沖縄旅行初日の夜は、あっという間に過ぎていった。海に入るだけでなく、岸に戻ってから2人でビーチバレーをしていたら、隣で同じようにビーチバレーをしていたと同じ年齢かそれ以上のカップルに「一緒にしませんか?」と誘われて、安室と一緒に戦ったのだ。
結果は勿論、のチームに安室がいる時点で勝ちは決定していた。砂に足を取られて上手く動けないの代わりに安室が次々にスパイクを決めて相手を圧倒して。だけどそれだけでは相手も楽しくないだろうから、と時々手加減している様子で戦っていた彼。と同じようにあまり体力が無かったらしい彼氏は彼女に守られながら戦っていた。どうやら彼女の尻に敷かれているようだ。勝気な面立ちをしている彼女とにこにこと柔和な笑みを浮かべる彼の相性はきっと良さそうだ、とは他人でありながらもそう思った。
そんなことがあったおかげで、遊び疲れたは広々としたお風呂に入って、ホテルのレストランで美味しいコース料理を食べた後は寝る用意をして寝室に直行して寝てしまった。その為、安室と一緒の寝室で寝るということにドキドキする暇もなかった。あの時の彼女はただの眠気の塊だったのだろう。

 だけど、目を覚ます時はそうもいかない。爽やかな風が窓から入ってきて、の頬をくすぐる。それにんん…と声を上げ寝返りを打てば徐々に意識は覚醒し始めて。ゆっくりと目を慣らすように瞼を開ければ、少し前に目を覚ましたのだろう安室がこちらを向いていた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
寝起きで少し擦れて低い彼の声と穏やかな眼差しにどきんと朝から心臓に負荷がかかる。その上、寝顔を見られていたのかと途端に恥ずかしくなって反対側に寝返りを打った。彼のベッドと彼女のベッドの間の隙間はたった5センチもない。もしかしたら恋人や夫婦が使う部屋だったのかもしれない。こんなにも近い距離に、は顔を覆って悶える。
「朝食は8時にしたからゆっくり仕度しよう。それとも散歩するかい?」
「…早く仕度して散歩したいです」
背中に投げられる彼の言葉に顔が汚れていないか確認してから起き上がって壁にかけられた時計を見る。今はまだ6時だ。慣れない場所で早く目が覚めてしまったらしい。カーテンを開けて外を見れば、外は天気で朝日が昇り海を黄金色に染め上げていた。浜辺や朝の道路を歩くのも楽しかろうと彼に提案してみれば、彼もそれに頷いてくれた。

 着替えて用意も終わった所で一緒に部屋を出た。エレベーターに乗って下まで下りてホテルから出る。朝の少し冷えた気候が気持ち良かった。
「静かですね」
「きっとまだ寝てるんだろう」
ホテル周辺の道を歩いて静けさを保つマンションや家々を眺める。車道もそんなに車は走っていない状態で、街は全体的に静かで、たちはその静けさを楽しむようにゆっくり歩いた。
薄く白けた空が徐々に青く明るくなっていくのを見上げる。夜露に濡れたハイビスカスが徐々に昇り始めた朝日にきらりと光って。穏やかな潮風が2人の髪をさらさらと遊ぶように通り抜けていく。
たちと同じように朝の散歩をしている人たちがちらほら見える。彼らもまたこの静寂を破らないように静かに会話をしていた。
は安室をそっと見上げた。彼が隣にいるだけで同じ景色が色濃く輝いて、かけがえの無いものになってしまう。この散歩も、この景色も彼がいるからこんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるのだ。
道路から浜辺に移れば、朝の犬の散歩をしている人もいて。きらきら光る海を眺めながらは穏やかな時間を噛み締めていた。隣を歩く安室も、微笑を携えていたから、きっと同じようにゆったりしているのだろう。


 目の前でシェフが料理してくれた朝食はとても美味しかった。何だか本当に豪華な旅行では吃驚してしまった。もしかして、最後の晩餐とか?少し前にテレビで見た有名絵画を思い浮かべたは情けなく眉を下げる。もし、この旅行が終った後にさようなら、とか言われたらどうしよう。そう思ったがきっとそんな筈はないだろう。
今日は色んな場所を観光するらしい。お城や水族館、植物楽園など。それなりにそれぞれの距離が離れているらしいからスケジュール通りに動かないといけない。
「忘れ物はない?」
「大丈夫です」
部屋を出てホテルの正面玄関に向かう。どうやらこのホテルでは車もレンタルできるらしい。すごすぎ。予約しておけば、正面玄関にまで車を持って来てくれると言うのだから至れり尽くせりだ。
車に乗り込み地図を確認する彼。まずはここから一番近い城に向かうらしい。
「お昼は植物楽園を出る時間次第かな。食べたいもの考えといて」
「はい。安室さんは何食べたいとかありますか?」
が食べたいものなら何でも。ああ、でも植物楽園にレストランがあるらしい」
車を運転させ前を向く彼の言葉に、渡されたパンフレットをぱらぱらとめくって美味しそうな店を探す。彼の微笑と気障な言葉に頬を染める。何だか、安室さん沖縄に来てから少しおかしい。沖縄の解放的な雰囲気に感化されてしまったのだろうか。
しかし植物楽園の中にレストランがあるという彼の言葉にそれならそちらの方が良いかもしれないとは思った。お腹空いた時に食べられる方が良いし。
「そのレストランが良いです」
「じゃあそうしようか」
どんな料理なんだろう。そう思うの言葉に頷いた彼はあと5分で城に着くよ、と知らせてくれる。どうやらホテルから城はそう遠くない所に位置していたらしい。
 彼の言う通り5分後、城に到着したは「鮮やか〜」と声を上げた。朱色に塗られた城を眺めつつ、こんなに広い所で昔の人は住んでいたんだなぁと歴史を感じる。中は見学できる所と出来ない所があるので、出来る所だけを2人で歩いて見る。青空に城の朱色が映えてとても綺麗だった。
「美味しそう」
「もうお腹が空いた?」
この朱色に食欲を刺激されて思わず声を上げれば、隣を歩く安室にくすりと笑われた。まだお腹はすいていない。だけど、暖色系は食欲を増幅させる色だから、と言い訳をすれば彼ははいはいと言って取り合ってくれなかった。
「お昼が楽しみだね」
「ぅ…、まぁ、はい」
だけど彼の穏やかな瞳に見つめられてしまえば、もう強く言うことなんて出来なくて。安室の瞳にはまるで魔力があるようだ、とはいつも思う。彼に見つめられるだけでこんなにも恥ずかしくなったり、嬉しくなったり、胸が苦しくなったりするのだから。僕は魔法使いなんだよ、と言われても何も違和感ないなとは思った。
 その後は植物楽園を見て回ってレストランで昼食を楽しんだ。午後を過ぎ、そろそろ行こうかと彼が言ったことで植物楽園を出る。普段パソコンやスマートフォンの画面を見ている安室の目には良いのではないかとは思った。見たこともないような植物も多く育っていてとても面白かった。
 約2時間かけて水族館にやってきたたちは長いエスカレーターに乗って下りていく。眼前に広がる海の世界には感嘆の溜息を吐いた。とても綺麗。悠々と泳ぐ魚たちの群れに目を奪われる。照明によって青く反射する鱗のきらきらした光や、鮮やかな色彩の魚たち。今までも多くの写真を撮ってたけれど、ここでは更に写真を撮ってしまいそうだった。
「綺麗ですね。凄い……」
「ゆっくり見て回ろう。時間はたっぷりあるから」
大きなジンベエザメがゆったり泳ぐさまを眺めながら、彼は微笑んだ。


 観光からホテルに帰って来たのは18時。夕食は18時から食べられるということなので、早めの夕食にしようかと彼がレストランに向かう。案内された席に座って美味しい料理を食べながら今日の話をぺちゃくちゃと話せば、彼もそれに合わせて話してくれた。
「やっぱりイルカショーを最前列で見るっていうのは凄かったね」
「水がかかって吃驚しましたね。でもすごいイルカが可愛かったです」
中でものお気に入りはイルカショーだった。何度もジャンプしたり高度な技を見せてくれた彼らには拍手喝采だった。また見たいなぁなんて呟く彼女にまた今度見に行こうと彼は頷く。
「どうする?ホテルにはバーがあるけど」
「えっ、行きましょうよ」
夕食も終盤に差し掛かった所で彼の提案に嬉しくなる。バーなんてお洒落なものは佐藤と高木と一緒に飲みに行って以来だ。その時にはまあ色々あったわけだが、今はそんなことを考えないようにしようとはその記憶を追い払う。彼は「僕が制限する量を守れるなら良いよ」と言うので、は素直に頷いた。
 じゃあ行こうか、と夕食を食べ終わり地下のバーに向かう。小さな扉を開けて入ったそこは間接照明でぼんやりと店内を浮かび上がらせている。流れるクラシックジャズが店の雰囲気をぐっと引き上げていた。
既に何組か客が来ている店内の奥の、薄手の黒レースのカーテンで空間を仕切れる二人掛けのソファに通されたたちはそこに腰を下ろした。お洒落な模様をしたランプが天井から吊るされていて、その淡い光が2人を照らす。彼との距離が近いし、周りより薄暗いその席からは大人な雰囲気が溢れていて、の身体は強張った。
「甘いのなら良いんだろ?」
「はい」
メニューは無いようなので、バーに慣れていないは全て安室に任せることにする。彼とバーに来るのは初めてなのでドキドキしながらちらりと彼に視線を送れば、彼はバーテンダーに2人分の飲み物と軽いつまみを頼んでいた。
「食後だからジャック・ローズにしてみたよ」
「わ、美味しそうです」
少しして運ばれてきたのはオレンジのような赤のような色をしたカクテルと、バーボンのロック、そしてクリームエリカ。薔薇を想像させることからこの名前が付いたんだよ、と教えてくれる彼にそうなんですねと頷く。グラスを持ってきらきら光る液体を近くで眺めてみれば、香る林檎と柑橘系の香りにくらりとした。
いただきます、と言ってそれに口を付ければ甘酸っぱくてすっきりとした味わいが口の中に広がる。ふわりと鼻腔から抜けていく林檎の香りに美味しいとはにかんだ。確かに食後に丁度良いカクテルだと思う。
「今回の旅行はどう?」
「楽しいです。海も綺麗だし、ホテルも凄い素敵で、行く所全てわくわくします」
クリームエリカを食べつつを見やる彼の言葉。それに彼女は二日目までの感想を伝えた。本当に楽しいことばっかりだ。一日目の海では彼は少し意地悪だったけれど、楽しかったことには違いなくて。正直なの気持ちが伝わったのか、彼は良かったと呟いた。
アルコール度数がそれなりに高いのか一杯カクテルを飲んだだけなのに既に頭がふわふわしてきたは安室におかわりが飲みたいですと強請る。彼はそれに「あと一杯だけだよ」と言って新たに注文してくれた。ええ、あと一杯?少ない。そう思ったけれど、バーに来る前に彼と約束をした為、少し物足りなさを感じるけれどそれに従った。
クリームエリカを食べながら彼の話を聞く。と安室が離れ離れになっていた二か月の間の話になると、彼は彼女にどんな風に過ごしていたのかと訊ねた。
「普段は隊の雑用をやったり、ナースの子たちと一緒にお茶したりしてました」
話している途中でバーテンダーから差し出されたのは吉祥天女というカクテル。梅酒と桃の味がするらしい。それを少し飲んでみれば美味しくて、ふにゃりと微笑んだ。
いつの間にか安室の肩との肩はくっついていて、それに驚いて顔を赤くするけれどアルコールの力があるおかげで今なら許して貰えるかも、なんてぴとりと頬を彼の肩に寄せてみる。何か言われるかな、なんてドキドキしたけれど彼は微笑するだけ。かと思いきや、肩に手を回される。先程より密着する身体にアルコールだけではない熱が彼女の頬に急激に集まった。う、うそ。彼の行為に話す声が震える。もしかしたら彼はそれに気付いていたかもしれない。少しずつカクテルを飲みながら船の上での生活を話せば彼もがいない間の話をしてくれて、会えなかった日々を埋めていくような気がした。

 バーから出て部屋に戻ってきたは寝る準備を終わらせて安室よりも先に寝室に入った。カクテル二杯を飲んだけれど意外に意識はしっかりしているせいで、眠気があっても何だか鼓動が速くて。もしも素面だったら、これ以上にドキドキしていたのかも。なんて考えに至れば、もしかしたら彼はが余分に神経を尖らせないためにバーに連れて行ってくれたのかもしれないと気付いた。
もそりとベッドに横になれば、そう時間が経たないうちに安室が寝室にやって来てサイドテーブルランプの光をギリギリまで絞る。
、明日は目の前の海より綺麗な所に行くよ」
「楽しみにしてますね」
彼の方を向いて寝れる筈もなく、彼に背を向けていれば背中から優しい声が聞こえて、少し振り返った。垣間見た彼は彼女の方を向いている。それに心臓を跳ねさせぱっと彼に背中を向ければ、彼はふっと笑って今度こそ電気を消した。
「おやすみ…」
「…おやすみなさい」
暗闇の中で聞こえる彼の声に胸を震わせながらも応える。
――すぐ隣で安室さんのおやすみが聞けて眠れるなんて幸せだなぁ…。
緊張して眠れないんじゃないか、なんて思ったけれどアルコールが良い感じに作用してくれたようで、そう時間が経たないうちにの意識は暗闇の中に沈んでいった。出来たら、明日ずっと聞きたかったことを訊いてみよう。眠りの世界に落ちる前に、そう心に決めた。


79:いいよもうぜんぶあげるよ
2015/09/23
タイトル:モス

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