突然現れた異世界人の女に、安室の生活は変わってしまった。どう変わったか、と言われると複雑だが、世界の中心が自分ではなくなり彼女を思いやるようになったことだろうか。
自分が作ったカレーライスを破顔して美味しそうに食べるを見て、そう思う。彼女は本当に食べることが大好きで、毎回安室が作る料理をぺろりと平らげるのだ。
――いっぱい食べる君が好き。
なんて、どこかのCMで流れていた歌詞が頭を過る。確かに、こうも美味しそうにぱくぱく食べてくれるのは作り手冥利に尽きるものだ。
にこにこ、と微笑んでいる彼女の口元にカレーが付いていたのを指で拭って舐める。そうすれば、彼女は顔を赤くして何するんですか、と抗議の声を上げた。
「何となく」
「…他の女の子だったら勘違いしますよ」
未だに赤い顔のままむすっとこちらを見やる彼女。その発言に、は勘違いしないの?なんて思うけれど、そんな意地悪を訊けば今度こそ彼女が拗ねて口を利いてくれなくなることは分かっていたので、胸の内に秘めておくことにした。
初心で可愛らしい、妹のような、友人のような存在の。そんな彼女と一緒にいられることが、こんなにも心を安らがせてくれるなんて、彼女を拾った当初は思いもしなかった。何時の間に、こんなに大切で離れがたくなってしまったのだろう。
 気になるドラマを見たい、と言った彼女がソファで寝落ちしていたのを発見したのは、安室が風呂から上がった23時過ぎのことだった。夏だからとタンクトップにショートパンツという恰好でソファに凭れて寝ているに、溜息を吐く。その吐息は思ったよりも優しい響きを孕んでいた。

小さく囁くように声をかけて彼女に近付く。白く嫋やかな腕と脚が、照明の光を反射して眩しい。少し崩れた髪の毛を整えてやると、髪の毛で隠れていた右肩が現れた。そこには、数週間前に彼女が安室の為に負った傷痕がある。
これが出来た当初はまだ傷口が完全に塞がっていなかったり、瘡蓋で酷い有様だった。だけど、今ではうっすらとピンク色になって徐々に新しい皮膚へと生まれ変わろうとしている。
そこに指を這わせる。銃創の輪郭をなぞるように、ゆっくりと。僕のために作った傷。それが、酷く美しいものに見えた。そっと、彼女が深い眠りについていることを確認してそこに唇を寄せた。滑らかでありながら凹凸があるそこを、何度も吸い上げる。
――。僕が、守る。
もう二度とこんな傷を負わせない。誓いを立てるように、安室は口付けた。この傷は、彼にとって戒めであり、彼女との思い出であり、誓いの象徴だった。誰にも、彼女の自由を脅かせたりしない。
「んん……」
小さく寝息を洩らした彼女に、そっと身体を離す。彼女はもごもごと口を動かしていて幸せそうな顔をしていた。夢の中でも美味しい物を食べているのだろうか。らしい。だが、
「あむろさん……」
夢の中で安室の名を呼ぶの声に、ぐっと胸に何かがせり上がってくるのを感じた。ふふ、と笑う彼女の唇に目が吸い寄せられる。この唇が、自分の名を紡いだのか。
「…っ」
――このままでは止まれそうにない。ふと、自分の中に湧き上がった思いに戸惑った。止まれない?何が?身の内に生まれた衝動を無視して、をそっと抱き上げた。このままソファで寝ていたら身体を痛める。
彼女を抱えて彼女の部屋まで揺らさないように運ぶ。閉まっている扉は両手が塞がっているので足で開けて、そうっとベッドに彼女を下ろした。すやすやと眠る彼女の身体に触り心地の良いタオルケットをかける。
「お願いだから、誘ってくれるなよ…」
そっと彼女の頭を撫でて彼女の部屋を後にする。先程感じた衝動は、妹や友人のように思っている相手に向けて良いようなものではない。
きっと、あの柔らかな肌を見て男としての本能が刺激されただけだ。そんな一時の気の迷いで彼女を傷付けたくなんてない。だから、俺は――僕は、そんな自分でコントロールできない想いを持っているわけではないのだ。
「はぁ……」
もやもやとした気持ちを掻き消すように、自分の部屋に戻ってベッドへと寝転がる。ぎゅっと瞳を閉じれば、先程の彼女の安心しきった寝顔が暗闇に浮かんだ。


 あれから暫くして、は比較的年の近い女友達を作ったようだった。友人たちと別れて帰ってきた彼女が嬉しそうに報告してくる。
「――で、園子ちゃんがミステリートレインに誘ってくれたんです」
「へぇ。良かったじゃないか」
行っても良いですよね?と期待を込めた目で訊ねてくる彼女に、ああと頷く。だが、それと同時に安室の頭は高速で動く。ミステリートレインか。鈴木財閥が所持しているディーゼル機関車のベルツリー急行。ミステリー愛好家たちが毎年一年に一度こぞって集まるという話を聞いたことがある。
そこには彼女の友人たちと一緒に行くとは言え、彼女は安室がいない所で一人。そんな派手なものに組織の者たちが乗るとは考えられないが、万が一ということもある。どうするか。だが、楽しそうにしている彼女を見ているとその誘いを断れとは言いにくい。
園子に予約の金を払うと言ったのに彼女はそれに頷いてくれなかったのだ、と大人として高校生の懐に頼ることに疑問を感じている様子の彼女に「今回は彼女に甘えておいて、今度何かお礼をすれば良いよ」と助言する。そうすれば、それもそうかと彼女は納得したようだ。
――まぁ、まだ先だしベルツリー急行についてはもう少し調べてから考えよう。
溜まっていた息を吐きだして、友人との旅に思いを馳せる彼女をそっと眺める。この世界に来た当初はあんなにギクシャクしていたのに、今となってはこんなに近くで笑顔や色んな表情を見せてくれる彼女。随分と懐かれたものだ。かく云う自分も相当彼女に絆されてはいるが。
「安室さん、寂しくなったら電話してくれて良いですよ」
「寂しいのはだろ?」
うふふ、と悪戯っ子のように目を細めた彼女に、即座に返せば図星だったのか失敬な!と慌てだす彼女。本当に、からかい甲斐がある娘だ。ふと、そう言えば、まだ彼女と丸一日離れているということが無かったということを思い出す。彼女が言う通り、もしかしたら彼女がいない家に一人でいるのは少し寂しいのかもしれない。
その時は素直に電話して彼女を喜ばせてみるか、と一人笑った。


 は酒癖が悪い。それに気が付いたのはつい最近のことだ。何やら遠慮していたのか、今まで酒を口にしていなかった彼女。そんなに女性が好みそうな市販の甘いカクテルを与えた所、大層それが気に入ったようだった。
「あむろさ〜ん、もっとぉ」
「それくらいにしときなよ」
何がおかしいのかけらけらと笑っている彼女は酒の缶をもっとくれと強請ってくる。度が低いからそれ程危惧していなかったが、どうやら彼女は酒が好きな癖に酒に弱いらしく、たった1缶飲んだだけでへべれけ状態だった。顔が赤く目が座り、ソファに力なく凭れる彼女。安室は隣から投げかけられるお強請りと自身の酒を狙う彼女の手からそれを守る。
「分かった、分かったから引っ張らないで」
「はーい!」
このままでは酒がこぼれる、と思った安室は渋々立ち上がって冷えたカクテルを取りに行った。全く、と溜息を吐いて冷蔵庫から缶を取り出すが、それをそのまま渡すのではなくグラスに入れて水で薄めてやろうと考える。それが良い。どうせ酔っ払いだ。何故味が薄いかなんて分かりはしない。それで味の薄さに不満になって飲まなくなるなら丁度良い。
多少水で薄めたカクテルが入ったグラスをに渡す。ごくごくとまるでジュースを飲むようにカクテルを煽る彼女にちょっと待ったと手を伸ばすが遅かった。グラスは既に空。思わず溜息を吐いて、何か味薄いと呟いている彼女のほっぺをぎゅっと抓った。彼女は痛みを感じないから意味がないけれど。
「あつ……」
――始まった。、と咎める声をかけるけれど、アルコールで眠気を催している彼女の耳には届かない。シャツの釦を外していく彼女の手を止めようとするけど、その手を逃れるようにごろんとソファに横になる彼女。シャツを全開にさせて下も男らしくバッと脱ぎ捨てたは、漸く暑さから逃れることができたのか寝る体制に入った。
――頭が痛い。
毎回これをどうにかする安室の身にもなってほしいものだ。はぁ、と何度目か分からない溜息を吐き出してサイドテーブルにグラスを置いた。ここ数日間でこの状態のを対処する一番の方法を行う為に、彼女へと覆いかぶさる。彼女の白皙の肌を飾る薄桃色のレースが目に毒だった。
、襲うよ」
の耳元で常より低い声で囁く。自分でも信じられない程、欲を孕んだ声だった。瞬間、ぱちりと目を見開いた彼女は「ぎゃー!おやすみなさい!!」と叫びながら安室の下から慌てて抜け出して脱いだ服を引っ掴んで自室へと駆けて行く。それに一人取り残される安室。
漸く片付いたか。そう思うが、あの状態のはアルコールと眠気のせいでこのことをまた忘れるのだろう。そしてまた酒を飲んで繰り返すのだ。全く、世話がかかる酔っ払いだな。
外では絶対に飲ませないようにしよう、と誓う安室はサイドテーブルに置いておいたグラスを取って一気に喉に流し込む。宛ら、彼女の姿をその瞼から掻き消すように。


 コナンとの分身が誘拐されたことで、安室は強盗犯の女の住所へ向かう為に車を走らせていた。暗い車内の中で、隣には蘭がいる。後部座席には小五郎とが隣同士で。本来であれば、が助手席に来て安室の隣にいる筈だったが、コナンを思っていてもたってもいられない蘭を前に乗せようと思ったのだろう。
だって同じように彼のことを心配しているくせに。だけど、彼女はきっと気付いていない。コナンを守ろうとする為に分身が身を投げ出して、彼女が普通の人間とは違うことを周囲に知られてしまうことを、安室が危惧していることを。コナンも勿論心配だが、何よりも先に手元に取り戻したいのはの分身。出来るだけ、早く。
そこに現れる青い小型車。もそれに気付いたらしい。
「何かに捕まって!」
あの車を追う為に反対車線へとハンドルを切った。急な方向転換に驚きの声が上がる。だがそれを気にしている場合ではなかった。早く、早く。車と車の間を猛スピードで縫い、青い小型車を追う赤い車に並走する。その際に、運転手の男と目が合った。一瞬のことだ。しかし、その顔が頭から離れない。自分はあの男を知っている。それがどこで会ったのか、までは分からない。だが、あの男の雰囲気を知っていた。
――拳銃か。
青い小型車と並走する際に、助手席で強盗犯の女に羽交い絞めされているコナンと銃を突きつけられている芹奈の影が見えた。の影はない。まだあの状況の中で眠っているのか。運転席で必死の形相をしている芹奈を見て、簡単には止まらないだろうと推測した。それなら、力づくでも止めなければならない。
「毛利先生はそのままシートベルトを締めていてください。蘭さんはシートベルトを外してこちらに」
自分の隣にいるのは守ると誓ったではない。だが、彼女もまた今は守らなければいけない存在だ。には小五郎を任せる。その肩を自分以外の誰かが抱くというのは気にくわないが。今は、目の前のことに集中する。
シートベルトを外した蘭を自分側へ抱き寄せ、次の瞬間ハンドルを思い切り左に切った。ガシャァアアンと激しい音を立てて車体の左側が損傷する。しかし、それのおかげで芹奈の車は止まった。
急いで飛び出した蘭の肩を支えながらも、小五郎に肩を抱かれて車内から出てきたを見てほっとすると同時に一瞬胸がざわめく。僕の隣にいたら、今頃その肩を抱いていたのは自分だったのに。
分身を回収しに行くために青い小型車に駆け寄る。その腕に眠っている分身が抱えられているのを見て、安室は漸く彼女たちから意識を外すことが出来た。先程から気になっていたことがあったのだ。
――何故、ここに。
思い出すのは先程見たある人物。顎に手を当てて考え込む安室を一見して赤い車に近付くをそっと見守る。窓ガラスを開けて話す彼らの様子に小五郎の時以上に胸がざわついた。原因はあの男だということは分かっている。あの男の横顔に苛立ちが募った。しかし、どうしてあの男に薄暗い感情を抱くのだろうか。きっと、あの雰囲気のせいだ。安室が酷く恨んでいる男の雰囲気と、どことなく彼が似ているから。そんな彼とが話しているから、こんなにも感情の波が立つのだ。
――早く、僕の所に帰ってこい。
少しの苛立ちを持て余しながら、安室はベルモットからの電話に応答した。


君とのありふれた日々
2015/06/24
まだ妹止まり。

inserted by FC2 system