支えた筈の安室の身体が目の前からすうっと消えてなくなってしまったのに、は目を瞬かせた。夢だったのか、現実だったのか分からない。だけどどちらでも良かった。彼がの為に世界を越えてここまで来てくれたのだから。
――もしかしたら、このペンダントが導いてくれたのかな。
そっと、苦しそうに震えるハートのペンダントに触れる。最初に安室の名を呼んだ時と比べて大いに輝いているそれが、と安室を結んでくれたものだとしたら、感謝してもしきれない。
扉の外を見て1番隊の男たちが昏倒している様子を発見して眉を寄せる。自分が彼らを傷付けたわけではないけれど、自分の為に彼らが傷付いたのかと思うととても申し訳なくなった。
「皆、ごめんなさい…」
そっと彼らに呟いて甲板へと向かう廊下を走り出した。どことなく慌ただしい声がの部屋に向かってきているような気がしたから。
安室は水ならどこでも良いと言っていた。新月と能力者、そして水という存在を組み合わせた時、は世界を飛び越えることが出来る。だけど今まで世界を飛び越えた時はどれも風呂場であった。それ故、風呂場以外での水に飛びこむというのは少し怖い。もし、安室の世界にいけないまま本当に溺れてしまったら。能力者はカナヅチだから誰かに助けてもらえないとは死んでしまうだろう。
――どうしよう。どうしたら良いんだろう。
階段を駆け上がって、甲板へ繋がる廊下に出る。昨日ぶりに見た空は、紅葉や桃がマーブルに混ざったような色で徐々に夕闇の紺に身を委ねつつあった。
「安室さん……」
世界が違っても、空は同じ。きっと、彼もまたこれと同じような空をどこかで見ている。だから、はそこに帰りたかった。彼の隣で同じ空を見上げたかった。
「よぉ、。どうした?こんなとこで突っ立ってよ」
「エース!あのね、私、また船を出たいの」
夕方の空の美しさに目を奪われていたの背後から声をかけてきたのはエース。にかっと太陽のような笑顔で笑っての肩に手を置いた彼は良く外に出られたなぁなんて笑っている。本当にそうだと思った。エースや他の者たちはが新月の日だけ部屋に閉じ込められるのをどことなく気付いている様子でありながらも助けようとはしてくれなかった。1番隊の問題だから手を出すなと言われていたのかもしれないし、例え彼らに言っても言うことを聞いてくれないと思っていたのかもしれない。
「良いんじゃねェか?アイツらもいい加減子離れする時だってことだしなァ」
「本当?じゃあ、皆によろしくって伝えてくれる?」
「ああ」
がこの船を出て安室の所に行くと分かっていても、彼は当たり前のようにそれに頷いてくれた。それに表情が綻ぶ。だって、今までの周りを固めていた1番隊の男たちはが帰りたいと言う度にその思いを否定してきたから。きっとこれが普通なのだ。ほっと安心して女風呂に向おうとするだったが、待て待てと彼に腕を掴まれて止まる。
「女風呂は1番隊の奴らが見張ってるぞ」
「えっうそ!」
エースの言葉に驚くだったが、更に彼女を驚かせることが一つ。ドタドタと女風呂がある方向から1番隊の男達が数名慌ただしく走ってきているのだ。きっと彼らの目的はを捕まえることだろう。ここで捕まったらせっかく安室が助け出してくれたのに、意味がなくなってしまう。
どうしよう、と思ったけれどは咄嗟に甲板に向かうことに決めた。が今から行うことが、もし失敗した時の為にちゃんとした別れをしておきたいと思って。
「エース隊長ォォ!を捕まえてくだせー!!」
、行けよ。ここは俺が足止めしといてやるから」
「エース…!ありがとう…!!」
走り出したに「待て!」と声を荒げる1番隊の男たち。それを見たエースがを振り返って任せろと手を振ってくれるから、は声一杯に叫んだ。お礼は今度帰って来た時にメシ奢ってくれれば良いから、とちゃっかり約束を取り付けた彼に嬉しくなって笑う。どうやら、彼の中ではが安室の世界に行ってしまっても、たまに帰省するということになっているらしい。当たり前のようにの存在を認めてくれた彼に感謝しながらも、甲板を目指す。後ろから男たちの「ギャアアァ!!船の上で火拳はやめてくださいよォ!」と恐れおののく叫び声が鼓膜を揺らした。
だがそこに、今度は甲板の方からドタドタと1番隊の男たちがを捕まえようとやって来た。それにどうしようと足踏みをする。しかし、それを塞ぐように巨体がしゃがんで彼らを遮る。3番隊隊長のジョズだ。
「ジョ、ジョズ隊長!!すみません、退いてください!!」
「お前たち、悪いな。今丁度靴の紐が解けたんだ。少し待ってくれ」
の何倍もある身体の大きさで彼らがこちらに来られないようにする彼。ちらりと彼女を見た彼はふっと笑った。それにはぐっと胸を締め付けられた。
「何やってんだ、お前ら?」
じゃないか。いったいどうした?」
「ん?イゾウとビスタか。ちょうど良かった」
ジョズの巨体を前に佇むしかない男たちを挟み撃ちするように現れたイゾウと、の背後からやって来た5番隊隊長のビスタ。丁度良い、という言葉にえ?と思っただったが、歯を食いしばっているんだぞとニヤリと笑ったビスタからぐいと身体を担ぎ上げられ甲板の方角に向かってぽーんと勢いよく投げられた。
「わっあああ!?」
「いってぇ!!」
「ハ、ハルタ隊長!ごめんなさい!」
彼女が投げられる直前に見た三人は「頑張れよ」と言うように笑っていて、次いで憤慨した1番隊の男たちをどうどうと宥めていた。だが普段戦闘しないが上手く着地出来る筈も無く。オーライ、オーライと飛んできたを受け止め床に転がったのは12番隊隊長のハルタだ。だが彼は「俺のことは良いからさっさと行けって!」と笑いながら背中を叩いてくる。それに礼を言っては甲板に駆けた。
その後も1番隊の男たちがどうにかしてを部屋に連れ戻そうとして追いかけてくるのを、尽く他の隊長たちが妨害してくれた。それに、は胸が苦しくなって涙を流した。
隊を代表する隊長たちがを助けてくれたことによって、彼らの隊そのものがの一人立ちを応援してくれているようで。ありがとうございます、と言う唇がその度に情けなく震えた。ぐし、と涙を拭ってもつれそうになった足でどうにか甲板に辿り着く。
ここまでで出会っていないのはマルコとサッチ。きっと今頃1番隊の男たちの報せを聞いている頃かも知れない。直接彼らに挨拶が出来ないのは悲しかったけれど、見つかってしまえば確実に捕まるだろう。だから、ごめんなさい。
「オヤジ!」
「どうした、
船首でどんと構えている白ひげには駆け寄った。幸いにも、甲板には1番隊の男はいないらしい。思い思いに過ごしていた他の隊の者たちも、が慌てたように白ひげに寄るのをそっと見守っていた。
「オヤジ…、私、安室さんの所に行ってくる」
「そうかァ…あのハナッタレ共を制御出来なくて悪かったな」
乱れた息を整えつつ、彼を見上げる。この船の父親であり船長である彼にきちんと別れを述べたくて。きっと、無事だと信じたい。だけど、万が一ということもあるから。もう二度と彼らに会えなくなっても、ここで別れをきちんとしておけば、後悔はしない筈。あいつらのことなら任せておけ、と小さく笑った彼には泣き笑いをした。
「皆、ありがとうございました…。行ってきます!!」
がそれこそ10にも満たない年の頃から船に乗せて面倒を見てきてくれた彼ら。大切な家族をぐるりと見渡せば、彼らは大人になったなァと大口を開けて笑っていた。
手摺によじ登って眼下に広がる海を見下ろした所で、各隊長たちに捕まっていた1番隊の男たちと共にマルコとサッチが走ってやって来た。
「マルコ隊長!の奴がァ!!」
「海はやめろ!!死んじまうぞ!!」
十何メートルも下にある海。今は見えなくても、その下にはのことを一口で飲み込んでしまう巨大な魚や凶暴な海王類が鋭い歯を光らせて待ち構えているかもしれない。それに心臓を五月蠅くさせる。
――きっと永遠の別れになんかはならない。だけどこんなにものことを引き留めようとする彼らには苦笑した。
「マルコ!!」
「皆!!いってきます!!」
、馬鹿!!待てよい!」
サッチがマルコに叫んだと同時に、は青く透きとおる海に身を投げ出した。ぎゅっとハートのペンダントを握りしめて。が海に落ちる間際にマルコが不死鳥の姿になってを掴もうと鉤爪を伸ばしたけれど、一寸の差での方が先に海の中に逃げ込めた。バシャアン、と身体に衝撃が襲い掛かる。
皆が善意からここに留めさせようとしているのは分かっている。けれど、はやはり安室と一緒にいたかった。どんなに傷ついても、彼と共に居たいとこの2ヶ月で分かった。だから、どうか許してください。ちゃんと、安室の世界に帰ることができたら、時々帰省するから。
ぶくぶく、と銀色の泡に身体が包み込まれては恐ろしくなった。息も出来ない、自由に泳ぐことも出来ない。
――海王類に食べられるかも。海に沈むだけかも。
恐ろしさからぎゅっと目を瞑るけれど、首元で光る「零」と書かれたペンダントを握りしめて海に沈んでいく。ぎちぎち、と今にも内部からの圧迫に破裂してしまいそうに暴れ回っているそれは、を優しい光で包み込んだ。
――安室さんを導いてくれたなら、どうか私も彼のもとに導いて。


冷たい水が温かい水に変わると同時に、何かにの腕は引っ張られ、お湯の外に顔を出した。…!!何度もの名を呼ぶ声に、彼女はぼんやりと瞳を開けた。そこは冷たい海ではなく、見慣れた安室のマンションの浴槽だった。帰ってきた。そう思って、安室を見上げれば彼はぐっと眉を寄せ、力が抜けたを浴槽から抱き起し、そのままかき抱いた。
「2ヶ月もどこに行ってたんだ…!」
「ぁ、安室さ…っ」
彼の意外としっかりしている胸板に顔を押し付けられる。彼に抱きしめられているという事実に途端に心臓が五月蠅く喚きだして耳元で響く。顔も熟れた林檎のように赤く染まって慌てて彼から離れようとするけれど、彼は放してくれなくて。濡れちゃいますよ、なんてどもりつつ彼に蚊の鳴くような声で訴えても、濡れて良いなんて彼が言うからは全身濡れた状態で彼に抱きしめられるしかなかった。ぎゅうっと抱きしめてくる彼の顔は、胸板に顔を押し付けられている為見ることが出来ない。だけど、徐に頭から手を放されたはそっと彼の顔を見上げた。
「本当には…。僕から離れるなって言っただろ…」
「ご、ごめんなさい…っ」
無事で良かった…そう呟いた彼の瞳は少し赤くなっている。それを見たの瞳からはぶわりと涙が溢れだした。
安室にとっては恋ではなかったけど、こんなにも彼がのことを求めてくれていたのかと思うと胸が締め付けられる。こんなにを心配して、苦しさを覚える程抱きしめてくる彼。ああ、ああ。何度もの頭を撫で抱きしめる腕に力を込める彼に、は嗚咽を押さえきれなかった。
――やっぱり、私はこの人が好きなんだ。
浴槽には粉々に砕けたハートのペンダントが星屑のように光を放ち散らばっていた。


76:ずっとただ、抱きしめてほしかっただけだ
2015/09/22

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