翌日、ドライブで沖縄を巡り色んな自然を見て楽しんだと安室はある離島に来ていた。もうそろそろ夕方に近付き、徐々に空が薄紅色になりつつあるからか帰っていく観光客が多い。駐車場に止めた車から出て、彼の隣を歩いて浜辺に向かう。浜辺への道は両端に切れ味が良さそうな植物が生えていて、はお気に入りのワンピースから覗く脚に当たらないように草から離れた。
「えっ、すごいこんなに綺麗なのに誰もいないんですか?」
「こっちの浜辺はどうやら穴場みたいだからね」
降り立った浜辺には監視員も観光客もいない。そもそも海から出て帰り始めるような時間帯だからかもしれないが。その、誰もいない静かな白浜の上を嬉しくなって走った。サンダルに砂が入るよ、という彼の忠告に慌てて靴を脱いで手に持ち裸足で歩く。ホテルの前の海よりも透明度の高いそれに足を浸してみればやはり力が抜けた。
「何してるんだよ…危ないな」
「ちょっと触ってみたかったんです」
ぺたんと尻餅を着くかと思ったけれど、それより先に後ろからやって来た安室に腰を支えられて事なきを得る。苦笑する彼の眼差しに、腰に触れる彼の手の平に鼓動が速まった。が海から足を出したのを確認してそっと手を放した彼にほっと安心しながらも、少し名残惜しいなんて矛盾した気持ちが湧きあがる。
――我が侭だな…。
静かにこの自然の美しさを堪能し、前を行く安室。その背中は穏やかで。彼の視線の先には長年の波の浸食によって削られた大きな岩が二つある。どことなくハートのような形に見えるそれ。自然の力でこんな形になるなんて凄いなぁなんて感心して彼と同じように静かに海を眺めた。
徐々に空が紫のような淡紅色のような複雑な色に染まっていく。じりじりと沈み始めた太陽の輝きが目に眩しくて、こんなに綺麗な景色を彼と一緒に見ることが出来て幸せだと胸が満たされて。波の音以外に聞こえない、壊しがたい程に穏やかな静寂を守るようにそっと彼の後ろを通り過ぎて、もう少し先に行ってみようとする。
だけど、彼を通り過ぎる際に海に目を向けてみれば、二つあった岩が見事に重なっていたのに彼女の目は見開く。その形が二つを別々に見た時よりも確かにハートの形をしていて、夕暮れの艶やかな薔薇のような空にそのシルエットが浮かび上がらせていたのだ。それを見たと同時に彼への想いが溢れ出して胸が苦しくなる。ぎゅっと締め付けられる心臓。
――今しかないと思った。今訊かなければ、きっとこの先訊くことは出来ない。そう思って彼の背中に震える声をかける。
「安室さん、あのペンダントの裏に書かれていた文字って……」
「…分かったの?」
恐る恐る彼に近付けば、彼はそっと振り返る。彼の横顔が夕焼けに照らされて、神秘的に映って。どくどくと速まる鼓動を耳のすぐ側で感じながらもこくりと頷く。震える唇を開けば、彼はの言葉を熱望するかのように彼女のことをじっと見つめた。
「零、さん…?安室さんの本当の名前は…零さん?」
そっと静寂にとけてしまいそうな程に小さく囁いたそれ。今までにない程緊張していた。そんなにほっとしたような、何か激しい思いを堪えるような表情をした彼。見つけてくれたんだ。ぽつりと囁かれたそれは、波の音に流される前に、確かには聞き取った。その瞬間、もうは我慢できなかった。
「安室さんっ、私、やっぱり安室さんのことが好きです…!ずっと会えなくて分かりました…私、安室さんとずっと一緒にいたい。好きって気持ちは無くならないけど、安室さんの傍にいちゃ駄目ですか…?」
溢れ出す彼への“好き”という気持ちが身体中を巡って内側から焼け焦がしてきて。ぽとりとサンダルを手から離して一歩、二歩と彼に近寄って彼の胸元に飛びこむ。想いと共に溢れ出した涙が彼の服を濡らすけれど、彼はそんなをそっと見下ろして頭を撫でた。
、今まで悪かった。いっぱい泣かせたし、傷付けた」
その言葉にびくりと震える肩。やはり拒絶されるのか。先程とは違う意味で溢れる涙に嗚咽が混ざる。だが、そんなの頬に手を添えて上を向かせる彼は彼女の涙を拭った。
「本当にには謝らなきゃいけないことが沢山あるんだ」
眉を寄せて話しだす彼に、はくしゃりと顔を歪めた。聞きたくない、もうあの時のように胸を突き刺す痛みを感じたくない。だけど、彼の心地よい声はの鼓膜を揺らす。耳を塞ぐことは許さないと言うように。
「最初、僕はを利用しようとしていたんだ」
僕は日本の秩序を守る組織に身を置いていてね、だけじゃなくて周囲の人間を騙してた。不思議な力を持ったを仕事の為に利用しようと思っていたんだよ。そう言う彼に利用されていたのは知ってたとは心の中で返事をした。気付いたのは1番隊の男たちに指摘されてからだったけれど、はもうそんな昔のことはどうでも良かった。彼が利用しようと思ったからは彼と共に暮らすことが出来たし、彼を好きになることができたのだから。安室はそんな彼女を見下ろして続ける。
――最初はただの使い勝手の良い同居人として見ていなかった。それなのに、いつの間にかのことを大切に思うようになっていった。そう、
「全ては、君がそこに傷を作った時から」
彼の指がそっと彼女の右肩の鎖骨がある場所を指で慈しむように撫でる。この傷が、決定的に安室を変えた。身を挺して安室を守った彼女を今度は自分が守りたいと思うようにさせた。手放したくない、とも。
徐々に悲しみから困惑に表情を変える彼女に、安室は微笑んだ。早く、気付けよ。彼女が流す宝石のように光り輝く涙を優しく指先で拭って、彼女の潤んだ飴色の瞳からじっと目を離さない。
、君はまるで夏の日のようだ。眩しくて、じりじり僕の胸を焦がして、それでいて嵐のように心を乱れさせて…だけど、一日が終った海のように穏やかにさせる。…分かるかい?」
安室の最初の言葉は有名な劇作家の詩の冒頭部分を借りたもの。その言葉は本当に彼女にぴったりだった。だけど彼女は知らないだろう。彼女を表すのはその言葉しかないと思った。こんなにも安室に激情を覚えさせたのは彼女が初めてで、何もかもが青く、美しく、純粋で、瑞々しい。
目を見開いて安室を見上げるは、その言葉に胸が破裂しそうになった。彼の彼女を見つめるその瞳の熱さに、恋情が優しく含まれているような気がして。
――ねぇ、それって本当?期待して良いの?
ぽろりとまた一滴頬を伝って落ちる雫と震える唇。見上げた先の安室は今までにない程真剣な貌をしてを見下ろした。
「僕にとって一番大切なことは仕事でその優先順位は変えられないと思う。のことを一番にできないだろうし、危険な目に遭わせるかもしれない」
左手はの身体を抱きしめ、右手は彼女の濡れた頬を愛しさを込めるように撫でる。
「……だけど、好きだ。絶対に守るから、結婚してほしい。今すぐにじゃなくて良い…結婚を前提に僕と付き合ってくれ」
絶対に守るし愛し続けるから、お願いだ。その言葉に勝手にの瞳からは更に涙が溢れた。くしゃりと目元が歪んで。からかってるんじゃないのか、とかいきなり結婚まで飛躍するなんて冷静沈着な彼らしくないとか、冷静な彼女ならそう思っただろう。だけど、そんなことが考えられない程に嬉しくて、幸せで。仕事を何より優先しなくてはいけなくても、危険な目に遭うかもしれなくても、そんなことは関係無かった。彼が、を想ってくれているのかだけが、問題だった。
「本当に?うそじゃない?」
「こんな大切なことで嘘なんて吐かないよ」
泣きじゃくるの額にこつんと彼の額が合わせられる。ふふと笑う彼にはすり寄った。嬉しい、いつ、どうして?彼がを好きになってくれたことが信じられなくて色んな疑問が溢れだすけれど、ぎゅっと抱きしめられた腕の力が強くなればの心はそれだけでもう満たされてしまって。
「今でも、僕のことが好きなら僕の手を取って…」
「はい、はい…!!お願いします…!!」
ポケットから上質な小箱を取り出し、砂の上に跪いての左手の薬指に水色の宝石が埋め込まれた指輪を嵌める彼。夕日に照らされた指輪が彼女の薬指できらりと光り輝く。
こんなことが本当にあるんだろうか。が歓喜に涙を流せば、彼は自然と内側から溢れ出す笑みを浮かべて彼女の腰を抱きかかえてくるくると回った。回る度にぽろぽろと彼女のきらきら光る瞳から涙が彼の頬に落ちる。
――、愛しくて胸が張り裂けそうだ。
「好きだ、。絶対に幸せにするよ」
「安室さん…っ、違います。“2人で”幸せになるんです」
夕焼けに照らされる彼女の泣き顔の、なんと美しいことか。絶対に幸せにする。たとえ不幸になったとしても彼女と一緒なら乗り越えられると思う。しかし、そんな彼の想いを覆す彼女。安室がを幸せにするのではなく、2人で幸せになるのだと言う彼女の強さに、輝きに、増々愛しさが溢れた。
回り過ぎてそのまま砂浜の上に倒れ込む。少し目が回った2人だったが、それでもその笑みは絶えない。の下敷きになっている安室はそのまま彼女を腕の中に閉じ込めて目を瞑った。彼女の香りが肺を満たす。ずっと、こうしたかった。
――絶対に守る。あらゆる危険から守ってみせる。
「安室さん、好き。好きです…」
重なった胸から伝わってくるの気持ち。肩を濡らす彼女の涙が服にじんわりと滲みこむのと同じように、安室の心にも沁みこむ。それは、気付いていながらもずっと安室が見ようとしてこなかったものだ。それを、今の安室は何よりも求めている。
――知ってる、知っている。ずっと傍で見てきたから。
そっと目を開いて、すぐ近くにある彼女の顔を見上げる。
、名前で呼んで。俺の名前は降谷零。零って呼んで…
もう彼女の前で偽る必要はない。彼女の頬に片手を添えて彼女の瞳を見つめ囁けば、彼女はくしゃりと泣き笑いを零して。それに、熱くなった目頭。降谷の視界までぼんやりと歪んだ。
――、世界中を探したって、以上に愛しい女なんてきっと見つからない。だから、お願いだ。
俺の心の全てをあげるから、お前の心の全てをくれ。お前を、守るから。たとえ、世界中がの敵になっても俺だけはの味方だ。だからもうずっと傍にいてほしい。共に、人生を歩んでほしい。
「零さん…」
そっと波の音に重ねるように、愛しさを込め紡がれた名前。何よりも愛しいその音を紡ぐ彼女の唇にそっと自分の唇を寄せる。伏せられた睫毛を至近距離で眺めながら、口付けをした。
――今までは、恋なんて簡単に壊れてしまうものだと思っていた。だけどそれはお互いの想いが弱かったから。そう簡単に壊れないようにすれば良いだけのことだった。とならそれを一緒に出来る。世界を飛び越えて、その度に絆を深めて、お互いの心を知っていった。だからもう、恋は儚いものなんだ、なんて恐れなくて良い。
名残惜しく彼女から顔を離せば、目がかち合った彼女はたちまち狼狽して彼の肩口に顔を隠してしまった。真っ赤になった彼女は果たして夕焼けに染まったのか、それとも違うものからか。
――これからは嬉し泣きしかさせないって誓うよ。
夕日が落ちて空が濃紺になるまで、2人は抱き合っていた。


君を夏の日にたとえようか。
いや、君の方がずっと美しく、おだやかだ。
荒々しい風は五月のいじらしいつぼみをいじめるし、
なによりも夏はあまりにあっけなく去って行く。
時に天なる瞳はあまりに暑く輝き、
かと思うとその黄金の顔はしばしば曇る。
どんなに美しいものもいつかその美をはぎ取られるのが宿命、
偶然によるか、自然の摂理によるかの違いはあっても。
でも、君の永遠の夏を色褪せたりはさせない、
もちろん君の美しさはいつまでも君のものだ、
まして死神に君がその影の中でさまよっているなんて自慢話をさせてたまるか、
永遠の詩の中で君は時そのものへと熟しているのだから。
ひとが息をし、目がものを見るかぎり、
この詩は生き、君にいのちを与えつづける。

――シェイクスピア『ソネット集 18番』



80:頼むから黙って、ただ愛させてくれ。
2015/09/23
タイトル:ジョン・ダン
『Shall I compare thee to a summer’s day?(君を夏の日に喩えようか)』本編完結。

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