昨夜、安室は眠れなかった。ぼうっとした眼で天井を見上げる。
勝手にが1ヶ月も経てば帰ってくるだろうと思い込んでいたことを恥じて、また今まで必死に気付かないように目を背けていた感情に気付いてしまって、ずっとそれについて考えていた。
――僕は、どうやらのことが好きらしい。
一晩考え、悩み導き出した結論はとてもシンプルで簡単なものであった。逆にどうして今までそれに気が付かなかったのだと哂ってしまいたくなるほど。
彼は漸く認めた。今までのことを大切だと思っていたのは、僕を守って傷付いたからだと言い訳していたということを。根底にあるのは確かにそれだが、彼女を好きなのはそれだけではない。守りたいのも会いたいのも抱きしめたいと思うのも、全部彼が彼女のことを一人の女として好きだからだ。
いったいいつから彼女のことが好きだったのだろう。が安室のことを好きだと分かった時からだろうか。それとも彼女を振って唇を奪われた時からだろうか。それとも――。自分でも、いつから彼女に好意を寄せていたのか分からない。だが、きっと無意識に彼女のことを一人の女として意識はしていたのだろう。でなければ、彼女が他の男の家に泊まったり、襲われそうになっていたことにあんなに激しく身体の内から怒りが出てくる筈はない。
きっと、今まで一緒にいることが当たり前すぎて彼女に対する好意の種類を自分でも理解出来ていなかったのだ。じわりじわりと雨が大地に染み込み地下世界に透き通った水として流れるのに時間がかかるように、安室の彼女への恋も自分では全く気付かない程の速度で徐々に浸透してきていた。ただ、頑なに彼女の気持ちを認めようとしなかったのは、彼女と簡単に壊れるような関係になりたくなかったから。それ故、彼は自分の心に見て見ぬふりをしてきた。
――周囲に偽ることを得意としていた僕は、いつの間にか自分自身をも偽るようになっていたのか。だが、
「今更だろ……」
はぁと重苦しい溜息を吐いて天井を睨み付ける。本当に今更過ぎる。彼女がいなくなって、それも1ヶ月経って彼女が帰ってこないと分かってから自分の気持ちに気が付くなんて。本当に大馬鹿だ。他人のことなら手に取るように分かるのに、どうしてと自分のことに関してはこうも頭が働かないのだろう。
――、ごめん。
今まで、ずっと彼女の気持ちを受け止めなかった自分の愚かさを懺悔する。
がどれだけ勇気を出して自分に気持ちを伝えたり、努力をしているのかということは分かっている。彼女は一度振ってからも諦めずに健気に安室だけを見つめていて、初心でもどうにかして安室に積極的に関わり続けていて。だけど安室はそんな彼女を何度も傷付け泣かせてきた。今更、自分の気持ちに気付いたことを彼女に伝えた所で泣いて罵られそうだ。
――だけど、会いたい。会って、この気持ちを伝えたい。
彼女に罵られようが、泣かれようが、それでもこの気持ちを彼女に伝えたかった。やっと気付いた自分の正直な気持ち。を愛させてほしかった。彼女を愛することを許してほしい。今は安室の手の届かない世界にいる彼女にそれを伝える術はなくとも、彼女が帰ってくるのを安室は待とうと思った。今まで彼女を泣かせてきたのだ、これくらいのことで安室が傷付くなんて馬鹿げてる。
だから、。帰ってきたら僕の言葉を聞いてくれないか。もう、自分を偽ったりしないと約束するから。これまでを傷付けたぶんだけ幸せにすると誓うから。
――愚かな男を許してくれ、


 は困惑した。いったい、どうしてこんなことになってしまったのか。昨夜、そうまさに待ちに待った新月の日の夕方に、は家族と別れ安室のもとに帰ろうとしていた。
「皆さん、短い間でしたけど私、安室さんの所に帰りますね」
隊長会議で今はいないマルコを除いた1番隊の男たちの前ではお世話になりましたとぺこりと頭を下げた。彼らはのことを娘や妹のように可愛がってくれているから、1ヶ月彼らと過ごせたとはいえ、彼らと別れるのはやはり寂しさを感じる。女友達であるナースたちと別れるのも同様に辛かった。だけど、は何よりも安室の傍にいたい。それ故家族たちと離れることを決意したのだ。
しかし、彼らは顰め面でのことを見下ろすだけ。
「わりいな、。それはできねぇ相談だ」
「え?」
「お前の話を聞いてた限り、その男はのことを利用していただけだろ?」
「散々期待させといて卑怯にも程がある。俺たちはお前のことが心配なんだよ」
「そんな男の所に戻ろうとしているお前を放っておけねぇ」
いつの間にかの退路を塞ぐように彼女を囲む男たちに、はどうしてと囁いた。確かに彼らには根掘り葉掘り安室との暮らしを訊かれたけれど、どうして彼らが安室のことをこうまで敵視するのか分からなかった。は自分に少し頭が足りないことを自分でも分かっている。だから、彼らはが気付かなかったことに気付いた可能性もあるということもそれなりに推測できた。
しかし、の気持ちはのものであって、彼女の行動を彼らが止めることは出来ない筈だ。今までを自分の娘や妹同然に育ててきてくれて時には叱っていた彼らは一度として彼女の意思を否定したことなどなかった。
「で、でも…私は、」
「悪いな、お前の為なんだ」
を囲む彼らをきょどきょどと見回しながら安室のもとに帰りたいという気持ちを伝えようとする。しかし、背後にいた男からカチリと腕に何かを嵌められた途端、身体から力が抜けて床に倒れ込む。それは直前にの身体を受け止めた男によって防がれたが、はこの身体の怠さと力が入らなくて身体が重い状態にぐったりとなされるがまま。
「海楼石の腕輪だ。自由に動けると、水場に行くかもしれねぇからな」
「そ、んな……」
「辛いかもしれねぇが、今日だけだ。我慢してくれ」
海楼石の耐性など何も無く、ぐったりしたを担いで彼女の部屋に向かう男たち。の顔が絶望で沈むのに対して、彼らはほっとしているようだった。なんで、安室さんの所に帰ったらいけないの。早く帰らないと、彼はどこかに行ってしまったり、果てには恋人を作るかもしれないのに。
ぼろぼろと溢れ出した涙が男の肩を濡らす。ずっと、が10歳にも満たない時から面倒を見ていてくれた彼らが、まるで知らない人間のように見える。彼女にとっては、彼らのこの行為はの為を思う故の行動であっても、ただの裏切り行為にしか映らなかった。
「泣くなよ。お前だっていつか分かる時が来る」
「お前はまだ子どもだから、俺たちがお前のことを守ってやってるんだ」
な?とが泣く様子を見て頭を撫でてくる彼ら。ぎしぎし、と木の床の廊下を歩いての部屋の前にやって来た彼らのうちの数人は、彼女がベッドに横たえられ動けない状態でいるのを微笑して見ていた。
「いつか、お前が大人になって子どもができた時に俺たちの気持ちが分かるよ」
「ま、って…待ってください…」
小さな音を立てて、外の世界に繋がる唯一の扉を閉める彼ら。それには力の入らない腕を持ち上げ伸ばした。途切れていく彼らの顔に、待ってと懇願する。しかし、無常にも扉はパタンとしまってしまった。その上、机の上に置いてあった部屋の鍵で外から鍵をかけられる。彼らはどうしてもを安室にもとにやりたくないようだった。
――子ども、って…。私はもう大人なのに。
薄暗い部屋の、自分のベッドの上で息を殺して涙を流す。なんで、彼らは分かってくれないのだろう。は守られているだけの存在でありたくないのに。安室と一緒にいて傷付いても、泣いてしまっても、はそれで良いと思っていた。どうやったって、彼らに守られているだけでは成長することなんて出来ないから。
どうしてより1つ下のエースのことは立派な大人として扱うのに、だけ子ども扱いなのだろうか。そう思いながら、は今まさに浴槽に湯を張って待ってくれているかもしれない安室を瞼の裏に描いた。
――今すぐにでも会いたくて仕方がないのに。
心配させてしまっただろうかとか、そもそも心配してくれただろうかとか。を笑って受け止めてくれるか、なんてずっと悩んでいたのに、それがまさか家族たちの手によって妨げられてしまうなんて思ってもみなかった。
「安室さん……」
会いたい。涙で枕を濡らしながら、は力の入らない手で首元を飾るハートのペンダントを弱々しい力で握りしめた。


 が元の世界に帰ってしまってから1ヶ月半。彼女の帰りを待つと決めた安室はなるべく彼女のことを考えずに済むようにポアロのバイトや探偵業を普段より多めに入れていた。
そして今日はポアロのバイトである。だがやはりというか、気分は乗らない。今日は自分でもあまり元気がないというのが分かる。だが、湿気た面をしていると客に心配されかねない。そう思って、キッチンから出た安室は笑顔を貼りつけた。
「あっ、蘭さん、いらっしゃいませ」
「こんにちは、安室さん」
からんからん、とベルを鳴らしてポアロに入ってきたのは毛利探偵事務所の一人娘の毛利蘭。の最も近しい友人であった筈だ。彼女を窓際の席に座らせて、珍しいですねと話しかける。いつもであれば小五郎やコナンと共にこの店にやって来るのに。
「実はちょっと聞きたいことがあって…今大丈夫ですか?」
「ええ。メニューは何にしますか?」
「あ、ちょっと待ってください」
店内を見渡し、客の数がそう多くないことを確かめてから安室は彼女に頷いた。客に呼ばれてしまえば彼女の話を聞けなくなってしまうだろうが、それは彼女も百も承知だろう。そう思ってメニューを渡し、彼女がそれに悩んでいる間にちらほら座っている他の客に水を配りに行った。
ちらり、と安室を探す蘭の視線に安室は笑みを浮かべて彼女のもとに向う。決まりました、と彼女が伝えてくれたのはカフェオレとプリンアラモード。注文内容を復唱して、すぐ持ってきますねと彼女に声をかけてキッチンへ向かい、オーナーに注文内容を伝えた。オーナーがカフェオレを作っている間に、安室は冷蔵庫の中からプリンを取り出し皿の上に乗せて飾り付けていく。出来たよ、とオーナーに声をかけられると同時に安室も作業を終え、それを蘭のもとに運んだ。ついでに彼女と少し話しても良いかと了承を得て。
お待たせしましたと蘭の前に静かにそれを置いて、安室は彼女の前に腰を下ろした。ありがとうございます、と言ってカフェオレに口を付けた彼女。何から話すか迷っているのか、その眉は少し寄せられている。安室は急かすでもなく、彼女が自然に口を開くのを待った。
「あの、さんまだイギリスから帰って来ないんですか?」
「ええ、僕も待ってるんですけどね」
何度か連絡を入れてみたけれど一回も返事が来ないのだ、と少し心配した様子の彼女を安心させるように安室はふわりと微笑んだ。彼女にはがスマートフォンを持って行くのを忘れたと伝えていたが、それでも1ヶ月半も帰って来ないとは思っていなかったらしい。長いですね、と驚いた様子の彼女に苦笑する。が帰ってくる気があるのなら1ヶ月単位でしか時間は関与してこない。だから、今どれだけ彼女に会いたいと思っていても安室はあと最低でも半月待たなくてはいけなかった。本当に、不便だ。
「だから安室さんも少し元気がないんですね」
「顔に出てましたか。まぁ、寂しくないと言えば嘘になりますが」
苦笑しているのに、どこか嬉しそうにしている彼女。それに安室はどうしたことかと思考を巡らせた。彼女になら、を恋しく思っている様を見せても別にかまわないと無意識に思っていたのかもしれない。素直な表情筋に呆れながらも、彼女の追及する瞳からするりと躱す。
「――寂しいなら、迎えに行けば良いじゃないですか!」
「そうしたいのは山々ですが、彼女がいる所はとても遠くて…彼女が帰ってくるのを待つしかないんです」
だけど彼女の真っ直ぐな瞳に真正面からぶつかる。それは若さゆえの情熱だと思った。安室はもう、きっとこんな風に純粋に真っ直ぐ物事を見ることが出来なくなっているから。
彼女の瞳から逃げられないような気がしたのは、彼女の瞳の輝きがと同じようなものだったからかもしれない。苦笑しつつ、穏やかに返せば彼女は少し困惑したような様子になる。本当に彼女が帰った場所がイギリスであれば、迷わず彼女を迎えに行っただろう。だけど、彼女がいるのは別の世界。それも、安室一人ではその世界に行くことすらできない。彼女に任せるしかないのだ。彼女が帰って来ようと思わない限り、安室の願いは叶わない。
「あの、安室さんは…さんのこと、好きなんですか?」
「好きですよ?」
暫しの沈黙の後にぽつりと紡ぎだされた言葉は、安室が予想していたものだった。それに当たり前のように答える。きっと、彼女が求めているのはこの答え方ではないのだろうけれど、敢えて知らない振りをした。
「…そういうのじゃなくて、異性としてです」
ゆらゆら揺れる彼女の瞳に安室は心中で「ああ…」と零した。客観的に見なくても、この質問は無粋だ。それは彼女も分かっているだろう。そんな言葉を安室に投げかけてくる彼女に、を思う気持ちが溢れていて安室はふっと微笑した。彼女はきっとの為に色々頭を悩ませてくれたのだろう。
「……蘭さんが思っている通りですよ」
「それなら…っ」
微笑したまま彼女の瞳を見つめ返せば、彼女ははっとしたように拳を握って前のめりになる。決定的な言葉は使わなくても、彼女には通じたようだった。否、彼女の場合はそうあってほしいという希望をかけたのかもしれないけれど。彼女が口を開くと同時に他のテーブルから呼ぶ声が上がり、安室はそれに「はい、ただいま」と返事をした。
「すみません、他のお客様が呼んでいるので…」
すっと椅子から立ち上がった安室を、蘭は名残惜しそうに見上げた。それに彼は微笑んで他の客のもとに向う。きっと彼女はもっと詳しく話を聞きたかったのだろう。もしくは、“それなら、どうしてさんに気持ちを伝えないんですか”と問い詰めたかったのか。不満気な様子の彼女の視線を背中に感じながらも、安室は客のメニューを聞いてメモを取る。
――気の良い娘だ。
何故、が年の離れた彼女と仲良くなれたのか分かった気がした。きっと、お互いに波長が似ていて一緒にいることで違和感を覚えなかったからだろう。最初は蘭のことを小五郎の娘というカテゴリーでしか見ていなかったが、は良い友人を持ったと思った。
――僕だけじゃなくて、他の人もが帰ってくるのを待っているんだよ。
安室の自室の机の引き出しの中に大切にしまわれている彼女のスマートフォン。それが何度も来るメールや着信でチカチカ光る様子を思い出して、この世界にいない彼女にだから早く帰ってきてくれと囁いた。


73:百年経てば、これも初恋
2015/09/20
タイトル:モス

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