けを求める女性客の声に応える安室をちらりと見て溜息を吐いた。
ちゃん、今日はありがとう。後は私達だけで大丈夫だと思うから休憩してきて良いよ」
「梓さん、ありがとうございます」
彼と同じように女性客に教えていた梓がこちらへとやって来て、全部切り終った野菜とベーコンを見て頷く。梓さんは良い人だなぁ。安室を囲む女性客とは違って、に笑顔を向けてくれる彼女にはすぐさま彼女のことが好きになった。
お腹空いているんじゃない?と言う彼女にはい、と頷く。それじゃあまだキッシュは出来そうにないから外で食べてらっしゃいと勧めてくれる彼女に礼を言って、は料理教室から抜け出すことにした。
――あのお姉さんたちから解放されて良かった。財布を持って外へ出る。どうにも安室のことを好きだからだろうか、ああいう風に彼に女性が寄ってくるのを見るのは気分が悪かった。海に行って彼がナンパされているのを見た時は全然そんなんじゃなかったのに。
「私の方が安室さんのこと知ってるもん…」
彼の好きな食べ物とか、好きな小説。だけに見せてくれる、他の人へ向けるものとは違う笑顔や、少し怒った顔。一緒に暮らしている割には、知らないことが多いと思うけれど、それでも彼女たちよりは知っている。彼が外で浮かべる笑顔は表向きだということも、本当の彼はクールなのにとても熱い人だということも。それに、ナツといる時の彼は少し言葉使いがフランクで、仰々しさがない。
ふん、と鼻息荒く昼食にする店を決める為にデパートへと向かう。良いもん、今日は奮発して高い所に入っちゃおう。の小遣いは安室から与えられた給料だけど。あの女性客の敵意の籠った視線を忘れたくて、はデパートの中では割と高価そうなイタリアンレストランに入った。
が頼んだ量のおかげで、オーダーを聞きに来たスタッフは目を丸くしていたけれど。


 出来上がったキッシュを皆で食べて、ぜひ家でも作ってくださいねと料理教室を締めくくった。大きさは女性一人分に合わせて作ったので、割と小さめだったが、安室はそれを半分残していた。途中で梓が自由にしたことでいなくなってしまったにも食べさせてあげようと思って。何せ彼女が初めて作った料理だ。野菜とベーコンを切った程度だったが、自分が作った物がこんなに美味しいと分かって、少しでも自信を持ってくれるならありがたい。
「梓さん、お疲れ様でした。お先に失礼します」
「お疲れ様です。今度ちゃんのアドレス教えてくださいね」
スマートフォンでに「いまどこにいる?」と送信した安室に気付いた梓にええと頷く。今日一日、彼女も大勢の女性客に対応することで疲れているだろう。ゆっくり休んでくださいね、と言ってポアロを出た。
時刻は既に16時。片付けをしているうちにあっという間に時間が過ぎていき、と別れてからけっこう時間が経っていた。
『いまでぱーとでたのでぽあろにいきます』
数分して返ってきた彼女のメールにりょうかいと返信する。デパートからならそんなに時間はかからないだろう。一端店に入ろうか、と思ったがそんな安室を止めるように一人の女性が彼の前に現れた。先程料理教室にいた女性客の一人だ。茶髪のストレートが似合う、お洒落で綺麗な女性。
「あ、あの、安室さん。今時間ありますか?」
「ええ、まあ」
彼女に曖昧な返事をしてしまったのは、偏に頭にの存在があったから。デパートからここまで、そう時間はかからない。きっと早く歩けば5分で着いてしまう。それなのにこんな場面を見たら彼女は気を遣って一人で帰ってしまうだろうから。
彼女は幸か不幸かそんな安室に気付かずに、赤く染まった頬で彼を見上げた。
「前から、安室さんを見ていて…、好きです。付き合ってください」
不安と期待に籠った目で、安室を見つめる彼女。それはとても可愛いと思う。彼女のことは全然知らないけれど、付き合ってから知っていくのも悪くは無い、とも。当然、安室の職業柄あまり一緒にいられることはないだろうが、それでもそれなりの関係にはなれそうである。だけど、それだけ。慈しみたい、とは思わない。
何故なら、安室は彼女よりもを知っていたし、また、安室をより知っているのは彼女ではなくだ。いつも一緒にいたから、当たり前だけど。安室が作った料理を美味しそうに食べて、まだまだ世間知らずで子どもっぽくてたまに安室の手を煩わさせる。自分が面倒を見なければ、きっと飢え死にしてしまうだろうし、まずそうなる前に自分の家族の下へ帰ってしまうだろうを思うと、この女性の存在はとてもちっぽけなものになる。
守ると誓ったのも、手放したくないと思うのもだ。彼女ではない。それに、彼女と付き合うことになれば、きっとを失う。安室に恋心を抱いているを傷付けたくなかったし、そんなことで彼女を失いたくない。
薄情だけれど、きっと目の前で恋人の彼女とのどちらかしか助けられない状況になれば安室は迷わずを選んだだろう。だから、彼女とは付き合えない。種類は違えど、一番大切な女はだけだから。
「すみません、大切な人がいるので」
言いにくそうに安室が伝えれば、彼女は涙で潤んだ瞳に影を作った。あの子、ですか?震える声で訊く彼女に安室は曖昧に「さあ…」と濁した。彼女に全てを話す必要はないから。それにきっと、話さなくても彼女は分かっているだろうし。
そこに、の姿が現れた。少し離れた所にいる彼女を発見して彼女へと近づく為に足を動かす。
「では」
「……」
過ぎ去る際に、彼女へと声をかければ、彼女は俯いて涙を流していた。自分でも、狡いとは思う。妹のように慈しんでいるを失いたくないから、彼女を傍に置いて彼女に思わせぶりな態度を取って期待させて。今の彼女のように振ってやった方が、余程の為には良い。
だけど安室も甘えているのだ。あの名前も知らない女性のように彼女が告白するような勇気がないことを良いことに、彼女を愛でている。
「安室さんお疲れ様です」
「ありがとう。の分のキッシュ残しておいたから、後で食べなよ」
こちらに気付いたに手を振って、彼女が手に持つ買い物袋をその手から優しく奪う。どうやら和菓子コーナーでどれにしようか悩んでいるうちに料理教室での嫌な思いは忘れてしまったらしい。単純な彼女の様子に笑って、彼女の手を取って駐車場まで歩き出す。びくりと跳ねた彼女の肩を見なかったことにして、安室はその手を握り締めた。
――何となく、今はの温もりに触れていたかった。
狡い男だと思う。彼女の気持ちを知っていて、こんなことをして。だけど、それならも十分に罪な女だ。
彼女の存在が安室に、付き合うには申し分ない容姿の女を振らせたのだから。その上、弱点を作ってはいけない安室が、弱点になる彼女を手放すこともできなくさせる程に安室を捕えて離さない。愛しくて、仕方がない。
――の方が、狡いよなぁ。


君の無垢は魔性を孕む。
2015/06/29
23話以降。(もしも安室さんが夢主の想いに気付いたら)。ずるい男。

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