マンションに着いてからスマートフォンが光っているのを確認した。誰からだ。そう思って見てみれば相手はベルモット。嫌な予感を覚えながらそれを開けば彼女の言葉が視界に飛びこんでくる。
『あんなアドバイスしてないわよ』
たったそれだけ書かれた一言メールに、安室は軽く目を見開いた。それでは、あの時安室がにかけた言葉は…。そこまで考えて安室は大きな溜息を吐いた。
――本当に僕はを傷付けてばかりだ。
どうやらまんまと安室は彼女の手の平の上で転がされていたらしい。くそ、僕が冷静を欠くなんて。己の失態に再度自己嫌悪に陥った。ぐたっとソファに座り込んでぼんやりと宙を見つめる。は既にシャワーを浴びて寝てしまっていた。謝ろうにも、今日はもう無理だ。
――酷い言葉で傷付けた。
彼女はあの男に最初から抱かれるつもりなど無かったのだ。きっとアルコールで正常な判断が出来ずに彼の言葉に頷いてしまったのだろう。それを安室はさも彼女から誘ったと言って。
「はぁ………」
馬鹿でしかない。どうしてのことになるといつものように上手く行動できないのだろう。こんなにも空回りするのは初めてだった。


 はワインを沢山飲んだ割には昨日の出来事をきちんと覚えていた。ぱちりと目を覚ました瞬間に思い出した昨夜のことに、どうせならいつものように記憶なんて飛んでくれていれば良かったのにと思った。そうすれば安室と話しても昨日のことなんて思い出さないし、変な雰囲気にもなったりしないだろうから。
「はぁ…」
憂鬱。彼がを思う故に怒ってくれたことは分かっている。だけど、まるで喧嘩した時のような後味の悪さに彼にどう話しかければ良いのか分からない。だけどもう起きないと。彼に振られた時と違っては彼から逃げたくなる程の悲しみを抱えているわけではないから。それに彼も一晩経てば落ち着いているだろう、と思って。
着替えて目が充血していないことと腫れていないことをチェックして髪の毛を梳かす。
その際に枕元に置いてあったスマートフォンが光っているのを発見した。どうやらシャロンからメールが来ていたらしい。『約束、忘れないでよ。』とだけ書かれたそれには苦笑する。昨日勝手に帰ったことはお咎めされないようだ。身体を弄られるのは怖いけれどきっと大丈夫だろうと思い、は『分かってますよ。あと昨日勝手に帰ってすみませんでした。』と送信しておいた。
「おはようございます」
「おはよう」
リビングに赴いていつものように挨拶をする。にこりと微笑んだ彼はが心配していた気持ちを払拭してくれた。良かった。いつまでも昨日のことを引きずってられないとキッチンに立つ彼の隣に立って、朝ご飯の準備を手伝う。
以前より手際良くサラダを作るに、安室もさっさとハムエッグとスープを作ってそれを皿に盛りつける。
「コーヒーですか?紅茶も淹れますけど」
「ああ、そうだね。コーヒーを頼む」
彼が毎朝コーヒーを飲むことは知っていたけれど一応訊ねればそれに彼は頷く。はそれを確認して沸騰させたお湯をまずマグカップに入れて紅茶を作る。そして挽いたコーヒー豆が入っているフィルターの上に徐々にかけた。暫くそれを繰り返して彼のコーヒーは出来上がり。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
既にテーブルの上に朝食を用意し終わった彼の前にマグカップを置く。自分の席に座って砂糖とミルクを入れた紅茶を口にしてほっと一息吐けば、彼が先程までの笑みを消してのことを見つめてくることに気付いた。それにきゅっと心臓が締め付けられる。どうしたんだろう。そんな彼に一抹の不安が過るけれど、が何かを言うよりも早く彼がその口を開いた。
、昨日は悪かった。君に酷いことをした」
「もう、良いですよ。それに私があまりにも不注意だったから…」
どうやら彼は昨夜のことを気にしていてくれたらしい。としてはその話を蒸し返されると居心地が悪くなるし、彼との雰囲気もギクシャクしてしまいそうだからもう彼が昨日のことで悩まないでほしかった。
そもそもが高田の言葉を理解していなかったり、調子に乗ってワインを飲んだのが悪かったのだし。
「お詫びに今日はの行きたい所に付き合うよ。どこか行きたい所ある?」
「行きたい所ですか?えっと……」
だが彼はそれでも気にしているようで。彼は優しいから。普段は狡かったりをからかってくる彼だけど、はそんな彼の律義さを知っていた。
突然彼から行きたい所と訊かれても咄嗟に思いつく所は無く。しかし、丁度テレビのコマーシャルで動物園が出てきたのを見ては「あ」と思った。動物園、か。は陸の動物をあまり知らない。テレビでたまに見るけれど、元々航海中に上陸する島々は人がいる整備された島ばかりで野生動物とはそんなに遭遇したことが無かった。の場合、悪魔の実を食べるまでは生身で野生動物と遭遇したら即死んでいただろうし。新世界の野生動物なんて危険極まりない。捕食対象の小動物を除けば。
「動物園に行きたいです」
「分かった。じゃあ食べて用意してから行こうか」
の言葉に彼は口元を綻ばせた。私パンダが見たいんですと一番見たい動物を伝えれば、じゃあパンダがいる所に行かないとねと彼は頷く。後でパソコンで調べるらしい。はあの白と黒で出来た熊が好きだった。何しろふわふわしていて柔らかそうだし癒される。
――安室さんと動物園デート…。お洒落しなきゃ。
朝食を食べながらはどの服を着ていこうかと考えていた。


 動きやすさを重視したは、薄手のカーディガンにふんわりひらひらしたキャミソールにデニムパンツを着て安室と共に動物園に来ていた。渋滞も無く空いていた為それ程時間がかからずに動物園にやって来れたのだが、来場者はそれなりに多かった。
最初にやって来たのは象のコーナー。長い鼻と巨体を持つ動物には目を丸くした。
「うわ〜、大きいですね」
「ああ。アジア象は平均的に4.2tあるんだよ」
長い鼻で果物を掴んでもしゃもしゃ食べているその様子は巨体に似合わず穏やかだ。安室の象に関する話を聞きながらも、は一頭の象が筆を持ってキャンバスに絵を描きはじめたのに笑った。すごい、象が絵を描くなんて。隣で安室がと良い勝負なんじゃないか?なんて茶化してくるのにそうですねと答える。芸術家の象なんてすごい面白いだろうなぁ。
 手長猿やオランウータンなどのコーナーを見ながら毛の色が安室さんと同じ色なんて笑ったら彼が馬鹿にしているのかと頭を小突いてきたり――その際、ライオンの方が色的に合ってるだろと彼は言った――、キリンを見てこの首の長さは一体どういうことがあって伸びてしまったのかと驚いたりしたはライオンやトラがいるコーナーに来ていた。
「ライオン!格好良いですね〜!」
「夏場だとぐったりしてることが多いけど元気そうで良かったね」
檻の中でぐるぐる回っているオスライオンには目を付けた。凄い立派な鬣だ。テレビでライオンを見たことがあったはネコ科の王様であるライオンに興味津々だった。今までに一度も現実に見たことが無かったから。どんな風にじゃれるんだろう!と思って檻のすぐ側に生えていた猫じゃらしのような雑草を引き抜いてその先っぽを檻の前で揺らした。
「あ、こら、!」
「ガルルルル!!」
「わっ」
猫がじゃれてくるような感覚で待っていたにとって、ライオンが大きく吠えたことは予想外だった。雑草を檻に伸ばしたに気が付いた安室に手を引っ張られたと同時にガシャンッとライオンが檻に巨大な前足を押し付ける。ギラリと尖った爪が檻に食い込んでいるのを見て、あれが当たったら痛そうだなとは他人事のように考えた。
「駄目だろ、注意書きにも書いてあるのに」
「すみません、見てませんでした」
看板を指差す彼にそういえば見ていなかったと今更ながらにその存在に気が付いた。ネコ科っていうから図体が大きくても可愛い反応を貰えると思っていたのに。今度からは手を出さないようにしようとは決めた。そんなを見て安室は「冷や冷やさせるなよ」と苦笑する。呆れたようでもありながらほっとしたその微笑にどくんと胸が高鳴る。虎を見に行く為に足を動かした彼の背中を見て、は手を伸ばした。
「――あの、安室さん…!手、繋いで良いですか…?」
「……仕方ないな」
思い切って握ったのは、彼の左手。自分から手を繋ぐというのは酷く勇気がいることで、ばくばくと心臓が五月蠅く喚いて顔に熱が集まった。返事を聞くよりも前に触れたに、彼はふっと笑う。彼の呆れた声と共に、の手は彼の手に包み込まれた。良いんですか。慌てて彼を見上げれば、彼は仕方ないだろと片眉を下げて。
は手綱を握っておかないと何するか分からないんだからさ」
「た、手綱って…!もうそんなことしませんよ!」
手を繋ぐことに何か特別な意味があるわけじゃない。そう言外に述べる彼だけど、の手を拒絶しなかった彼に嬉しくなる。だって、何か理由があっても彼と手を繋ぐことが出来るから。手綱なんて不名誉なことを言われてしまったけれど、それでもかまわない。
どっどっと心拍数が速まるのを感じながらも、はその手を握り返した。
 虎や猛獣類を見てその恰好良さに目を丸くしたり、通路を飼育員と共に歩くペンギンの雛たちの行進に吃驚したと同時に興奮して捕まえに行こうとしたの手を安室が引っ張ったことでどうにか動物園側から怒られることを防いだり、とまたもや事件があったわけだが、とうとうパンダのコーナーに到着した。
「あれがパンダ……。可愛い……!!見てくださいよ、安室さん!」
「見てるよ。良く食べる所なんてそっくりじゃないか。ほら、笹をあんなにむしゃむしゃ食べてさ」
遊具で遊んだり寝転がりながら笹を食べているその丸いフォルムには癒されているというのに、隣で安室があははと笑いながらをからかってくる。もしかして猿のコーナーで毛色が一緒なんて言ったのに対する報復だろうか。お猿さん可愛いのに。でも、はパンダに似てるなら良いかなと思った。パンダは見た目が丸くて可愛いしから。人間だったらただのデブって言われちゃうのに、動物だったらそちらの方が可愛いと言われるのだから理不尽である。
「ああ、ぐうたらな所も似てる」
「ちょっと、まだ言うんですか。それに私そんなにぐうたらしてませんよ」
くつくつと笑っている彼にむっとして声を上げる。そんなこと言ったら安室さんはやっぱり猿とそっくりだ。頭が良くて小狡い所なんて本当に似ている。いつもは彼の明晰な頭脳に翻弄されているのだから。
大体そんなことを言い出したらこの前、安室はリビングで寝ていたというのに。
「知ってる。冗談だよ」
「あ、ぅ、そうですか」
どきっと心臓が跳ねた。の言葉に口元を綻ばせて見下ろしてくる彼の眼差しが予想以上に柔らかくて。久しぶりに彼のこんな笑みを見た気がする。最近はどことなくを刺激しないような笑みが多かったのに。
自然体の彼に胸が締め付けられて、嬉しくなって、彼と今こうしていられるだけで幸せなのに、その笑みを見てはどうしてもその先を望んでしまった。


66:不器用すぎていとおしかった
2015/08/26
タイトル:モス

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