砕け散ったペンダントを見てどうしてと驚くに、きっと役目を終えたんだよと穏やかに笑う安室。それに納得したは、やはりあれは夢ではなく現実だったのだと確信した。彼もどうやらそう思っているらしい。安室をの世界に呼び寄せてくれたペンダントに感謝して、はその砕け散った破片を集めて小さな箱にしまった。今度、代わりの物をあげるから、と彼が微笑んでくれたのは丁度1週間前のこと。
溜まりに溜まったスマートフォンの通知への対応をするのに丸一日かけたは漸くこの頃になって落ち着きを取り戻していた。どの人たちも突然と連絡が取れなくなってしまって心配してくれていたというのだから、本当にありがたい。
、ココア作ったけど飲む?」
「はい。ありがとうございます」
普段通りの日々だと思う。今まで安室の家で暮らしていたのと同じ。だけど、ソファに座って小説を読むの隣に腰掛けた彼にどきりと心臓が跳ねる。だって、以前と比べてどことなく距離が近付いたような気がして。少しでも動けば、肩がぶつかってしまうその距離に、自然とじわじわ頬に熱が集まる。ほら、と差し出されたマグカップを受け取り、彼にちらりと視線を向ける。ありがとう、と再度述べようとした唇はの瞳と彼の熱っぽい瞳がかち合ったことで、固まった。どくん、と心臓が飛び跳ね血液を送り出す。彼の視線に途端に心拍数が速くなっていって。
最近、安室の視線が優しさや甘さを含んでいるような気がして、は以前よりも彼と目を合わせられなくなってしまっていた。彼はのことを妹のようにしか見ていないのに、どうしてそんな目をするのだろうと思って。彼の目を見てしまえば、愚かにも期待してしまうことなんて分かりきっていた。彼に頑張って好きになってもらおうとしていたけれど2ヶ月も離れてしまっていたし、そんな急に彼がのことを好きになる筈がないと理性は伝えてくる。だけど本能は彼はのことを好きなのだ、と唆してくるからはその両方に板挟みになって二律背反に苦しんだ。
――期待させるなんてずるい。
「は……っ」
「ぁ、あむろさん…っ?」
くたり、と突然の肩に頭を凭れさせる彼に、上ずった声を上げてしまった。熱っぽい吐息がの首元にかかってぞくりと背筋に何かが走る。びくりと跳ねた肩からずり落ちそうになった彼の頭。慌てて彼の肩を掴んで彼の顔を覗き込んでみれば、彼の綺麗な眉は寄せられ褐色の肌でも分かる程顔を赤くさせていた。
「あ、安室さん?大丈夫ですか?」
「……熱があるかもしれない」
先程とは違った意味で焦って彼を見やれば、どことなく焦点の合わない瞳がを見つめる。失礼します、と言って彼の額に手を当ててみれば、確かにそこはの額よりも熱い。彼の言う通り熱を出しているようだった。
慌てて体温計を戸棚から探し始めたに、安室がソファに座りながらもそこの右と指示を出す。彼の言う通り体温計を発見したはそれを安室に差し出した。
熱を測っている彼の横に座ったは、だから先程彼の視線があんなに熱っぽかったのだと気が付いた。体調が悪くてああなっていたのだろう。
ピピピピッ、と計測音が出て彼が体温を確認してみれば、38.5度だった。立派な病人だ。
「安室さん、今日午後からポアロでバイトでしたよね。勿論休みますよね?」
「いや、熱だけだし出ても大丈夫だろ」
今日の予定を確認するように彼の顔を見やるけれど、彼はあたかも平気であるかのように笑った。それに呆れる。自分でも体調不良が分かっているのに、どうしてそんな状態で働こうとするのか。
「だ、駄目です!今日は私が看病しますから、ちゃんと休んでくださいっ」
「…分かった」
バイトの手が足りないとか、シフトの関係があるんだろうけど、やっぱり彼には自分の身体を一番に大切にしてほしい。だからは彼のことをキッと睨み付けて約束させた。いつもと何だか立場が逆転したようにも思えるけれど、それ程彼が弱っているという証拠。
それならさっさと寝させないと余計体調が悪くなるかもしれないと思ったは彼に立てますか?と問いかけた。立てない、と言われても困ってしまうが彼は普段と比べて具合が悪そうだから。
「思っていたよりもきついみたいだ。手を引いてくれるか?」
「えっ、は、はい…」
ぐったりとした様子で立っているに手を伸ばした彼の手を恐る恐る掴む。彼の熱い手を握ると同時にどくどくと心臓が荒々しく騒いだ。ぐいと彼の手を引いて立ち上がらせれば、思ったより近くに彼の身体があって。う、わ。は目を見開いた。
「ありがとう」
彼の熱い吐息と共に紡がれた言葉に彼女は蚊の鳴くような声でどういたしましてと呟いた。相手はただの病人で、これっぽっちも他意なんてないのに、勝手にドキドキしてしまっている自分が馬鹿らしく思える。そっと彼の
手を引いて彼の自室に導いてベッドに寝かせる。彼がいる時に彼の自室に入ったのは初めてで心臓を五月蠅くさせても仕方ない状況だと思うが、それでもは平静を装って彼の身体の上にちゃんと布団をかけた。
「何か食べたいものありますか?作れるものなら作りますけど」
「…じゃあ、卵粥が食べたいな」
いつもはがリクエストする立場だけど今日は逆。病人である彼のために少しでも身体に良いものを食べさせたいと思ったは今までに一度も作ったことがない卵粥というものをリクエストされて困惑した。卵粥とは何だろうか。でも、彼が頼んだものを何とか食べさせてあげたいと思ったははい!と頷いて彼の部屋を出た。
インターネットが使えればこういう時すぐに調べられるんだろうなぁ、と思ったが無い物ねだりをしてもしょうがないので、は料理上手で頼りになる蘭に連絡を取ることにした。きっと、彼女なら卵粥の造り方を教えてくれるだろう、と。


 蘭から丁寧に卵粥のレシピを教えて貰ったは「早く安室さんが元気になりますように」と願いを込めて卵粥を作り上げた。勿論、その中には愛情もたっぷり入っている。蘭曰く、相手を思いやる気持ちが料理を美味しくさせるものでもあり、病人の一番の薬でもあるらしい。
こんこん、と彼の部屋をノックして安室さん?と声をかける。どうぞ、と普段より小さな声で返ってきた彼の声にそっと扉を開けて中に入る。
「体調はどうですか?」
「あまり変わってないよ。大丈夫、寝てれば治るよ」
がお粥を作っている間大人しく寝ていたらしい彼は少しぼんやりした様子でを見上げる。どうやら風邪薬は飲みたくないらしい。お粥と水と風邪薬を乗せたお盆を机の上に置いて椅子をベッドの脇に持って来てそこに座った。
「汗かきましたよね?着替えとか、出しましょうか?」
「そうだね、後でお願いするよ」
まずは正午を過ぎているので彼に食事をさせることにした。気だるげに上半身だけ起こす彼を補助し、は彼にどうぞとお盆からお粥の器を渡す。それにきょとんとする彼。お粥を食べられるようにレンゲはあるし、蘭に言われた通りに作った為卵粥も別段おかしくない筈。何だろうか、ともきょとんとして彼を見やれば「食べさせてくれないの?」なんて彼が訊ねる。そんな不意打ちすぎる言葉にはひゅっと息を飲んだ。
「普通、看病してくれる人は病人に食べさせてくれる筈なんだけど…」
「そ、そうなんですか?私、今まで看病とかしたことなくて…知らなくてすみません…」
安室の常識を教えてくれる彼に自分の無知を暴露してしまった。もともとは風邪をひくなんてことは滅多にないし、看病されたことがあったとしてもたった数回のことだし、普段病人を相手にするのはナースたちだ。それ故、彼の言葉は初めて知る事実で。ドキドキしながら彼が渡す器を受け取り膝の上に置いてあるお盆の上に乗せる。
――ほ、本当に私がやらないといけないの。
じっと見てくる彼の視線に耐えきれず器へと視線を落とし、レンゲで一口お粥を掬ってふーふーと息を吹きかける。彼から目を離したことで、は彼が意地悪気に目を細めているのに気が付かなかった。それも一瞬のことで、がそっと窺うように彼を見上げる時には元の彼に戻ってしまっていたけれど。熱くないかな、と思いながらもどうぞと震える手で彼の口元に運べば、彼はぱくりとそれを口にした。
「あ、熱くないですか?」
「丁度良いよ。美味しい」
「そう、ですか」
何これ、すごい恥ずかしい。耳元で動悸が五月蠅く響くのに合わせて頬に熱が溜まっていくのが分かる。しかし、どんなに恥ずかしくてもまだお粥はたっぷり残っている。何度もお粥を冷まして彼に食べさせるという行為を続け、漸く器が空になった頃にはの頬は熟れた林檎のように赤く染まっていた。
お盆を持って一度キッチンに行き、濡らしたタオルをレンジで温める。汗をかいたまま新しい服に着替えても気持ち悪いだろうと思って。ほかほか湯気を立てているそれを適温に冷やしながら、は彼の部屋に戻って彼のクローゼットから新しい寝着を取り出す。
「あ、安室さんっ?」
「身体拭かなきゃ気持ち悪いだろ?」
しかし振り返った先には上半身だけ脱いでタオルで身体を拭いている安室の姿が目に飛びこんできて。分かっている。彼がそういうことを考えずに肌を見せていることくらい。だけどは海水浴に行った時とは違い彼のことが好きだし、そんな好きな人の身体をいきなり見て動揺しないほど慣れているわけでもなかった。さっと彼の身体から視線を外し新しい服を渡すけれど、動揺するを見透かしているのかいないのか、彼は背中だけ拭いてくれないか?と訊いてくるのでは赤くなった顔で頷いた。
きっと背中まで拭ける程体調は良くないのだろう。彼の引き締まった体や褐色の肌が放つ色香から必死に目を逸らしては彼の背中をそっと拭いた。心臓が信じられない程五月蠅かった。
その後も、彼が着替える間は後ろを向いてどうにか平常心を保とうとしたは、彼がベッドに横になったのを確認して椅子に座って彼を見下ろす。ご飯も食べたし、熱も計った。着替えもしたからすっきりしただろうし、後は何をすればいいのだろう。すぐ側にあるスポーツドリンクや風邪薬に視線を寄越し、次いでは彼を見た。
「何かしてほしいことないですか?」
「そこにいてくれれば良い」
自分ではもう思いつかなくて彼に訊ねてみれば、彼はちらとを見上げて目を閉じる。傍にいてくれ。まるでそう言われたような錯覚を起こしたはきゅっと心臓を掴まれながらもはいと頷いた。以前が熱を出して寝込んだ時に彼に傍にいてほしいと思ったように、彼も少しはそう思ってくれているのだろうか。
窓から差し込む穏やかな日の光を感じながら、は椅子に座って彼の寝顔を眺めていた。


 いつの間にか眠っていたらしい。今朝よりもすっきりした頭で目を開けば、少し苦しそうな体制でベッドの淵に腕枕をして寝ているの寝顔を発見した。健気に安室のことを看病してくれた彼女にありがとうと小さく呟く。
今回、がいなくなってしまった間彼は働きっぱなしで気を張っていたのだが、彼女が帰って来たことで気が緩んだのだろう。一気に押し寄せた疲れが熱となって表れてしまったに違いない。そう判断した彼は熱以外に体調不良がないことから薬を飲まなかった。
熱を持った手でそっと彼女の頬を撫でる。そこから手を放せずに、長く伸びた睫毛の淵に人差し指で触れた。
――愛しい、と思う。
この気持ちを彼女に伝えることにしたけれど、今はまだ駄目だ。こんな情けない状態ではもとより、今までいっぱい傷付けて泣かせてきたのを払拭出来る程のものにしたいから。
彼女の桃緋色の唇を親指でなぞりながら、暫く安室は彼女の寝顔をじっと眺めていた。


77:ほんとはいつも好きだよを繰り返してるあたまのなかで
2015/09/23
タイトル:モス

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