どこか分からぬ大浴場に出現した2人は、営業時間外だったらしい銭湯からこっそりと抜け出して事なきを得た。しかし如何せん全身濡れている状態ではまともな人間として見られない上に、少しばかり寒い。
「ここ、知ってる所なのかい?」
「うーん、よく分かんないです。ちょっと待っててください」
この世界に戻ってきてから目が覚めるまでに時間がかかったのか、それとも少しばかり時の流れが違うのか、今は月が照らす夜中であった。安室としては、が言う異世界の存在など半信半疑といった感じだったのだが、自分が巻き込まれてしまえばもうこれは現実なのだと受け入れるしかなかった。
安室の世界とは違って、都市整備がされていないこの町の様子に、本当に異世界へ来てしまったのだと実感する。はそんな安室を放って、酒場らしき所から出てきた男にこの島は何と言う名前でどこの海なのかと訊ねていた。
「ここは新世界のラシャドーって春島だが…あんた、自分のいる島の名前も分からねぇのかい?」
「すみません、気付いたらここにいたので」
アルコールで顔を赤らめた中年の男は親切にも彼女の質問に答えてくれた。その上、全身濡れている安室たちを眺めて何か事情があったのかと察した彼は、服くらいなら貸してやれるぞと歩き出す。
それに顔を輝かせたはありがとうございますと言って、彼に付いて行こうとするがそれを安室は寸での所で止めた。
「知り合いじゃないのに危険じゃないか」
「大丈夫ですよ。ここ白ひげの縄張りなんで、私が白ひげ海賊団だと分かれば親切にしてくれる筈です」
しかし、彼女曰くこの島は安全らしい。白ひげとは、以前彼女の話から聞いていた彼女の船の船長のことか。銃も何も武器を持っていないこの状況に不安を覚えるも、気を張って男に付いて行くことを決めた。

 親切そうにしてくれた男はが白ひげ海賊団の人間だと分かると笑顔になった。ここら辺は白ひげの加護のおかげで他の海賊たちには狙われずに安心して暮らせている、とまるで彼女が白ひげであるかのように感謝している様子を見て、噂に聞く白ひげとはそれ程までに力がある男なのだと分かった。
彼の家に着くと、夫が夜遊びをしていたことに怒っていた女房が飛び出してきたが、彼が客人を連れていると分かった途端に般若のような顔を止め、2人を家に招いてくれた。
「2人ともずぶ濡れじゃない。あんた、この青年に洋服を貸してやんな!こっちの子は私の若い時の服を貸してあげるから」
「急にお邪魔してすみません」
「おばさん、ありがとうございます」
恰幅の良い彼女はいそいそとを彼女の部屋へと連れて行く。安室はちらり、と彼女に視線を送ったもののこの夫婦からは嫌な気配を感じないことから、彼女を放っておくことにした。安室は安室で男に連れられて彼の部屋に行き、ずぶ濡れの服を新しい服に交換してもらった。
窓から見える、水気を切って家の外に干されたと安室の洋服。乾くまでは仕方ないか、と少しサイズの大きな服を着る。男が出て行ったことで、ちらちらと部屋の中を視線だけで物色するが、武器になりそうな物は今のところなさそうだ。
「夕食はもう終わっちゃったからスープしかないけど、2人とも食べるかい?」
「ありがたくいただきます」
着替え終ってよりも先に下の階へと下りれば、テーブルに湯気を上げているスープを出された。夕食を取らずにこの世界に来てしまった安室は断る理由もなく、彼女の厚意に頷く。
礼儀正しい子だねぇ、と随分若く見られていることに気付くもそれを否定する気にはなれずに、ははと笑っておいた。
はまだか、と階段を見上げればとたとたと下りてくる足音がする。簡素なワンピースに着替えた彼女はまず服を貸してくれた女性に礼を言って安室の横に座った。
スープとおにぎりを2人で食べている最中にこの夫婦の名前を教えてもらい、彼らもまた自己紹介をした。夫はジャコブという名で、妻はディライラというらしい。温かいスープで身体を温めた安室たちは、話しても理解してもらえないだろう範囲は省いて、ここにやって来るまでの経緯を軽く彼らに説明した。
そうすれば、彼らは大層憐れんでくれて、暫くの間この家の空き部屋を使わせてもらえることになった。ここまで厚待遇を受けるのは、偏にが白ひげ海賊団だからなのだろうか。
笑顔の裏に何か隠していたりしないか、と彼らを観察してみるも彼らからは先程と同じように厚意しか感じ取れない。いきなり知らない世界に飛ばされて神経が高ぶっているだけか。隣を見れば、にこにことが笑っていた。
数分経って、電伝虫を借りたいのだがと申し出た彼女は壁際に置いてある巨大なカタツムリらしき生物に近付いた。受話器を取って、どこかの番号に電話をかけている様子の彼女を見守る。受話器は話す専用らしく、耳には当てないようだ。にしても、あのカタツムリの気味の悪さに突っ込む者は誰もいないのか。
「もしもし、白ひげ海賊団一番隊所属のです。マルコ隊長はいますか?」
!?お前どこに行ってたんだ!いやまあ良いちょっと待てよ、マルコ隊長呼んでくるから!』
どうやら電話に出た男は彼女と面識があったようで、ドタバタと音を立てながらどこかへと向かって行く様子が窺えた。カタツムリが男の声や表情を真似しているのが、何とも不可思議だ。暫くして急いだ足音がやって来たかと思えば、マルコとやらは彼女の無事を確認して大層安心したようだった。彼女もまた少しばかり肩を震えさせている。きっと、家族の声を聞いて安心して涙が出てきたのだろう。
数十分程話し合っていたは、彼らの船だとこの島に辿り着くのが1カ月弱かかることから、暫くこの島に滞在することを決定して電伝虫を切った。
「えっと…話し合った所、私の迎えが来るのは1カ月以上になりそうなので、安室さんが無事に帰れたのを見送ってから私も船に帰ります」
「そっか、それで良いよ」
とりあえず、2人とも今後の方針が決まったことでほっとすると眠気が襲ってきた。それもそうだ、時計の針は既に12時を指しているのだから。ディライラに促されて安室たちは2階に上がっていく。部屋は別々なので、おやすみと声をかけ合って別の部屋に消えていった。
何だかんだあって精神的に疲労を覚えた安室はすぐさま意識を手放した。手放す間際に、はきっとあちらの世界に来てしまった時にこれ以上に恐ろしかったんだろうなぁ、と今更ながら彼女の気持ちが分かった気がした。


 翌日からと安室は居候としてお世話になるだけではなく、お金を稼ぐ為にジャコブの家からそう遠くない酒場で働くことにした。彼が丁度人手が足りていない店を紹介してくれたのだ。恩返しとして少しでもお金を彼らに入れるべきだ、と考えたはウェイトレスとして精一杯頑張ることを決めた。
この島は観光地としてそれなりに有名な島だからか、観光客が多い。昨日は夜だったから歩く人が少なくあまり分からなかったが、昼間の酒場の席が満員になる程なのだ、島としてはかなり栄えているだろう。
ちゃん!海王類のミートスパゲッティとビール!」
「はい!」
「安室くん、キッチン手伝って!」
「分かりました」
賑わっている店内ではと安室が入ったとしてもまだ人手が足りないくらいだった。慌ただしくオーダーを取ったり、出来上がった料理を客に運ぶだけで目が回る。
安室は安室で料理の腕が良いことからキッチンとホールの両方を掛け持ちしている様子で、より更に大変そうだった。
「姉ちゃん白ひげんとこの子なんだってなぁ!」
「はい、そうです。暫くこの町にお世話になるので頑張りますね」
客のもとまで出来上がった料理を持って行けば、この町の住民なのだろう男がにこにこと笑いながら背中を叩いてきた。白ひげの名のおかげでこの町に来たばかりのと安室に優しくしてくれる人々に、は微笑んだ。
治安の良い島で良かったなぁ。
客の話ではこの島には海賊はそれなりに来るものの、白ひげの縄張りだということで暴れるような輩は本当に少ないらしい。はそれを聞いて、安室が海賊たちに怪我を負わされる確率は低いだろうと安心した。何せ、が暮らしている世界だ。出来ることなら良い思い出を作って帰ってもらいたい。
ちゃん、そろそろ休憩入って良いよ」
14時を回った頃、オーナーから声がかかって従業員専用の部屋に入る。初日からぐるぐると動き回ってお腹が空いたはぐううとお腹を鳴らしながら椅子に座った。そこに彼が自ら賄いのスパゲティを持って来てくれた。先程美味しそうだと思った海王類のミートソースがパスタの上にたっぷりかけてある。
「わあ、オーナーありがとうございます!」
いただきます、と手を合わせてパスタを食べ始めた。オーナーはその様子を見てから、30分後に安室くんに休憩入ってもらうからそれまでに食べてね、と言ってキッチンへと戻る。
それに頷いてはぱくぱくと口にパスタを入れていった。安室は大丈夫だろうか。昼食の時間帯が過ぎて少しばかり客が減ったとはいえ、今頃先程以上に動いている彼のことを心配した。にとってはあんなにせかせか安室が動く姿を見たのは初めてだ。安室の世界ではは働かなかったし――貨幣の感覚が分からなかったし、文字もまだ覚えている最中だったからだが――この世界では自分が働いて安室にはゆっくりしてもらおうと思っていたのだが、彼は酒場で働いている。働き者だなぁ。
『お兄さーん』
『はい、ただいま!』
扉を隔てて安室を呼ぶ女の高い声がする。この世界でも安室はモテモテなようだ。きっとあのルックスであの笑顔を浴びせられた女性たちは彼にメロメロになっているのだろう。
海に行った際に男2人に声をかけられただけのとは違い、彼は多くの女性を惹きつけるようだった。羨ましい。私も美味しい物を沢山食べさせてくれる男がほしい。
いや待てよ、でもそれなら別に男ではなくても良いのか。男女どちらでも良いから美味しい物を食べさせてほしい。食にばかり興味の矛先が向いているはぺろりとパスタを食べ終わり席を立った。少し早いけれど店に戻るか。
「っと」
「わ、安室さんごめんなさい」
扉を開けた先には丁度安室が料理を運ぶ所だったようで、危なげなく皿を抱え直していた。大丈夫、と言うように微笑んだ彼はそのまま客のテーブルへと向かう。もまた、昼食を食べたことによって力が出てきており、早速ビールを頼む客の声に応えた。


09:遠慮せずにどうぞ、お入りください
2015/06/18

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