の本体も分身も出かけていることを良いことに、久々に報告書を書きに本部にやって来た降谷だったが、どうにも集中出来ない。それは隣に珍しく後輩の琉生がいるからか。彼の机の汚さを見ていると集中力が削がれるのも分かる。同じく報告書を書いている彼は始終やる気無さそうに宙を眺め、時たまぽりぽりと頭を掻いていた。
「集中しろよ」
「そんなこと言って降谷さんもさっきから気が漫ろすね」
入庁一年目からの後輩である琉生に叱咤すれば同じく、気だるげなのに見透かしている目が降谷を見つめる。上司、同僚、部下の中で一番付き合いが長く気心知れている相手は、この男だ。そんな彼なら降谷の内情を推し量っても何ら不思議ではない。ただし、降谷の場合はなるべくそれを悟らせないが。黒髪をくしゃりと撫でた彼はくわと大きな欠伸をして椅子に座ったままぐぐぐと背伸びをする。どうしてこんな男が公安に入ったのか、とは思ったが、やる時はやる男であることを知っている為、何も言えない降谷ははぁと溜息を吐いた。
「休憩しにいくか」
「そうっすね」
「誘ったわけじゃない」
立ち上がった降谷にこれ幸いと便乗して立ち上がった琉生に彼は呆れた。俺が休憩するのにお前が付いてくる道理は無いだろう、と。しかし特に急いでいる訳でもないので、彼と共に非常階段に向かう。彼は喫煙者だから喫煙室でも良いかもしれないけれど、どこか風通しが良い場所に行きたかった。
――安室が集中出来ないのは、琉生の机が汚いというのもあるが何より彼の頭の中での姿がちらちらと浮かんでは消えてを繰り返しているから。彼に告白してきたのことを振ったにも関わらず諦めずに降谷を見つめ続ける彼女に、降谷はどうしたら良いのかと頭を悩ませていたのだ。

困るのは、彼女が最近身に纏うようになった桃の香り。風呂上りなどの特別な場合を除いて彼女はほのかに桃の香りを漂わせている。遠くにいれば気付かない程度のそれは、降谷が彼女の隣に腰を下ろした時や、彼女が不意に彼に近付いた時に香る。本当に、少しでも動けば肩が触れるような距離でなければ気付けない程のその香りは、それを嗅ぐと同時に彼女との距離の近さを感じさせて、その上この距離にいるのはきっと自分だけなのだろうと分かっているから、何とも言えない気持ちになってしまうのだ。男だから当然良い匂いがする彼女に自然と意識が行くし、それに伴って抱きしめたくなるのだから困る。もはやそれが彼女の香りだと頭が認識するようにさえなってきているのだから救えない。
ガチャリ、と非常口と書かれた扉を開いて外に出た。
「煙草くれるか」
「あれ、珍しいじゃないですか、降谷さん。煙草吸いませんよね」
「ああ、今日だけだよ」
彼に煙草を強請ってしまったのも、そのせい。思い出してしまった彼女の香りを鼻先から消したくて、わざと普段は好まない煙草を一本彼から貰う。非常階段のフェンスに背中を凭れさせ、彼愛用のジッポで火を点けてもらい、煙を吸い込む。
――不味い。
思わず眉を顰めた降谷に、だから勧めなかったのに、なんて彼が全くそんな風に思っていない様子で嘯く。よくもまあ抜け抜けと過去を捏造できるものだ。後輩の言葉に苦笑しつつ、ふぅ…と煙を吐き出す。非常階段から見える、広がる青空に煙がふわりと漂って消えてなくなる。肺にまでこの苦いだけで美味しくない味が到達している気がして、降谷は無意識にの香りを思い出していた。馬鹿か、何の為の煙草だ。
「はぁ……」
「どうしたんですか、降谷さん」
なんて同じように煙草を吸う彼の顔はこの煙臭さに満足しているようだった。女子の前で吸うと嫌われるから、と言ってそれだけは貫く姿勢は賞賛に値するがそんなことが出来るなら禁煙すれば良いのにとも思う。スパイとして乗り込むなら匂いですら自分を特定するものになるのだから。
今日溜息多いっすね。ふうと煙を吐き出した彼はちらりと降谷を見る。溜息が多い理由は勿論絡みだ。ここ最近の降谷の頭を悩ませているのはそれしかない。
「いや…お前だったらどうする?妹のように大切にしている女から好きだと言われて断っても諦めてくれない時」
「んー……相手にもよりますけど、俺は取りあえず付き合いますかね。降谷さんは好きじゃないんですか?」
今までに女とはそれなりに付き合ってきて経験があるのはこの男とて同じだろう。そう思って彼に訊ねてみた。降谷も彼の場合も女性側から告白されることなど別段珍しくも無いことだから。彼は降谷の問いに数秒考えてふっと笑った。彼の欲望に忠実な答えは予想していたが、好きかと訊かれて瞑目する。それとこれとでは話が違うのだが、彼は気付いていないようだ。
「好きだよ。だけど、大切だから軽い気持ちで傷付けたくない。俺は彼女が幸せならそれで良いんだ。安室透なんて仮面を着けた男よりも、相応しい男なんて沢山いる」
好きか、なんて答えは当然好きだ。その好きは彼女が求めるラブではなくライクだけど。彼女が普通に好きな女なら彼が言う通り付き合っていたのかもしれない。一時を楽しむだけの相手として。だけど、彼女は降谷に向けられた銃口の前に飛び出してきた。彼女は攻撃をくらわないと思っていたからだろうが、結果として降谷に弾は当たらず彼女の肩には銃創が残っている。あの時彼女がいなければ、確実に降谷はどこかしらに銃弾が撃ち込まれていた筈。それが心臓だった場合もありうる。否、あの男は確かに心臓に狙いを定めていた。
降谷はに恩がある。自分を顧みず降谷を守った彼女を、どうして軽い気持ちで傷付けられよう。だから彼女の気持ちに応えることは出来ないのだ。それに付き合ったら必ず別れが来る。今までだって、そうやって愛を囁き合った相手たちとも終わりが訪れた。降谷は彼女とそんな風に簡単に壊れてしまうような関係になるのが嫌だった。だから友人を貫きたい。

 ぼんやりと宙を眺める降谷に琉生はそれじゃあと声をかける。
「その子に俺の友達紹介しましょうか?新しい恋を見つけたら降谷さんのこと諦めるかも」
降谷の言葉にふーんと頷いた彼は煙で輪っかを作りながら提案してくる。ふわりと浮いたそれが形を無くしていく。の恋心もこのように簡単に消えてしまえば良いのに。具体的にどういう男なら良いんです?と訊いてくる彼はスマートフォンを取り出してアドレス帳を開いて友人を探している。今彼女いないの誰だっけな…と呟きながら名前をピックアップしていく彼に、降谷は言葉が詰まった。
「……それが思いつかないんだ。想像しても、いつも自分が彼女の隣にいる。幸せにするのも、守るのも、喜ばせるのも全部自分がやってやるんだって思ってる」
そう、どの男だったら彼女を幸せに出来るのか全く分からない。年収があって誠実でを大切にして絶対に泣かせないような男。完璧な男像を仕立てあげても、結局は彼女の秘密はどうなるのかとか彼女が元々別世界の人間だったことを含めて愛してくれるのか、なんて疑問が湧いて結局どの想像の男も却下されてしまう。
――まるで、父親だ。だけど自分より下の人間には彼女を任せたくない。
自分でも矛盾しているのは分かっている。彼女を振ったくせに幸せにしたいなんて。守りたいなんて。でも大切だから彼女の為になることなら何でもしたいと思うのだ。
我が侭すね…なんて琉生が辟易した様子で煙を吐き出した。その子もとんでもない男に引っかかっちゃって可哀想に、と茶化す彼にそれもそうだなと降谷は思った。可哀想な、こんな男に恋をして。
「まぁそれは冗談ですけど。それ、もう降谷さんもその子のこと好きなんじゃないっすか?」
「は?俺が?」
彼がやる気のない、しかし鋭い光を持っている瞳で降谷を見つめる。
――俺がを好き?恋愛感情で?
彼の言葉に微かに目を見開く。先程から煙草は指で持っているだけで、溜まっていた灰がぽろりと床に落ちた。
「そうです」
「それはない。今まで女を好きになったことはあるが、こんな穏やかな気持ちじゃなかった」
冗談だろ、と彼を見やるけれど彼は至って真面目な様子で。こんなことを言うような男だっただろうかと不思議に思いながらも、今までの恋人たちをぼんやりと思い返す。大人になってからは容姿がタイプなら好きではなくても告白されて付き合うこともあったが、中高生の時などはまだ純粋だったから自分から告白することもあった。それ故人を好きになるという感情は分かる。だが、その時感じたものとに向けるものは違う。
明確に言葉にすることは出来ないが、恋とはもっと激しい感情に突き動かされ見返りを求めるものだ。に対してもたまにそういう感情を覚えることはあるけれど、恋ではないと言える。降谷はに見返りなんて求めていないから。彼女の向こう見ずな行動に胸を焦がされることはあるけれど、それとこれとは話が別だろう。
「それ、恋多き男から言わせてもらうと、もう恋をすっ飛ばして愛に近いんじゃないっすかね…」
「愛、なんて俺がそんなもの…」
携帯灰皿に吸い殻を押しこんで、二本目の煙草に火を点けた琉生がいつもの気だるげな様子で空を見上げる。
「相手に見返り無しに何かを与えたいと思うのも、自己を犠牲にしてまで幸せを願うのも、全部愛ですよ。まだ俺はそこまで到達したことは無いんですけど。それに降谷さん、その子にちゃんと恋してる気がするんですけどね」
彼の言葉で思い出すのは、彼女の笑顔。最近は満面の笑みを見られることが少なくなってしまったけれど、あの笑みを見ると降谷は胸の内が温かくなる。あの笑顔を守る為なら手を尽くしたいし、自己犠牲もある程度は厭わない。その彼女の笑みを失くしたのは自分だけれど。
「まさかお前にアドバイスされるとは…」
「俺沢山の女を好きになってるんで。降谷さんは来る者拒まず去る者追わずの方が多かったんでしょう?」
「そうだな。確かにちゃんと恋をしたのなんて数回しかないな」
もう残り少なくなっている煙草を再び口に咥えて、眉を寄せて彼に恋愛のアドバイスをされたことを笑う。苦々しい味が口の中に広がって、何でこんな物を好んで嗜む者がいるのか疑問に思った。だが何よりも疑問が浮かぶのは自分自身について。仕事仲間にここまで話したことも普段の降谷からすれば信じられないことだったし、ましてや彼がそこまで考えているということも驚きだった。
「きっと今までの女はただ恋をしてきただけで、彼女は違うから気付かなかったんじゃないですか?」
「……考えておく」
それが降谷に当てはまるか分からないけれど、恋多き男からの言葉にはある程度信憑性はありそうだ。彼の言葉に頷きながらも、降谷は吸い殻を彼が差し出した携帯灰皿に押し込んだ。帰ったらに煙草臭いって言われそうだな。脳裏に文句を言う彼女を思い浮かべて口元に小さく笑みが浮かんだのを目ざとく琉生は発見した。
「良い子じゃないすか。俺だったら付き合うけどなぁ」
「…お前、何で知った口で話してるんだ?」
「あ、」
「後藤さんか。ったく……」
「すんません。でもちょっと話しただけすよ」
長い休憩を終えて非常口から建物の中に入る。その際、背伸びをしながら呟いた彼の言葉に降谷は目付きを鋭くして彼を見た。それに「やべ」と焦った琉生。そんな彼を見て、彼がに疑惑を抱いていた後藤から何らかの指示を受けて接触していたことは察せられた。だが、それも全ては降谷を案じてだろうと分かっているから強く言えない。
は一体この男と何を話したのだろうか。降谷の許可なく勝手に彼女と接触した彼に油断も隙もないと彼の手の甲を思い切り抓った。
「いてっ。降谷さんに抓られても全然嬉しくないんすけど…」
「うるさい」
何だかんだで黒の組織と公安の人間に接触してしまっているに、どうしたらもっと警戒心を持ってくれるのかと溜息を吐いた。青空が消えて無機質な白い壁に囲まれる状況は、どことなく降谷の感情をざわめかせる。

――なぁ、。早く俺のことなんて嫌いになってくれよ。でないと、愛しさが溢れてしまいそうだ。


69:壊れかけの世界なら怖くないだろ
2015/08/27
タイトル:モス

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