3泊5日でバリ島に行くよ。そう彼に言われたのは一か月前。
午前中に約8時間かけてフライトしたおかげで、降り立ったバリ島は現在夕刻であった。は日本人とはまた違う容姿をした人たちで溢れている空港を見渡して、わあと声を上げた。隣で同じく「おお」と感嘆した降谷と目が合ってどきりと心臓が跳ねた。
――もしかしなくても、零さんが言ってたのってこの旅行中…?
2か月前に彼に「心の準備をしておくように」と宣言された彼女は薄々この旅行がそのイベントなのでは、と旅行の日にちを聞かされた時から感じていた。
その為、彼に言われた通り閉まっておいた下着だけでなくボディケア用品など沢山を用意してこの旅行に参加したわけだが、隣を見る限り彼の表情はそんなことを考えているとは露程思わせない程の爽やかぶり。
「さて、ヴィラまで一度荷物を預けに行って、それからディナーにしよう」
「はい、楽しみだなぁ」
スーツケースを引いていない方の手で手を繋いで歩く。ドキドキしていた彼女だったが、例のイベントのことは今は考えすぎずに、楽しもうと二人で考えたプランを頭に描いた。

現地の人とスマートに会話して手続きを終えた降谷のおかげで、専用バスに乗ってスミニャック周辺のヴィラに到着した。その道すがらの異国情緒溢れる景色にその都度感嘆の声を上げて写真を撮ったのも記憶に新しい。
「わあ〜、素敵…」
「プライベートプールもあるんだよ」
スーツケースを押しながら中に入れば、そこは一棟丸ごと貸し切りタイプのヴィラだった。降谷が指さす方向を見れば、整備された緑に囲まれたプールが見える。
すごい。感動したまま部屋の中に入れば、調度品はアジアンテイストかと思いきや、ヨーロピアンであった。一階はリビングになっており、キッチン台やテーブル、ソファなどが置いてある。傍の扉を開ければバスルームへと繋がっていた。それを確認して視線を窓際に送れば、リビングの窓はとても大きく、外の中庭とプライベートプールが見える造りになっている。しかもそこから外にも出られるようになっているらしい。
「これだけ広ければゆっくりできそうだね」
「はい。こんな素敵なところ…ありがとうございます」
ホテルに関しては任せてと言われていたので、今日までどんな所に泊まるか知らなかったが、こんなに素敵なホテルを予約してくれていた彼に自然と笑みが溢れる。その笑顔に降谷も良かったと顔を綻ばせる。
開放的な一階に目をきらめかせていたはそのままの勢いで二階に上がる。
「!」
「二階は寝室みたいだね」
隣に立った降谷に肩を抱かれて硬直する。はいと頷く声は少しだけ緊張感と羞恥を纏ってしまった。目の前に広がるのはキングサイズのふっくら膨らんだベッド。天井からは白いレースカーテンがいくつも垂れ下がって、幻想的な天蓋付きベッドになっていた。
「ご飯食べに行こうか」
そう言って階段へと促す彼は、彼女が緊張していることに気づいたのだろう。こくりと頷いた彼女は、彼に連れられて夕食へと向かった。

爽やかな風が頬をくすぐる。朝日が薄っすらと差し込んでいるのか、閉じた瞼からでもチラチラと光が揺れているのが分かった。
「おはよう」
柔らかいスプリングが沈んで、誰かがすぐ傍にいるのは分かった。声は起きてすぐなのか少しかすれている。
「おはよ、ございます」
ゆっくりと瞬いてぼやけた視界をクリアにすれば、そこにいたのは優しく微笑んでいる降谷だった。は目は開いたもののまだ頭が覚醒しておらず、彼に抱きしめられて初めて、窓が開いていてそこから風と朝日が差し込んでいるのだと分かった。
「良い風だろ?窓を開けて良かった」
「はい、いい気持ち」
頬にキスをされてふにゃりと笑えば、また彼が額にキスをした。
――なんて素敵な朝だろう。
大好きな人の腕の中で目を覚まし、おはようを言い合い、キスをしてもらえるなんて。
「さあ、起きて朝食を食べに行こう」
「え、あ、もう着替えてたんですか」
優しく手を引っ張って起こす彼の服装は既に外に出ても恥ずかしくない恰好だった。も着替えるようにと言った彼はコーヒーを入れておくから、と階段を下りていく。ふわぁ、と大きな欠伸をした彼女はぐぐっと伸びをしてベッドから立ち上がった。
――結論から言えば、昨晩は特に何も無かった。食事をして、お風呂に入り、その時点でだいぶフライトの疲れが出てきて、降谷がお風呂に入っている間にまどろみ、彼がベッドに横になった頃には頭を撫でられて寝てしまっていた。
ゆったりとしたワンピースに腕を通しながら、昨夜のことを思い出す。うーん、零さん昨日のつもりだったらどうしよう。そう思った彼女だったが、そう言えば「俺も疲れたからすぐ寝るよ」とお風呂に行く前に言っていたことを思い出した。きっと大丈夫だろう。

降谷が淹れてくれたコーヒーを飲んで頭をシャキッとさせた後、二人はヴィラから歩いて数分の店に入り、スムージーボウルを味わっていた。
「フルーツ沢山入ってて嬉しいですね」
「そうだな。普段こういう料理はしないからね」
朝食を楽しみながらも、今日の予定を確認していく。この後は一旦ヴィラに戻って降谷が予約していた車で出かける手筈になっている。観光マップを見ながら楽しみだと会話を弾ませれば、ニコニコしていたの頬に手を滑らせる彼。
「可愛い」
ふにっと頬を摘ままれたと同時に紡がれた言葉に、きゅんと胸が跳ねる。そんな事を言ったら零さんは格好いい。照れ隠しでもごもごとそう言えば彼が不敵に笑う。
――朝からドキドキしてしまった。


車に乗る際も降りる際も、何故だか今日は彼が扉を開けてくれて、は自分がお姫様になってような気分になっていた。スミニャックの大型のショッピングモールにやって来た所、いつもなら手を繋ぐ筈だが腰に腕を回されてドキドキしながら歩く。
――何だか今日はスキンシップがすごい。
周りの恋人たちも似たようなものだったが、ぴったりと密着しながら歩くのはの心臓には少し悪い。
「あっこれ可愛い」
「手作りみたいだな」
色とりどりで精工な模様が描かれたアロマキャンドル。手に取って眺めてみれば良い香りがして、ほうと息をつく。
「いくつか買っていくか」
「良いですね」
気に入った柄のものを5個手に取って会計しに行く彼。アロマキャンドルがあると気分もリラックスできるだろうから多忙な彼にはピッタリだろう。包装してもらった彼がにっこりと「も気に入るだろうね」と言うので、うんうんと頷く。こんな素敵なものが家にあったら気に入るに決まってる。

その後も洋服や雑貨など色々見て回ったが、お皿やカトラリーなどが可愛いものがあったためいくつか購入した。それが終わる頃には少し昼食には遅い時間帯ではなってしまっていたが、もともと予約していた時間がこの時間だったのでちょうど良かった。
降谷に連れられてやって来たのはビーチが見えるイタリアンレストランだ。テラス席もあって、そこは直射日光が当たらないように屋根が付いていて、爽やかな風を感じられそうである。
景色も見られるし、テラス席が良いなと思っていたら、案内されたのはそこであった。スタッフに椅子を引いてもらい着席したと目の前に座った彼の目が合ってうふふと微笑む。
「素敵なお店ですね」
「だろ?ご飯も美味しいみたいだよ」
ほら、とメニューを見せてくれた彼に、どれにしようかと見定めていく。観光客が多い立地だからか、写真が付いているので名前から想像できなくても分かりやすい。
――どれにしようかなぁ。
モッツァレラチーズもトマトも大好きだからそれが乗ってるピザとかパスタが良いだろうか。でも出来れば全部の料理をちょっとずつ味わいたい。目をキラキラさせてメニューを見ていれば、そんな内情がだだ洩れだったのか、彼が「好きなの何でも頼んだら?一緒に分ければ大丈夫だろ」と笑う。
「えっ、じゃあこれと、このスープと、あっこのパスタも。零さんはピザ何が良いですか?」
「モッツァレラチーズが食べたいから、それが入ってるのだったら何でも」
「はーい、じゃあこれにしましょ」
好きなものを選べば良いと言われて嬉しくなったはあれもこれもとどんどんメニューを決めていく。それを見て、スタッフを呼んだ彼。が何を選んでいたかをしっかり覚えている彼は、すらすらと料理名を伝えていく。
暫くしてテーブルの上に前菜から順番に並んだ料理たちを見て、は嬉しくなってナイフとフォークを取った。
「いただきます」
「いただきます」
二人でこれから食べようか、なんて話し合いながら小皿に取り分けて食べていく。一口食べれば、日本で食べていたイタリアンとはまた違った風味がして目尻が下がる彼女。
「おいしい〜」
「だろ?ほら、これも」
「あ、ありがとうございます」
ふにゃふにゃ笑って食べるにどんどん料理を分けてくれる降谷。その少し眉が下がった優しい笑みにますます幸せを噛みしめながらは料理を楽しんだ。


「さっきのビーチ良かったですね」
「ああ。明日ゆっくり泳ごうか」
アロマの香りが漂い、海風を感じられる開放的な部屋でと降谷は施術台にうつ伏せになってオイルマッサージを受けていた。スタッフの丁寧な手つきで、普段酷使している肩腰などをしっかりとマッサージされている彼は目を閉じて気持ちよさそうに唸っている。
でこんな贅沢は船の上にいる時もこの世界に来てからも一度も無かった為、恍惚とした気分で「はぁ」と吐息をつく。
先ほどまでビーチ散策をしていたが、予約しているディナーまで少し時間があるし、この短時間を利用してスパに来たのだった。シャワーを簡単に浴びて施術用に紙ブラとショーツを身に着けたが、如何せん、隣に惜しげもなく肌を晒している降谷がいる。しかも自分も相当肌を露出している、と考えるとマッサージ中でも恥かしさを覚える。
「はあ〜」
「うう…」
だが、二人して声を揃えて出てきた言葉は「極楽」であった。良い匂いのするオイルで丁寧にマッサージされたおかげで肌はツルツルだし、血の巡りが良くなって身体もポカポカしている。
「最高ですね」
「ああ、日ごろの疲れが吹き飛ぶよ」
こういうのんびりした時間を過ごさせてもらうのも、また贅沢だなぁ。とは目を閉じた。

ディナーはそれなりにかしこまったお店らしく、ドレスコードがスマートカジュアルらしい。その為、一度ヴィラに戻ってお洒落着に着替える必要があった。先ほどマッサージしてもらったおかげで肌はモチモチツルツルで少し引き締まっているような気がする。
降谷が選んでくれたシャンパン色のレースワンピースに脚、腰、そして腕を通す。背中は大きく開いていたが、かろうじてこの前購入したキャミソールタイプのランジェリーとブラははみ出なかった。
身体にフィットしている作りなのかドレスの上からでも着ていることは分からない。ロング丈の裾がひらりと靡いて、この彼のセンスの良さが際立つ。
――たぶん、今日だよね。
ドキドキしながらドレスに合わせた靴に履き替える。先ほどまで履いていたサンダルよりも数センチヒールが高いそれに緊張感が増した。
コツリ、とヒールの音を立てて寝室から1階へと繋がる階段を下りる。
下ではちょうどシャツのボタンを留め終わった降谷が淡いブルーのジャケットを羽織った所だった。最後の一段を下りきる前に手を差し伸べた彼に左手を重ねる。
「よく似合ってる」
「零さんも素敵です」
彼のエスコートに胸を高鳴らせながら素直に彼のファッションを褒めれば、彼はの腰を引き寄せて優しく抱きしめた。
は後は髪とアクセサリーだね」
「はい。すぐにまとめますね」
ロングワンピースに似合いそうな髪形をネットで検索しておいた為、チェストの上に取り付けられた丸鑑を見ながら、髪の毛をまとめていく。今日は前髪を流して全てまとめてしまう大人っぽい髪形をチョイスした。
最後に零から貰ったネックレスに合うイアリングを、流し目で確認しながら耳に着ける。その最中に鏡越しに彼と目が合って少し照れる。
――そんなに見られると恥ずかしい。
「さあ、行こうか」
「お待たせしました」
チェストの上に置いておいた小さなクラッチバッグを手にして降谷の後を追う。最後に確認した鏡の中の彼女はチークも口紅もばっちりだった。
服装は人の見た目だけではなく、心の持ちようも変えるとどこかの誰かが言っていたような気がするけれど、確かにそうだとは感じていた。
繊細なレースのワンピースにハイヒールはいつもよりも彼女を淑やかにさせて、艶やかな表情にさせる。
エスコートをする降谷がタクシーに先に乗せてくれて、続いて席に座る。
運転手に行先の確認をして出発する間際、耳元に彼の唇が近づいて、の呼吸を止めた。
「今すぐキスしたいくらいセクシーだ」


間接照明が程よく照らすレストランはどうやらバーも兼ねているらしい。店の中心には演奏席があって、そこではピアノでクラシックジャズを弾く男がいた。
それを眺めながら料理とワインに舌鼓を打つ。
「昼間のショッピングで試着したワンピースあったじゃないですか」
「ああ、あの水色のワンピース?」
「はい、もし時間があったら明日もう一度見に行って良いですか?」
「勿論。けっこう似合ってたと思うよ、アレ」
リズム良く響くピアノの音色に、降谷との会話が弾む。今日あった楽しかったことを「ああだった」「こうだった」と思い出すかのように口にすれば、彼も「店主の男がまけてくれたのには驚いたな」なんて笑う。
魚料理に合う白ワインを一口含めば、ふわりと濃厚なアルコールと共に爽やかな甘みが鼻腔を駆け抜ける。
アルコール類を飲むと少し羽目を外してしまう彼女も、流石に今日は淑女の恰好をして素敵なレストランで食事をしている為、理性でそれを抑えつけていた。
「何だか今日は朝からお姫様みたいな気分で…」
「俺がそうしたかったんだ。でも喜んでくれて良かった」
お酒の力を借りて、彼の目を見つめて嬉しかったのだと伝えれば、彼は瞑目した後目尻を下げて笑った。その直後、居心地の良い沈黙が訪れて、互いの目を見つめる。
少し薄暗い店内でも、彼の瞳のアッシュブルーが煌めいているのが分かる。何だか、熱が籠っているようにも見えて、それが少し気恥ずかしくてそっと目を逸らす。何故だか、見つめられるだけで身体が熱くなった。
その後も、時々沈黙が訪れて、その度に彼の熱っぽい瞳に見つめられて、ジリジリと身体を焼かれているような気がする。

――もう、ドキドキが心臓から溢れてしまいそう。


光をほどいたら貴方になった


2019/09/07

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