新月の日がやって来た。カチッ、カチッと秒針のみの音が静寂な部屋に響く中、ぱちり、とは目を覚ました。時刻は午前3時。きっと、皆この時間なら寝ている。音を立てないようにむくりと上半身を起こして机の上を見やる。そこには家族たちに宛てた手紙があった。直接挨拶をして帰ることは出来ないと考えたなりに、彼らに感謝の言葉を述べたかったから。そっと靴を履いて首元にペンダントがあることを確かめる。
隣近所の者たちが起きてしまわないように気配を殺し扉を開けた。
「――ッ!?」
、お前こんな夜中にどこ行こうとしてんだ?」
しかし、扉を開けた先には1番隊の男が2人立っていた。それに息を飲む。彼らもまたと同じように気配を殺していたのだろう、気付かなかったは大いに目を見開いて心臓を五月蠅くさせた。
「お前、まだあの男の所に帰りたいなんて思ってんのかよ」
もう一人の男がじろりとのことを睨む。幸せになれないって言っただろ、とを責めるその言葉。それには小さな声で「私だって大人です」と抗議した。自分の幸せは彼らに決められなくても自分で決められる。だが、彼らはそうは思っていないようだった。彼らを越えて外に行こうとするを阻み、手首を捕まえる。
「何で、分かってくれないんですか…!」
「お前の為なんだよ、
身動きが取れなくなる。また、彼のもとに帰れない。その悲しみから彼らのことを睨み上げるけれど、彼らは少し顔を顰めそのまま海楼石の腕輪をの手首にしっかり嵌めこんだ。途端、身体からは力が抜ける。
――1ヶ月前と同じだ…。
悲しくて、悔しくて、だけど家族に手を上げてまで逃げ出す勇気がない自分を呪った。どうして、思う通りに生きられないのだろう。
「まだ朝じゃないから、寝ておけ」
「おやすみ、
彼らがを呼ぶ声はこんなにも優しいのに、彼女のうなじに手刀を食らわされ意識を落す彼ら。意識を落す寸前に、誰にでもなく「うそつき」と彼女は小さく呟いた。その言葉は誰にも届いていない。


 カチッ、カチッ。微睡む意識の中で時計が進む音が聞こえる。ぼんやりと重い瞼を開けて、壁にかかる時計をのろのろと見上げる。時計が指し示す時間は17時だった。それにはっと意識が覚醒する。どうやら、相当長い間気を失っていたらしい。疲れが溜まっていたのもあるだろうが、こんな時間まで目を覚ますことが出来なかった自分に「馬鹿」と罵る。外に意識を向けてみれば、レースカーテンの先に2つの影が見えた。きっと、1番隊の男たちが外で見張っているのだろう。
――どうしよう。
このままでは今月も安室のもとに帰ることができない。もし、一生新月の度に彼らに阻まれて彼に会いに行くことすら出来なくなったら。ぽろぽろと涙が零れ落ちてペンダントに当たって飛び散る。
もう帰らない振りをして彼らを油断させ、その隙を突いて安室のもとに行くことは出来るかもしれない。だけど、それには相当時間がかかりそうだった。彼らはこのことに関してだけはのことを信用していなかったから、きっと新月の度に見張ろうとするだろう。
――安室さん。
唯一の彼との繋がりはこのペンダントだけ。

、僕を呼べ…。何かあったら、真っ先に僕の名を呼んで』

じっとペンダントを見つめていた所、ふと安室のあの時の言葉を思い出した。何かあったら、すぐに呼べと言った彼。安室さん。ぽつり、と彼の名を呟いてみるけれど、違う。そうではない。
「零さん…、零さん…っ!」
――助けて、零さん。
ペンダントにそっと語りかける。ぽろぽろと頬を伝った涙がそれに当たって弾ける。その瞬間、眩い光がペンダントから迸っては意識を失った。


 その日は、安室は先月と同じように早朝から風呂を沸かしての帰りを待っていた。もしかしたら帰ってくるかもしれないし、帰って来ないかもしれない。可能性を潰さない為にも、湯を張って万全の状態に整えていた彼は夕方になった頃、ソファに腰を下ろして彼女のスマートフォンを手にしていた。チカチカと光り、主人に通知してくるそれ。もう、どれくらい開いていないだろうか。
『――さん、零さん…、零さん……っ!』
不意に彼女の声がどこからともなく聞こえた気がした。それにばっと風呂場の方を見るけれど、直感的に違うと分かる。これは、頭に直接聞こえる声だった。泣いているのか上ずったその声に、胸を締め付けられる。
――何があった。
安室の本当の名を呼ぶ彼女に、今すぐにでも駆けていきたい衝動に襲われる。ぐっと拳を握りしめるも、彼女のもとに向う方法など見つからない。
――どうして、肝心な時に無力なんだ。悔しくて、噛み締めた唇から血が滲んだ。しかし、何故か急に眠気に襲われた彼。いったい、どういうことだ。彼は意識を保つ為に必死にぐっとそれに抗いながらも抗いきれず、彼女の名を最後に呼んだ。

急激な眠気を感じ意識を落した安室が目を開けた先は、木造の廊下だった。
――どこだ、ここは。
ギィ…ギィ…と不規則に軋み揺れる床、そして廊下に付けられた小窓から見える海面にここはどこかの船なのだと分かる。相当広そうなこの船の廊下には今の所人はいない。これは夢なのか現実なのか。違和感を覚える安室だったが、直前に聞こえたの声を探したかった。何故か分からないけれど、直感的に彼女がこの船の中にいるような気がして。
彼女の声が聞こえないかと長い廊下を歩き回る。もし、この船が彼女の言っていた白ひげ海賊団の船なら1600人以上船員がいる大所帯なのだから相当な大きさをした船なのだろう。だが、彼女を見つけたかった。
『零さん…、零さん……っ!』
あの時聞こえた、救いを求めるような、彼女のか細い涙声。思い出すだけで焦りが生まれる。何があった。また襲われたのか。それともどこかで死にそうになっているのか。いずれにせよ、彼女の身に危機が迫っているような気がして居ても立っても居られない。
ぐっと拳を握りしめて足早に歩く。チラチラと部屋の小窓に視線を寄こして彼女がいないか確認しているけれど、今の所それらしい人物はいなかった。しかし、そんなことを続けていた安室の前に2人の男が現れた。男たちはある部屋の前で立ってまるでその部屋の中にいる人物を監禁しているようだった。その上聞こえてくる彼らの会話。安室は歩くスピードを徐々に落としていく。
の奴にも困ったもんだな…俺たちと一緒にいた方が絶対に良いのに」
「本当だよな、あいつ昔から変に頑固な時あるからなァ。俺たちがちゃんと見張っておかないと」
はぁ、と溜息を吐いたのは手前にいた男。その男はちらりと部屋の中を確認して隣にいる男に肩を竦める。
――?ということは彼女の部屋はここで、中には彼女がいるということか。しかし、なぜ彼女は彼らに見張られているのか。彼女は彼らのことを家族だと言っていたのに。
もう一人の男も困ったと言うように腕を組んで眉を寄せている。その様子から彼らが彼女に悪意を持っているわけではないと分かったが、それでもやはり疑問は残った。
「すみません、どうしてはあなたたちに見張られてないといけないんですか?」
「あ?お前知らないのかよ…。アイツ、新月になると別の世界に帰りたいとか言い出すんだよ。ここがアイツの家なのにな…」
彼らに向かって歩いていたことから自然と目が合った安室はそのまま彼らに近付いた。人の警戒心を解くのは安室が最も得意としていること。にっこりと笑って人好きのする表情で彼らに訊ねれば、この船の連中には周知の事実だっただろうその情報を安室にも教えてくれる。
「どうせその世界に行っても性質の悪い男に傷つけられるだけなのによ」
「なるほど…」
困った妹だ、と肩を落とす彼らの言葉に安室は表面上は笑いながら頷いた。だが、内心その笑みは崩れ去っている。
――はこの2か月、僕の世界に帰ろうとしていたのか。
その事実に胸が締め付けられる。安室がもう帰る気はないのだろうかと彼女を疑っている間、彼女は家族のもとから離れようとしていたというのに。しかし彼女は家族に止められて帰れなかったのだろう。このように、部屋の中に閉じ込められた状態で。きっと、家族を傷つけてまで安室の世界に来る勇気が無かったのだ。彼らは好意からそうしているらしいから、優しい彼女が彼らを傷付けてまで帰ろうとしない気持ちは分かる。
――なんで、もっと早く来れなかったんだ。
ぐっと拳を握りしめる。彼女の助けをもっと早く気付けば、彼女はこんな風に閉じ込められなくてすんだのに。
に話したいことがあるんですけど良いですか?」
「ハァ?今日は駄目だ。明日にしろよ」
微笑する安室に対して向けられる、ギラリと光る眼差し。どうやら、新月の間は誰とも会わせる気はないらしい。過保護な家族を見て悟る。ああ、彼女はこの男たちに守られてきたからナンパもストーカーも経験したことがなかったのか。
だけど、今はそれがとても邪魔だ。どけよ、そこを。そこに、がいるなら僕は彼女を迎えに行かないといけないのに。今まで散々泣かせてきた彼女の涙を今度こそ拭ってやらないといけないのに。ギラリと剣呑に光りそうになる瞳をどうにかして柔和なものにする。
「ほら、用が無いならさっさと持ち場に行け――…って、お前…何かの言っていた男の特徴と似て…」
「そうですか?」
「褐色の肌にくすんだ金髪、垂れ目…お前!!もしかして」
しっし、と鬱陶しそうに手を振った男だったが何か思い当たる節があったのか、安室の全身を眺め徐々に目を見開く。厄介だ。そう思った安室はきょとんと恍けてみせるけれど、どうやらは詳細に安室の容姿を彼らに伝えていたらしい。別の世界の男がこの世界にいるなんて有り得ない。そう思っている様子でありながらも、万が一の時の為にと捕まえようとして、目付きを鋭くして安室に襲い掛かってくる男。彼はその男の顎にアッパー食らわせた。の家族を傷付けたくなかったけれど、バレたなら仕方がない。戦えるとは思っていなかったらしいその男にとって顎は不意打ちだったのだろう、一瞬で昏倒した彼が床にどさりと倒れる。それを見て、隣にいた男が警戒の体勢に入った。
「お前…!!まさか本当に」
驚愕に目を見開く男に、安室はふっと笑った。もう、これが夢だろうが現実だろうがどちらでも良い。が安室をここまで呼んだのだ。零さん、と何度も身を切るような涙声で安室の名を呼ぶ彼女にここまで導かれた。
それだけで良いだろう。彼女を閉じ込める目の前の男を倒す理由なんてそれだけで良かった。
――ねぇ、。君が僕の本当の名を呼ぶなら、僕の助けを求めるなら。
「性質の悪い男ですみませんね。ですが僕は本当に彼女のことが愛しいんですよ」
名も知らぬ男は、その言葉を聞いて目付きを鋭くした。お前が、の何を知っているんだ、と。ギリッと歯ぎしりをして怒気を放つ男に一歩近づいた。
――僕は、安室透なんていう偽物じゃなくて、降谷零として迎えに行くから。仮面も何もかもを捨てて、お前を虐げるその全てから守る。だから呼んでくれ、僕の名前を。お前の為に、僕は――俺は、どこへだって助けにいくから。何度だって、俺の名を呼んでくれ。
「だから――そこをどいてくれ。どかないなら、力づくで奪う」
安室も柔和な笑みを一瞬で消して、目の前の男を睨み付ける。家族だろうが、仲間だろうが関係ない。が傷付いた家族の姿を見て涙を流したとしても、彼女を檻の中から救い出せるなら、それに勝るものなんて何も無い。
だが、退けと言われて退く程目の前の男は素直ではない。ナイフを取り出し小型電々虫で仲間を呼ぼうとする彼。
「僕の大切な人を返してもらおうか」
「緊急事態だ!すぐにの――」
「閉じ込めるなんて、家族のすることじゃないだろ」
一瞬連絡に意識を向けた彼に瞬時に近付いてその手からナイフを弾き飛ばす。その際に手から落ちた電伝虫から「何があった!?」と男が叫ぶ声が聞こえた。時間は大して無いだろう。ぐっと眉を寄せ怒りに燃え上がった男の瞳。ナイフを取りに行くことを諦め、安室に殴り掛かってきた彼の拳を避け、鳩尾に拳を沈める。
「ガッ…!!」
通常の人間だったらそれで意識を飛ばすか戦意を喪失する筈だったが、流石は海賊。苦しそうに顔を歪めながらも安室の喉仏を狙ってくる彼にチッと舌打ちをする。人間の急所を突いてくるとは、相手は安室がどうなっても良いらしい。しかし、その際に出来た彼の隙を狙って安室は彼の米神に拳を打ち込む。あまり強く殴ると重度の障害が起きる為、脳震盪を起こす程度だが。
彼は安室の思惑通りふらふらとした足取りでどたっと倒れて気を失った。
、入るよ」
一応声をかけて彼女の部屋の扉を開ける。返事も何もない彼女に心配になれば、ベッドの上でぐったりと目を閉じた状態で横たわっている彼女の姿を見つけた。その頬には涙が伝った痕がある。
――新月が来る度に、僕の世界に行かないようにこうやって閉じ込められていたのか。ねぇ、。君を疑った馬鹿な僕を許してくれるかい?
…」
ぼんやり、と視界が何故か暗くなることに驚きながらも彼女の肩を揺すって起こす。急がないと彼女の仲間たちがやって来るから。それに、自分にもそんなに時間は残されていないらしい。時々意識が遠のくのだ。先の視界が暗くなったのもそのせいだろう。数度彼女の肩を揺すれば、彼女は力が抜けた様子でその目を開けた。
「あ、うそ…安室さん?なんで…」
「言っただろ、僕はが望むならどこにいたって必ず助けに行くって…」
そう、たとえ夢の中だろうが彼女の危機なら駆けつける。目の前に安室がいることに信じられない様子の彼女。彼女に訴えるように、心に届くように瞳を見つめて安室は囁く。それに涙をじんわりと浮かばせ瞬きを何度かくり返し安室を見上げる彼女を彼は咄嗟に抱きしめたくなった。
「落ち着いて聞いて。僕はここに長くいられないようだ。僕の所に帰って来たいなら今しかない。僕のことが嫌いになってないなら…帰ってきてくれ。がいないと駄目なんだ。」
本当に、がいないと僕は駄目なんだ。この2ヶ月でそれを身を持って知った。だから、帰ってきてほしい。その思いを込めて彼女に懇願すれば、彼女はくしゃりと顔を歪めてぐすっと鼻を啜った。
「でも見張りは…」
「ごめん、捕まりそうだったから倒した。ほら、もうを縛るものはいない」
扉の外をそっと見やって、安室の言葉に嬉しさと悲しさが混ざったような顔をするに、安室は苦笑した。彼女の腕を引っ張って起こそうとするけれど、彼女の身体には全く力が入らない。
「ま、待ってください。これのせいで、私動けないんです」
焦った様子の彼女の視線を辿れば、鉛色の腕輪が彼女の手首にしっかり付けられている。どうやら海楼石で出来ていたらしい。留め具をかちりと外して床に投げ捨てれば、身体を縛る害悪から解き放たれた彼女はほっとした様子で立ち上がる。それに安室も安堵するが、またぐらりと視界が傾いた。
――ああ、くそ。もうここまでなのか。駄目だ、もう意識が持たない。奪うなんて言っておいて、結局は彼女自身に任せるしかないなんて。
「安室さん…?」
、水ならどこでも良い…。必ず僕がすくい上げるから、待ってるから…帰ってきてくれ…」
ぐらりと傾いた彼を案じるように彼の身体を支えようとする。その手の温もりを感じながらも、安室の意識はぐいぐいと暗闇に引っ張られる。お願いだ、と最後に彼女の耳元で囁いたと同時に瞳を閉じ、彼の意識は暗闇の中に飲み込まれていった。
彼が瞳を閉じる直前に見たのは、ぎちぎちと何か圧力に耐え震えるハートのペンダントの異様な輝き。


75:もう傷つけないからこっちを向いてよ
2015/09/22
タイトル:モス
能力者+名前を呼ぶ+涙(水)をペンダントに落とす+新月=安室召喚という奇跡

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