どこか、海の綺麗な所に旅行しようか。そう安室が言った言葉にが頷いたのは一週間前の夕食の最中だった。
「急に旅行なんて、どうしたんですか?」
「ずっと一緒にいたけど、どこにも旅行したことがなかっただろ?」
旅行、という初めてのイベントに内心とてもどきどきしていた彼女だったが、彼の内心が分からず首を傾げる。なんで?どうして?そう、期待する心臓が徐々に脈拍を速めて。安室を窺う彼女に、彼はふっと笑った。
と二人きりになれる場所に行きたかっただけだよ」
「えっ」
穏やかな笑みを浮かべた彼の言葉に、彼女の単純な心臓はどくりと歪に跳ねる。え、うそ。思わず出てしまった言葉に、嘘だと思う?なんて紅茶を一口飲んだ彼が、嫋やかに笑った。それに彼女は悟る。ただ、彼がからかっただけなのだ、と。ずるい、私の気持ちを知ってるくせにそんなことして。どきどきしてしまった私が馬鹿みたいじゃないか。むすっとして安室を見やれば、それでも彼は「ばかだなぁ」と変わらずに笑みを浮かべていた。彼の言葉とは裏腹の、幼い子どもを見守るような瞳にぎゅっと胸を締め付けられたのは、きっと仕方のないことだ。
 四泊五日の旅ということでそれなりに用意をしなくては、と思ったはもう秋も中盤だし温かい恰好にした方が良いだろうか、と長袖を中心に洋服を詰めていたのだがどうやら旅行先はそれなりに日中は暖かい所であるらしい。
暑くても大丈夫なようにしておいて、と言う彼にどこに行くんですか?と訊ねても、「秘密」としか帰って来なくては彼の穏やかな笑みにきっと良い所なんだろうなぁと想像することにした。

 そして旅行当日。スーツケースに手持ちバッグという恰好で家を出たは彼について歩く。
「車は使わないんですか?」
「今回はね。面白いものに乗せてあげるよ」
駐車場ではなく駅の方向へスーツケースを転がし歩く彼の様子は楽しそうだ。面白いものってなんだろう。そう思ったは電車に暫くの間乗って着いた場所に目を丸くした。
やって来たのは空港だった。テレビでたまに見る飛行機というとても大きな移動手段を使える場所。一面ガラス張りの窓からは離陸直前の飛行機や整備されているそれらが見える。
「ひ、飛行機に乗るんですか!?」
「そうだよ。初めてだろ?」
飛行機=鉄の塊=墜落するなんていう図式を頭の中で組み立ててしまったはこれから飛行機に乗ることが酷く恐ろしいことであるかのように思われた。飛行機が安全に飛ぶという原理はなんとなく理解しているのだが、それでもやはり自分の世界には空を飛ぶ乗り物なんて無かった為、緊張からどくどくと心臓が喚きだす。
「初めは緊張するかもしれないけれど、安心して。堕ちたりなんてしないから」
「え、えぇぇ……」
不安を表し足を止めるの手を取って歩き出す彼の微笑みが悪魔のようにみえたのは勘違いだろう。彼に手を繋がれているというのに未来への恐怖からドキドキするどころではない。違う意味ではドキドキしているけれど。
スーツケースを受け付けで預け、搭乗口に向かう彼。乗り方も何も知らないは彼に手を引かれるままに進んで行く。
チケットを見せ機内に乗り込む所ではもう逃げられないのかと眉を下げる。飛行機に乗らないといけない場所なんて、いったいどこなんだろう。駆け足の心臓に落ち着けと指令を送ってもそう簡単に落ち着く筈も無く。たちが座る席を見つけた彼に窓側の席を譲られる。
「空とか海が綺麗だから」
「下が見えるなんて怖いですって」
首を振って飛行機に乗り慣れていそうな彼に楽しんでもらったほうが良いと思っただったが、彼は大丈夫だからとを窓際の席に追いやって座らせる。いざとなったら外は見ないようにしようと心に決めたはそれに従った。
離陸するまで暫く時間がかかるようだったけれど、その時間はにとってはとてつもなく苦痛であった。プレッシャーから胃に痛みを感じ始めた彼女に口を開けてごらんと彼が笑う。
「あ、」
「飴だよ。少しは落ち着いただろ?」
ころん、と口の中に入ってきたのは苺味の飴玉。口の中に広がる甘みに一瞬気を取られて、緊張が薄まる。だがとうとう離陸するのか動き出した飛行機に内心悲鳴を上げた。最高潮にまで跳ね上がった緊張にじわりと涙が滲むけれど、彼が震えるの手をぎゅっと握りしめてくれて。
「大丈夫。鳥になったと思えば良い」
至って穏やかな彼の微笑みにはどうしてそんなに余裕でいられるんだとついには腹が立ち始めた。は返事することすら出来ないのに。だけど身体に圧力がかかって機体が揺れればそんな思いも吹っ飛んで彼の腕ににしがみ付くことしか出来なくて。ぎゅっと目を瞑ってそれに耐えていれば想像していたよりも衝撃はなかった。寧ろ一度機体が安定してしまえば、揺れなんてほとんど無くてきょとんとする。
「ね?大丈夫だって言っただろ」
「は、はい」
自分が安室にしがみ付いていたことに驚いて慌てて身体を離せば、彼はくすりと笑う。だが、まだ手を離すことは出来そうになかった。手を離した瞬間、床が抜け落ちてしまうかのような不安が下腹部にあるから。それを彼も分かっているのか、の手を変わらず握っていてくれる。
穏やかな時が流れていく中でも、は少し緊張した様子で彼と会話を続けた。旅行先は料理が美味しいから一杯食べれるね、とか秋だからきっともうそんなに海に来る観光客はいないんじゃないかなとか。
「外、見てごらん」
「わ、綺麗……」
ゆったりした会話を続けて数時間。彼の言葉に恐る恐る窓から外を見てみれば、広がる雲海と遥か下にあるエメラルドグリーンとコバルトブルーがグラデーションになった美しい海が視界に入る。透きとおった水に、目を煌めかせればずっと緊張していた気持ちが和らいで。
「日本一綺麗な海がある沖縄だよ」
「安室さん、ありがとうございます…」
自然に笑みが溢れれば、彼女の手を握る彼の手の力が少し強くなった。


 飛行機から降りれば離されると思っていた安室の手は、空港を歩く間も離れることがなかった。ちらちら、と彼を見上げてこのままで良いのかと期待半分不安半分の状態で視線で問うけど、彼はそれに意味深に笑うだけで。旅行だから特別に手を繋いでくれているのだろうか。それとも、がどこかに迷子にならないように手綱を引いているつもりなのだろうか。
不思議に思いながらも、彼と手を繋げるという事実はとても嬉しいのでスーツケースを受け取る場所に向かうまでの間、はこの束の間の甘い時間に胸を高鳴らせておくことにした。
「あ、暖かい!」
「東京と違って暖かくて良かったね」
スーツケースを押しながら空港を出れば、扉を抜けた瞬間ふわりと温厚な空気に包まれる。これだと半袖でも大丈夫かもしれない、なんて思って安室を見上げれば、彼もまたこの気候に満足しているようだった。タクシーに荷物を乗せ、乗り込んでホテルの名前を言う安室。は今回彼に全てを任せているので、そのホテルの名前を聞いてもピンとしなかった。
沖縄の言葉で話す運転手と安室が観光について話しているのを聞きながら、時々その言葉の意味を教えてくれる安室には相変わらず博識だと驚く。服部と会った時にも驚いたが、日本には数々の方言があると言うのだから凄い。の世界は身分によって少し使う言葉が違っても大体一つにまとめられているから。
「着いたよ」
「わぁ……すごい…」
タクシーから降りたその目の前には広々とした正面玄関を中心にそびえ立つ白いホテル。行くよ、とホテルの外装に見とれるに声をかけてホテルに歩く彼を追ってホテルに入る。フロントで予約の確認をして部屋の鍵を受け取っている彼をふんわりしたお洒落なソファに座って待つ。チェックインはそう時間が経たないうちにできたらしく、こちらを振り向いた彼には立ち上がって寄った。どうやら荷物は従業員が持って行ってくれるらしい。
足の下でふかふかと主張する絨毯や内装に使われている高価そうな調度品に、格式高いホテルでありそうだと踏んだは高かったんじゃないかなと不安になる。どれくらいしたんだろう、とは思ってもそんなことを訊ける筈もなく、ガラス張りのエレベーターから見えるホテルのプールやそこから少し離れた所にある澄んだ海に目を向けた。
「こちらでございます」
「はい、入って」
「お邪魔しまー…す」
最上階の一室の扉を開けた従業員。先に入ることを促されて中に足を踏み入れたは部屋の広さや窓から見える景色よりも何よりも先に、開け放たれた寝室の扉から見える、二つ並んだベッドに目が釘付けになった。途端に五月蠅くなりだした心臓に、慌てて振り返るけれど扉を閉めた安室は従業員から受け取ったスーツケースを邪魔にならないように並べていて。
――な、なんで寝室が一緒なの。
安室はが彼のことを好きだと知っているのに、どうして同じ寝室なのだろう。かっと熱くなった頬を急いで冷まそうとするけれど、中々そう簡単にはいかなくて。
深い意味なんてない筈だ。だって、彼はのことをそういう目で見ていないんだから。寝室から無理やり意識を逸らして外を眺めた。最上階だからか、地平線が良く見えて。凄く素敵な部屋だった。
「あ、の、安室さん、素敵な部屋取ってくれてありがとうございます」
「ああ。気に入ってくれて良かった。準備したら外に行こうか」
寝室のことは考えないようにしながらもどうしても意識はそちらに向いてしまうのを隠しながら、彼女は彼に感謝の気持ちを伝えた。どうして今回彼が突然旅行に行くことになったのか分からないけれど、それにを連れて行ってくれる優しさがとても嬉しかったから。そうすれば彼はにっこり微笑んで頷く。きっと、費用の高さを心配するよりこうして素直な気持ちを伝えることが正解だったのだろう。


 昼食を食べてから、すぐ目の前のビーチで海水浴しようかと言う安室に頷いたのは良いのだが、は初めて彼と海水浴に行った時とは違い、彼の前で肌を晒すのも服の上からではあまり分からない彼の引き締まった体を見るのも恥ずかしかった。
――何であの時ビキニ買っちゃったんだろう。
そう過去の自分に問いかけてみても、あの店にビキニしか売っていなかったからだと過去の自分に言い返されてしまって、彼女は仕方なしに洗面所の扉を閉めてそこで着替えた。紫外線をカットするパーカーを上から羽織ってジッパーを一番上まで挙げる。これで胸は見えなくなったけど、短いパーカーでは脚は隠れない。
あくせくとどうにか脚も隠そうとパーカーを引っ張ってみるけれど伸びる筈もなく、外から既に着替えた安室が「、着替えた?」と扉をノックしてくるから、は諦めて外に出た。
「じゃあ、行こうか」
「は、はい」
簡単に必要な荷物だけをまとめて待っていた彼は、と同じく紫外線をカットするパーカーを羽織っているといっても前は全開で、思わず目を逸らす。目に毒だ。そう思って彼に教わった沖縄の紫外線の高さを口にすれば、彼は胸元まで肌を隠してくれたのでほっと一息吐いた。
 やって来たビーチの白浜と宝石のように煌めく海に、はわあっと歓声を上げた。だけど以前のように海に走り寄るのではなく安室の隣を歩く。彼を一人にしたら、どこかの綺麗な女性に声をかけられるかもしれないから。
そこまで強くなく暖かい日差しに心まで温かくなる。ホテルで借りたパラソルを浜辺に差してチェアの上に荷物を置いた。早速浮き輪を膨らまそうと荷物に手を突っ込んだはそこに浮き輪が一つしかないことに首を傾げる。以前彼と海に行った時は彼も浮き輪を使って浮いていたのに、今回は使わないで泳ぎまくるのだろうか。
不思議に思いながらも浮き輪を膨らませていたは海に入ってからその理由を知った。
「あ、安室さん…!おりてくださいっ」
「浮き輪忘れたんだ。一緒に使わせてくれても良いだろ?」
最初は浮き輪に乗せたを運んで沖に向かっていた安室だったが、それなりに水位が深くなった所で外側から上半身だけ乗せてきて。浮き輪は2人が乗っても沈まないような大きさだけど、浮き輪の上で寝ている体勢のは近すぎる距離に思わず端っこへと寄った。
――絶対うそ!
浮き輪を忘れたなんて言う彼の顔は楽しそうに笑っている。きっとをからかっているのだ。安室さんなら大丈夫です!なんて根拠の無い言葉と力の入らない手で彼の身体を押してみるけれど、逆に彼は「良いの?」なんてすぐ近くで囁いた。やだ、ほんとに近いんだからそういうのやめて。
「今僕が浮き輪から手を放したらバランスが崩れては海の中に落ちるけど」
「あっ、やめて安室さん下りないでくださいっ」
そう意地悪気に笑って身体を離そうとする彼に手を伸ばしてパーカーを掴む。あと一秒でも懇願するのが遅かったら彼は迷わず身体を離していただろう。意地悪。そう彼を睨んだけれど、彼は楽しそうに笑うだけ。
「そんなに端に寄ってると落ちるからこっちにおいで」
「ち、近いので良いです」
彼の誘いを断って彼とは反対側に顔を向けるけれど、そんなに彼は「だめ」なんて言って勝手に腰を掴んで彼の側に引き寄せる。それに吃驚して首だけで彼を振り返れば予想外に近い場所――そう、まるでキス出来そうな位置に彼の顔があって、心臓がばっくんと跳ねた。う、わ。彼の澄んだ瞳には愉悦や多分な甘さが含まれていて。羞恥心や緊張からじわりと滲んだ涙目や、日差しからだけではない頬の赤らみを見られたくなくてぷいと顔を逸らす。
――もう、やだ。
隣から感じる彼の視線に彼女はばくばくと心臓を五月蠅くさせる。きっと彼はの心臓を酷使させて早死にさせようとしているのだ、なんてそんな馬鹿な考えまで浮かんで。
、こっち向いて」
ねえ、なんて声をかけてくる彼はくつくつと笑っていた。彼は分かっている。が彼の方向を向けない理由も、耳まで真っ赤になっているということも。おーい、。彼女の耳元で呼ぶ彼の声の、くすぐったくなるくらい優しい響きには頬が林檎のように熟れた状態でぎゅっと目を瞑った。


78:どこまでいこうかふたりぼっちで
2015/09/23
タイトル:モス

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