安室の世界に帰ることを阻まれてから一週間。あのことがあっては初めて、1番隊の男たちと丸一週間口を利かなかった。利かないと言っても、隊の仕事がある為必要最低限の会話はしている。しかし、こうでもしないと彼らに怒っているということが伝わらない気がして。それでも彼らはそれに少し落ち込んでいる様子でありながらも、仕方がない奴だなぁなんて子どもを見守る目で見やってくる。
――違う。私はそんな風に子ども扱いされたいわけじゃないのに。そんな彼らにむしゃくしゃと感情が荒立つ。
安室の世界に帰るためにはまた3週間待たなくてはいけない。その間に、彼らの考えを直してほしいけれどこれではまだ直りそうになかった。
 午後の仕事が終わり、一日の疲れを洗い流そうとロザライン達と共に女風呂へと向かう。きゃらきゃらと今日あった出来事を話す彼女たちの会話を聞きながら相槌を打つ。その横顔はやはり少し元気がない。それに気が付いたロザラインが元気出してと声をかけた。
とまた離れ離れになっちゃうのは寂しいけど、きっと今月は帰れるわよ」
「そうそう!彼らに見つかる前にとっととお風呂に飛びこめば良いのよ」
「うん、ありがとう」
ね、と微笑む彼女たちはの良き理解者だった。1番隊の男たちが過保護すぎるきらいがあるのをとは違って昔から気が付いていた彼女たちは、今回のことで漸くそれに気が付いた彼女にニブチンねぇと笑った程。たった2ヶ月で想い人がどこかに消えるわけがないから安心しなさいよ、と励ましてくれる彼女たちは海賊船に乗っているからか、かなりタフな精神を持っていた。
「湿気た面してるとマルコ隊長に心配されちゃうわよ」
「えっ?マルコ隊長?」
女風呂に着いて、服を脱ぎ始めた彼女たちの言葉には首を傾げた。彼は確かににとっては第二の父親のような存在だけど、彼はとその他の隊員を分け隔てなく接している。それ故ばかり気にかけているとは思えなかったのだが、彼女たちは彼がの前では表に出さないだけで1番隊の中では一等大事にしていることを知っている故、に憐みの目を向ける。
マルコが1番隊の男たちを一喝すればこのような事態にはならなかった筈なのに、結果としてこのようになってしまったのは彼もまた部下たちと同じように彼女を異世界に送りたくなかったからだろう、と彼女たちは考えていた。
――ったく、マルコ隊長も素直じゃないんだから。
なんて誰かがぼそりと呟いた言葉は「ねぇ、それ」と声を上げたロザラインにかき消された。
「帰って来た時から着けてたけど、そのペンダントどうしたの?」
「あ、それ私も思った!ちょっと見せてよ」
「良いよ」
下着になった所での首元で光るハートに気が付いたロザラインがそれに指を伸ばす。安室に貰ったものなのだ、とはにかみながらが告げれば途端に彼女たちはきゃあきゃあと姦しく騒ぎ始めた。どこの世界でも女たちは恋バナが好きらしい。ぷちり、とチェーンを外して彼女たちに渡してみれば「綺麗ねぇ」と眺める彼女たち。
ロザラインがペンダントを持ち、ふと裏側を見た時に彼女の綺麗な眉は「あれ?」という言葉と共に不思議そうに寄せられる。
「何か掘ってあるわよ」
「あ、本当。でも、これ何かしら?」
そう言ってに返されたペンダント。彼女たちの言葉通り裏側を見てみれば「零」という一文字が刻まれている。これは、何だろう。も初めて見る漢字だった。このように難しい字は小学一年生で習わないことは確かだろう。よく店の名前が商品に書かれることはあるけれど、あの店の名前は漢字一文字ではなかった気がする。
不思議に思いながらもこのペンダントを買ってもらった時のことを思い返してみた。そういえば、あの時彼はやけに会計に時間をかけていた気がする。もしかして、この文字は彼が掘らせたものなのだろうか。
「ワノ国の文字に似てるわよね」
「確かに。確か書庫に辞書があった筈」
下着を脱ぎがらり、と浴室の扉を開ける彼女たちの言葉にはっと思い至った。この文字に込められた意味や読み方はその辞書を使えばもしかしたら分かるかもしれない。は一先ずペンダントを服の上に重ねてぱぱっと下着を脱いで彼女たちを追いかけた。
明日、書庫を調べてみよう。


 ペンダントの裏に彫られた文字「零」の意味を知りたくて、は隊の仕事の合間に書庫にやって来ている。司書などいないそこはあらゆる書籍で埋め尽くされていて、辞書を探すのにも一苦労しそうだった。部屋一面に置かれた本棚の端から端まで探してから既に一時間。ワノ国の文字の辞書はまだ見つからない。
「もう、どこにあるの…」
指で背表紙をなぞりながらタイトルを確かめていく。辞書というぐらいだから相当の分厚さはあるだろうから目立つと思っていたのだが、それらしいものは見つからない。こんなことなら普段からワノ国に興味を持っておけば良かった。そう後悔するが、それから30分後に探していた辞書は見つかった。
――何これ、分厚い。
本棚から取り出したそれは優に横幅が30センチを超える。この分厚い辞書の中からたった一文字を見つけ出さなきゃいけないのかと思うと気が狂いそうな作業だが、はごくりと生唾を飲み込んでそれをテーブルの上に置いた。どすん、と重い音を立てたそれにふうと一息ついて最初のページを捲る。あいうえお、と順々に並んでいる言葉。「零」という文字の読み方を知っていれば、少しは探す場所を特定できただろうが、にはその知識もない。それ故「あ」のページから読み進めていくことに決めた。
――辞書を読み始めて1時間。「零」に似た文字を探すべく流し読みをしていたであったが、それでもまだ漸く「あ」のページが終って「い」に入った所だった。しかし、もう自由時間は終わりに近づいてくる。これからまた隊の仕事があるのだ。今日はこの辞書を部屋に持って帰りたい所だったが、万が一にも他の者がこの辞書を使う時に書庫にないと困るだろう。仕方なしに、は元あった場所に辞書を戻して書庫を出た。
 ワノ国の言葉の辞書を読み始めてから一週間。仕事の空き時間を狙って書庫に篭りっぱなしのであったが、それでも限られている時間の中では中々ページを進めることが出来ていなかった。単語は漸く「そ」の所まで到達したが、未だに「零」という文字は見つけられていない。途中何度かそれに似た字を見つけたけれど、形が違うことからその度に期待が地に落とされて。もう、次の新月の日まで2週間を切ってしまう。徐々に焦り出したは「はぁ…」と息を吐いて酷使した目をぎゅっと瞑る。ぐっと目頭を押さえて疲れを取り除こうとしてから、再び辞書に視線を落とした。忙しなく瞳を上下に動かして、ペンダントに彫られた字と同じ形を探す。だが、それでも見つけることは叶わなかった。
「何で……」
辞書を探せば見つかる筈なのに、それを見つけることすら出来ないことに苛立ちが募り頭を掻き毟る。安室から与えられた一文字すら解読できないことが酷く情けない。誰にでもなく、この問いを解き明かすこともできなくては、彼に相応しくないと言われているような気がして、じわりと目尻に涙が浮かんだ。
――安室さんがせっかく何かをくれたのに。
ぱしん、と頬を叩いて暗くなってしまった気持ちを入れ換えようとした。ぐっと目に力を入れて辞書のびっしり並んだ文字を睨み付ける。時間がある限り、調べよう。
 それから数日後、ぎりぎり一週間も経たないうちには漸く「零」という文字を発見することが出来た。仕事の合間だけではなく寝る時間を削って書庫に通い詰めた彼女の根性がそれを成し遂げたのだ。見つけた瞬間は疲れた目の錯覚であるか、と目を擦った彼女だったが開いた視界に先程と同じようにそこに存在する文字に、くしゃりと顔を歪ませる。疲れもあったし、漸く見つけられたという安堵から涙が一滴テーブルの上に落ちて染みを作った。ああ、漸く。ぐす、と鼻を啜って呼吸を整えた。気持ちを入れ換えて、ドキドキしながらその文字の読み方と意味に目を通す。
零――読み方:れい。意味:@数えるべきものが一つもないこと。また、目盛などの基準・基点。A数0が零とは、任意の数αに対してα+0=0+α=αが成り立つこと。整数に含める。ゼロ。
――れい……。
その文字の羅列を読んだ瞬間、は杯戸中央病院での安室の言葉や工藤家で見た光景を思い出した。

『僕のあだ名もゼロだったので呼ばれたのかと』
『透けてるってことは何もないってこと。だからゼロ』
『まさかお前、俺の正体を…!?』

ぱぁっと押し寄せる記憶の波に、カチリとバラバラに置いてあったパズルのピースがあるべき場所に当てはまったような気がした。“あだ名”、“ゼロ”、“何もない”、“俺の正体”。今までにないほど頭が回転しているのが分かる。その言葉がぐるぐると渦巻いて、それらの間にある道を繋ぎ一つの解答を導き出した。
「安室さんの…本当の名前……?」
目を見開いて、辞書の「零」という文字を見つめる。その言葉を肯定するかのように、首元でペンダントがきらりと光った気がした。「零」、それは彼が隠していた本当の名。なぜ隠す必要があるのか分からないはやはり彼と比べたら頭が悪い。だけど、この導き出した答えが正解であると本能が叫んでいる。それ以外に考えられなかった。
「零、さん……?」
その響きに心が震えた。ふわり、とハートのペンダントが光を放つ。それに吃驚して首元を凝視したは先程のは気のせいではなかったのだと確信した。「零さん」また彼の名を呼ぶ。そうすれば、それに応えるかのようにペンダントも光り輝いて。
「零さん、零さん……」
何度も彼の名を呼んだ。その度にペンダントの輝きは強くなる。何故、ペンダントが光るのか、には理解出来なかった。もしかしたら、異世界の物質をこの世界に持って来てしまったことから何か不思議な力を得たのかもしれないし、世界を隔てた安室とを唯一繋ぐ証として機能しているのかもしれない。
くしゃり、との顔は歪んだ。
「零さん……」
ぽろぽろと涙が頬を伝って洋服やテーブルに染みを作った。ぎゅっと握りしめたペンダントからはまた光が溢れて。
――好き。好きです。会いたくて、恋しくて。
胸が苦しくて破裂しそうだった。彼がどんな意味を込めて、このペンダントに彼の隠された名を刻んでくれたのかは分からない。だけど、きっとこの名は彼にとってとても大切なものだ。それをに与え、託し、身に着けさせた彼。
これ以上ない信頼の証だと思った。今すぐ彼に会いに行きたい。世界が隔てられていなければ、きっとこのまま彼の前でみっともなく泣いて縋りついていた。だけど、まだ新月ではない。彼の世界と彼女の世界を結ぶ条件は月に一度だけ。
はペンダントをぎゅっと握りしめて、瞳を閉じた。
――神様、どうか一日でも早く彼の所に導いてください。
祈り捧げるのは、愛しい人への想い。


74:あなたの愛したあとばかり
2015/09/21
タイトル:モス

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