がいなくなってしまった次の日。安室はいつも通りの時間に起きて朝食を食べていた。
昨夜は突然のことに焦ったが、彼女は大方間違って元の世界に戻ってしまったのだろうという考えに行きついたのだ。でなければ彼女は服を着ないで帰ろうなんて思わない筈だろうし。大よそ、バスタブでうたた寝していた所足の先で栓を抜いてしまったとかそういうところだろうと安室は呆れた。
しかし、それと同時に大丈夫だろうかと不安にもなる。彼女が現れる先が女風呂とは限らないから。裸で男風呂に現れたりなんてしたら、考えるだけでも胸糞が悪い。それに彼女の船の風呂場に現れるとも限らないし。服も着ないで元の世界に帰ってしまった彼女に、安室は始終落ち着かなかった。
ニュースキャスターの話が全く頭に入ってこないのもそのせいだ。ピ、とテレビを消して食事を再開する。
――早く帰ってこい、
こんなことで僕を心配させるなんて、本当に馬鹿なんだから。
きっと1ヶ月で帰って来るだろうと深く考えずに安室は今日の予定を立てようとした。


 彼女のいない生活になんてすぐに慣れると思っていた安室だったが、それは誤算だったらしい。どうにも、彼女と一緒にいることが当たり前になりすぎていたのか、彼女の気配がないと落ち着かないのだ。以前までは一人暮らしが安室にとっての当たり前だったのに。
ソファに座っても、つい隣を見てしまう。彼女がいないのに、今見ているテレビの内容を話そうとしている自分に気が付いて、はあと溜息を吐く。順応性は高い筈なんだけどな。そう思いながら、無意識に彼女の香りを探している自分に気が付いてがしがしと痒くもない頭を掻き毟った。
――ああ、ったく。
本当に調子が狂う。ご飯を作っても彼女の「美味しい」と言う言葉が聞こえない。一緒に料理を手伝ってくれることもない。隣にいて他愛ない会話をすることもない。「いってきます」と「いってらっしゃい」どころか「ただいま」と「おかえり」も聞けない数日。
たった、数日だ。彼女がいなくなってからまだそれだけしか経っていない。それなのに、彼女が傍にいないだけで安室はどことなく落ち着かない。あるべきものが傍になくて寂寞感が心の中でとろりと徐々にとけだしていて。
気付かない振りをするのは簡単だった。それでも、彼女がこの家にいないことへの違和感の方が強くて、どうしても意識してしまう。
「何なんだよ…」
眉を顰めて自分の胸に問いかける。この数日間、彼女のことを考えてばかりだ。無事なのかとか、服はちゃんと着ているのだろうかとか、現れた先は家族の船だったのだろうか、とか。
は幸せ者だな。こんなにも僕が君のことばかり考えているなんて。そう内心茶化してみるけれど、気分は上がらない。
彼女と過ごす1ヶ月はあっという間に過ぎていくのに、自分一人だと数日さえも遅く感じるようになっていることに気付いた安室は彼女の名を小さく呟いた。
――君がいないと退屈だ。それに、ほんの少し寂しい。
静かすぎるこの空間に、安室は目を瞑った。


 久しぶりに黒の組織としての仕事でベルモットと共に行動することになった。どうしてベルモットと一緒なのかと思ったが、あの方からの指令なので仕方がない。ベルモットを迎えに行く為にマンションを出て駐車場に歩く。愛車に乗り込んでエンジンをかけて隣を眺めた。いつもだったらここにが座るけれど今日はベルモットなのか。気分が乗らないなと思いながらも、それを表情に出すことはしないで駐車場を出た。
「早かったわね」
「ええ、混んでなかったので」
彼女との待ち合わせ場所に着いて暫く待っていれば、そう時間が経たないうちに彼女はやって来た。助手席の扉を開けて入ってきた彼女はスーツを着ている。今日の仕事先がフォーマルな服装をした人物ばかりで目立たないようにする為だろう。勿論安室もそれに合わせてスーツを着て来ているが。
「今日の仕事って…2人で行くような仕事じゃないわよね」
「そうですね。僕は待っているのでベルモットだけでどうぞ」
発進させた車の中で、ベルモットが退屈そうにふぅと溜息を吐く。それもそうだ、今日の任務は組織の取引先相手の男が怪しい動きをしているということで、その男から情報を絞れるだけ絞って殺してくるというものなのだから。
その男は女好きだというから安室相手では口を割らない可能性もある。そういう意味を込めて彼女一人で行くことを促せば分かったわよと彼女が頷く。どうやら特に異論はないらしい。
「ところで、あの子どうしたの?連絡がつかないんだけど」
「ああ、ですか。携帯を忘れたままイギリスに帰省してしまいましてね…僕も困ってるんですよ」
目的地へ着くまでの退屈しのぎにの話題を出した彼女に、安室は笑みを貼りつけた。彼女が急にいなくなってしまってから、小学校には家庭の事情で一時イギリスに帰っていることを伝えていたのだが、ベルモットが大人の方の彼女について言及してくるとは思わなかった。沖矢も、もしかしたら彼女が絵を描きに来ないことを不思議に思っているのだろうか。そう思ったが、態々そんな情報を他人に教える必要はないだろう。ごく親しい間柄の蘭たちにはポアロのバイトの時に伝えていたし。
「あらそう、残念だわ。にしても携帯を忘れるって…馬鹿ね」
「本当ですよ。おかげで連絡も出来ません」
安室の言葉を聞いて、ベルモットが呆れたように鼻で笑う。彼女に伝えた「携帯を忘れた」というのは嘘だったが、彼女が何も身に付けずに自分の世界に戻ってしまっていたのだからある意味嘘ではないのだろう。連絡が取れないのは、携帯がなくても同じ。
どうすれば彼女と連絡が取れるのだろうか、なんて考えても世界が違うのだ。どう足掻いても目的を達成することは出来なさそうだった。
「道理であなた、元気がないと思ったわ」
「は?僕、元気ありませんか?」
「ええ、普段と比べたらね」
窓の外を眺めていた彼女がちらりと安室に視線を寄こすと共に紡いだ言葉に安室は僅かに目を見開いた。彼女に面と向かってそうなのかと問い詰めたい所だったが、如何せん今は運転中である為余所見は出来ない。
――僕に、元気がない?
安室としては普段通りにしていたつもりだった。だが、彼女はそうではないと言う。女優としての立場からだと、そういったことにも鋭いのだろうか。伊達に何十年も大女優をしてきたわけではないらしい。安室の元気がないことにはあまり興味が無いようだが、それでも「早く帰ってくると良いわね」なんて言う彼女。その言葉からは、安室の元気がない理由はに起因していると踏んでいるようだった。
がいないと、僕は元気でいられないのか。彼女の論理に機嫌が下がる。まるで、その言い分だと安室が彼女のことを好いて依存しているようだから。確かに彼女がいなくて寂しいとは思う。だが、彼女がいなくても安室はやっていけている。今までだって、これからだってそうだ。
「別に彼女は関係ないですよ。昨日寝るのが遅かったからじゃないですかね」
「あら、素直になれば良いのに。本当、男って馬鹿ね…」
彼女以外の要因であれば昨夜は寝る時間が遅かったということだろうか。睡眠時間を削ると身体の不調に繋がるとも言うし、彼女がいないということが自分の内面に関わっているとは考えられない。
しかしベルモットは薄く笑った。何が馬鹿なのか。安室は素直に物事を捕えているのに。しかし、目的地に着いたことによってその話は終わってしまった。


 ベルモットと仕事を共にしてから1週間。とうとう新月の日がやって来た。その日は朝食前から安室はバスタブに湯を張っていた。いつ、が戻ってきても良いように。
彼女がいなくなったことで、あの頃よりは少し簡素になった料理を食べていたのも今日で終わる。なぜか、彼女がいないと食事に時間をかけることが勿体無く感じられてついつい手を抜いた料理が多くなっていたのだ。それでも安室の料理は栄養面にはそれなりに気を付けていたが。
『――先月に比べてオレオレ詐欺の被害件数は2割増しになっています。ご高齢者の方は見知らぬ電話番号から…』
テレビの中でニュースキャスターが真剣な顔で話している様子も、今の安室にとっては意味を持たない映像でしかなくて。やっと彼女が帰ってくるのかと思えば待ち遠しくて、いつになく自分が落ち着きないのが分かる。
――帰ってきたらどうしてやろうか。彼女の様子次第でそれは変わってくるだろうが。
もしへらへら笑って帰ってきたら叱ってやろう。どれだけ安室がこの1ヶ月彼女のことを心配していたかということを伝え、今後はお風呂場で寝るなと当たり前のことを覚えさせるのだ。だが、もし彼女が申しわけないような顔をして戻ってきたのなら、仕方ないと許してやるか。彼女も態と何も言わずに自分の世界に戻ったわけではないだろうし。まあ、それにはまず彼女の口から真実を聞かなくてはならないだろうが。
安室は待った。今日は特にバイトも探偵業の仕事も黒の組織の任務も入っていない。否、数週間前からこの新月の日は丸々開けておいた。だから時間はたっぷりあるのだ。それでも時計の針が進む度にリビングのソファに座った状態で時計を見上げてしまう。
10時が過ぎ昼になった。それでもまだ彼女は帰ってこない。もしかしたら昼食を食べてから帰るつもりなのかもしれない。彼女は食べるのが大好きだから。どうせ、暫く家族と会えなくなるからと“サッチ隊長”とやらのパフェを強請って食べているのかもしれない。
昼が過ぎ、15時も過ぎた。昼食だけでは飽き足らずおやつまで食べているのだろうか。そう思ったが、彼女は食ではなく家族と離れることが寂しいのかもしれないという考えに辿り着いた。それでは、もしかしたら夜まで帰ってこない場合もある。それに内心永遠に会えないわけではないのだから早く帰ってこいよと思わなくもない安室だったが、時計をじろりと睨み上げるだけにしておいた。
18時が過ぎ、空が濃紺になり夜の帳が下りてきた。それもとうに昔のこと。今はもう既に23時。夜空には星が輝いて見えない月が存在している。それが、安室とを繋ぐ唯一のものだった。
安室は段々苛立ち始めた。あと一時間もすれば新月の日は終わってしまう。その前に帰って来なければまた1ヶ月先延ばしになってしまうのに、彼女は一体何をやっているんだ。刻一刻と時間が無くなっていく様子にぎり、と拳を握りしめる。
カチッ、カチッと秒針が動くことだけがこの部屋の唯一の音で。どんな些細な音でも聞き逃さないようにと風呂場に意識を向けている安室だったが、無常にも時計は24時を指した。
――新月の日はもう終わった。
ソファから立ち上がり、風呂場へ向かい乱暴に扉を開いた。そこに、はいない。ただ、何度も温め直した湯が温かな湯気を上げているだけで。
「……なんで、帰ってこないんだよ…」
ぽつりと呟いた言葉は少しだけ浴室に反響してすぅっと消える。
――絶対に帰ってくると思っていた。彼女は安室のことが好きだし、1ヶ月も離れていれば寂しさからすぐにでも世界を飛び越えて安室のもとに戻ってくるだろう、と。だけどそれは勘違いだったらしい。
『安室さんは自信過剰すぎです』
もう、どれくらい前かさえもあまり覚えていない、彼女との初めての喧嘩の際に彼女から投げかけられた言葉を思い出す。自信過剰、確かにそうだ。安室は彼女が帰ってくるという考えに揺らぎない自信があった。それは偏に彼女の安室への好意が本物だと彼が分かっていたから。だから、家族のもとから離れても安室を選ぶと思っていたのに。それは、本当にただ自信過剰だったらしい。
「っは……」
漏れた嘲笑は自分に対するもの。
――は、僕よりも家族を選んだのか。
彼女を振った時に自分の世界に帰ると言っていたのに引き留めたのは安室。戻ってしまったのが故意ではないとはいえ、律儀に帰ってくる必要もない。彼女はあの後ももしかしたら安室への恋心を捨てたいと思っていたのかもしれないし。諦めないとは言っていたが、それでも安室は彼女を傷付け泣かせてばかりだった。愛想を尽かしたのかもしれない。
「馬鹿か……」
はぁと溜息を吐いて浴室の電気を消して自室に戻る。そのままベッドに倒れ込めば、ずきんと心臓のあたりが鈍痛を訴えてきた。それに眉を顰める。
『安室さん狡いから、これくらい良いですよね』
あの時、彼女を振った時に奪われた唇。そっと触れるだけの子供じみたそれをした彼女は、身体を緊張に震わせながらも泣き笑いをしていて。その表情は驚くほど大人びていた。だが、何故今それを思い出す。それに付随して琉生の気だるげな瞳とあの時交わした言葉までが甦って来て、安室はそんな訳ないと頭を振った。
だけど、ああ。すとんと心に落ち着いたその言葉。
――僕は馬鹿だ。
この時、初めて安室は自分の胸の内に宿る想いに気が付いた。


72:あれはきみの為の夜空でぼくの為の月だった
2015/09/20
タイトル:モス

inserted by FC2 system