パーティを楽しんで数時間。その頃になってしまえば美味しい料理に美味しいワインという相乗効果で、いつも以上にワインを口にしていたはふらふらと覚束ない足取りで高田と話すことで精一杯だった。そろそろ帰りたい。なんて思うけれどシャロンを目で探せば彼女は数人の男性に囲まれて何か楽しそうに話していたので、きっとまだ帰れないだろう。
さん、大丈夫?」
「えーと、ちょっとつらいです」
を支えてくれている高田が心配そうに覗きこんでくる顔に再度良い人だなぁと思った。のことなんて放っておいてシャロンみたいに美人な女性と話せば良いのに。
へらっと締まりのない顔で笑ったら、彼は苦笑した。
「少し部屋で休憩する?」
「あー…はい、きゅうけいします」
「分かった。じゃあ行こうか」
帰る時間になるまで休むのもありかもしれない。そう思って彼の言葉に頷いた。をエスコートして歩く彼にお礼を言って彼についていく。眠い。今すぐ寝てしまいたい。彼がを連れて行ってくれるのでどこかにぶつかるようなことはないだろうとは何度か歩きながら目を閉じていた。
その間にどうやらはエレベーターに乗り込んでいたらしい。ガラス張りの壁から外の夜景が見れてそれに見とれた。どうせだったら安室さんと一緒に見たかったな。
20階で止まったエレベーターから降りるとふかふかの絨毯が足の裏に感じてぼんやり見下ろす。裸足でも歩けそうだった。ぽやー、と何も考えずに彼が開けた部屋に入る。
「高田さん、ありがとうございました…」
「良いんだよ。君とはもっと静かな場所で話したかったから」
ソファに座らせてくれた彼に礼を言うと彼はにっこり笑った。それには亀並みに遅くなった思考で考えた。あれ、高田さんはパーティに戻らないの。
私はシャワーを浴びたいけどどうする?と訊いてくる彼に別に大丈夫ですとは答えた。初対面の人の部屋でシャワーを浴びるなんてそんなに厚かましくないつもりだ。
「積極的だね。嫌いじゃないよ」
「???」
を見て嬉しそうに笑う彼の言っていることは良く分からない。何でシャワーを浴びないことが積極的なのだろうか。話が噛み合っていない気がする。眠気が最高潮に達して今にも寝てしまいそうな所を何とか抑えつけているこの状態で、は思考するということが全く出来ていなかった。
「ほら、おいで」
「はぁ…」
背広を脱いでベスト姿になった彼がの手を取って立たせてベッドの横の窓際に連れて行く。綺麗だろうと言う彼にはいと頷く。綺麗だけど、彼女は眠くてもうそれ所じゃない。まだパーティは終わらないのだろうか。
そんな彼女の肩に彼の手が触れて近づいてくる彼の顔を見て、彼女は漸くはっとした。
「え、あの、何ですか?」
「何って、キスを」
目の前に迫ってきた彼の唇に思わず肩を押せば彼はきょとんとした顔でそう言う。え、キス!?どうして高田とが。そう驚いている彼女に彼は初心だなぁなんて笑う。いや、あの初心とかそういうのの前に私は別に高田さんのことを好きじゃないんですけど。
「さっきまでは積極的だったのにそうやって私を焦らすのか」
「え?積極、的…??」
彼はのどこを見てそう言っているのだろうか。とりあえず彼から離れようと足を動かそうとするけれど、その前に彼が彼女の腕を掴んで逃げられなくなってしまった。困惑する彼女に彼はとぼけるなよと微笑む。
「この部屋に来たのはそういうことだろ?嫌だったら来なければ良いんだから」
「あ、あの、私別にそういうつもりで言ったんじゃなかったんです…」
部屋で休憩するということ。その言葉を聞いて数秒経っては漸く理解した。あの時の彼の言葉はの身体を案じてのことではなく、誘っていたのだということに。彼女はそれに気が付かない程酒を飲んでいたから本当に表面上の意味しか読み取っていなかった。ごめんなさい、と謝って彼を見るけれど彼は「そう」と頷いて彼女の腕を離さない。尚且つとんと彼女の肩を押してベッドに倒した。
「た、高田さん…?」
「大丈夫。私がさんをその気にさせてあげるから」
慌てて起き上がろうとしたの身体に覆いかぶさってくる彼に、彼女は目を見開いた。頭からは完全に酔いが飛んでどうにかしないとと彼の身体を押し返そうとするけれど、頭以外の身体はアルコールで力も入らなくて彼女は恐ろしくなった。何でこんなことになってるの。彼の言葉の意味を考えなかったの自業自得かもしれないけれど、容赦ない神を恨んだ。は安室のことが好きなのに。
高田はその言葉通りのことを優しく扱う。そっと頭に触れてくる彼に、それでも彼女は涙を流した。
――怖い。安室さん。こんな時に脳裏に浮かぶのはここに来てくれる筈もない彼の姿で。
「やめてください、高田さん…お願いですから、嫌です…!」
「泣かないでよ。悪いことをしてるみたいじゃないか」
ぐいぐいと彼の肩を押して涙を流すを見下ろす彼の顔は笑顔だった。悪いことをしている、なんて思ってもいない顔にはぞくりと背中に悪寒が走る。彼は全く罪悪感なんて覚えていない。
初めてなのかな。痛くしないから安心して。そう言う彼に恐ろしくて身体が震えた。恐怖から声は出ない。ただ、止めどなく涙は溢れて。身体をまさぐる彼の手にガチガチと歯がぶつかって音を立てる。気持ち悪い。怖い。やだ、やだ。
「やだ、安室さん、安室さん……っ」
ぼろぼろと涙をこぼして彼の名を呼ぶ。その時、カチリと何かが回った音がした。それと同時にバンッと乱暴に扉が開かれて、足早にやって来た男がの上に覆いかぶさる高田の襟を掴んで引き離し鳩尾を殴って気絶させる。それは、安室だった。助けてほしいと願った安室だった。
だけど、に振り返った彼の表情は無。それでも分かる。彼が全身から怒りを放っていることが。震える腕でどうにか上半身を起こして恐る恐る彼を見やった。
「安室さ――」
パシン、と乾いた音が響く。それは安室がの頬を叩いたから。痛みは感じない。だけど彼がに手を上げたことが信じられなくてぽかんと見上げる。ただ、その瞬間止まりかけていた涙がまた溢れ出して、遅れて悲しみに襲われた。張り詰めていた緊張の糸が切れるように、堰を切って溢れ出したそれはただ彼女のドレスを濡らす。そんな彼女の手を乱暴に引いて起こした彼は無言で彼女を連れてこの部屋から出た。
の歩幅を考えず無言で足早に歩く彼が今までになく怒っているのだということを彼の背中から感じ取った彼女は声をかけることが出来なかった。何と言えば良いのか分からなかったのだ。助けてくれてありがとう、なのか、それとも迷惑をかけてごめんなさいなのか。ただ、涙だけは勝手に流れ落ちてぽたぽたと頬から絨毯に落ちていく。
ぎちぎちとの手首の骨が軋む程強く握りしめる彼の手。能力が無ければ赤く痕が付いていたかもしれない。エレベーターから降りて駐車場に向かう彼に彼女は時々躓きながらも必死について行く。慣れない華奢なハイヒールが今ここで彼女の足を引っ張った。全部、彼に大人っぽいと思ってもらいたくて選んだものなのに。
見慣れた白の車の前にやって来て、は彼に手荒く助手席に乗せられた。バタンッと大きな音を立てて閉められた扉。彼もまた運転席に荒々しく乗り込んで扉を閉める。広がる静寂が恐ろしかった。
「…あの、仕事は……」
「もう終わった」
この突き刺すような沈黙に耐え切れずに声を上げれば、彼から冷ややかな声が返ってきた。こんな声を自分に向けられるのは初めてで、は俯く。喧嘩した時でさえ、こんな風に冷たい声を出さなかったのに。彼を怒らせているのは紛れも無く彼女だった。
「軽率だと思わないのか」
「…ご、ごめんなさい…っ」
ちらりと横目でを見やる彼の瞳が責める。の行動が考え無しで、馬鹿で、自業自得でしかないと。それに胸が痛んだ。零れる涙を指で拭ってもそれは止まる術を持たなくて。ただ、彼の怒気にあてられた身体は小さく震える。
「――何で自分の身体を大切にしないんだ!酒で男を誘って、僕が慌てる様は楽しかったか?」
「ちが、わたし」
今まで抑えていた激情が溢れ出したのか、ガッとの肩を掴んで安室の方へ身体を向かせた彼。その言葉に胸が軋み、悲鳴を上げた。
――何でそんなこと言うの。私はそんなこと全く考えていなかったのに。
ぼろぼろと涙が頬を伝う。ギラギラと怒りで染まった彼の瞳に、悲しみと僅かの恐怖が心に溢れて。嗚咽を押さえられなくて泣きじゃくれば彼はそれにも苛立ったようで眉を寄せる。
「そんなに誰かに抱かれたいんだったら僕が抱いてやろうか」
「いや!やめて安室さん!怖い、やだ…!」
眉を寄せた彼がのドレスを乱暴に脱がせようとしてくるのには抵抗した。恐ろしくて、悲しくて、どうして彼はこんなことをしてくるのか理解できなくて。ただガタガタ震えて涙が頬を伝う。を見る彼の瞳はいつものような優しさは消え失せて、ただ激情に燃え上がっていた。しかし、涙を流して抵抗するに彼の手はぴたりと止まる。
「…これに懲りたらもう二度とこんなことをするな」
しゃくりあげるから視線を逸らした彼が、大きく溜息を吐く。運転席の背もたれに背中を預けた彼を恐る恐る見やった。ぐっと寄せられた眉が、彼の怒りや苦悩を表しているようで。震える手で乱れたドレスを元に戻せば、彼は「怖がらせてごめん」と小さく謝る。それに無言で頷く。ただ、まだ暫くは涙が止まりそうにない。
「だけど、頼むから僕の寿命を縮めさせるなよ…」
「ごめんなさい……」
ぐっとハンドルに凭れかかって、何かを我慢するかのように吐き出された言葉には謝った。の考え無しの行動が彼を不安にさせたのだろう。彼が来てくれなければ、はあのまま高田に抱かれるしかなかったのだから。彼はに身を持ってそれを教えてくれたのだ。
――私が馬鹿だから。
地下の駐車場からは街の夜景も夜空も見ることは出来なくて、はそっと目を伏せた。


 隣で先程よりも落ち着きを取り戻し静かに涙を流すを見て、徐々に安室の怒りが収まる代わりに罪悪感が生まれてきた。だが、こうでもしなければきっと彼女は自分がどれ程愚かなことをしていたのか気付かなかっただろう。
――あの時、パーティ会場にベルモットと共にが現れた時、正直目を見張った。上品な総レースのドレスに普段より大人っぽい化粧。華奢で高いヒールの黒のサンダルはリボンを結んで足首を固定する物で彼女の脚の白さが強調され、大きく開いた背中からは健康的な背筋が露わになっていた。うなじで結ばれているリボンがきっとこのドレスのボタンの役割をしているのだろう。それは、簡単に解けてしまいそうだった。
彼女を見て、着る物や化粧でこんなに変わるものなのかと驚いた程だ。ベルモットのように熟成された妖艶さは無いけれど、それでも肌が透けているように見せるそのドレスは周りの男達の視線を少なからず集めていたし、彼女が年少に近い為初物として見定められているのも分かった。それに微かに苛立つ。
だが安室はこのパーティの主役の男から彼が持つ宝石を付け狙う犯人を捜し出してくれと依頼されていた為ボーイとして客の様子を探らなければならなかった。それはもともと、組織の取引先である男の様子を調べることのついでであったが、まさかベルモットがそれに彼女を連れてくるとは思ってもみなかった。それ故彼女のことは後で問いただそうと決めていたのだが。
ちらちらと視界に入る彼女はパーティの雰囲気に煽られたのか楽しそうに料理と酒を楽しんでいて。その傍には40代の紳士に見える男が付いている。それだけなら良いと思ったが、彼女は段々酔ってその男にしな垂れかかっていた。それに対する男の反応は満更でもなさそうで、安室は彼女の酔いを醒ます為に水を差し出したのだ。
「どうしてシャロンといたのか後で訊くから」
その言葉だけでなく、無防備に男の身体に凭れるなと言ってやりたい所だったが招待客の関係者であると気付かれるのは得策ではない為それだけ伝えて彼女から離れた。
その後は無事に犯人を絞り込むことが出来て安室はそろそろ帰るかと周囲を見渡せば、丁度会場の扉から男と共にが出て行く所で。その足取りはふらふらとしていて男が支えていなければきっと倒れていただろう。
安室は彼女たちを見てから男達に囲まれているベルモットのもとに向った。
「お客様、ベルモット様よりお電話がきているのですが、如何なさいますか?」
「ええ、今行くわ」
にこっと彼女に笑いかけて会話を中断させれば、彼女は男達にまた後でと笑って安室に付いてくる。会場から出て、人通りの少ない通路に入り込んで安室はその笑みを消した。
「何故をここに?」
「振り向かせたい男がいるって言うから、アドバイスしてあげたのよ」
何故ここに呼ばれたか分かっている様子でふふ、と不敵に笑った彼女。その答えに安室は苛立った。そんなことの為にベルモットと会うなんて。彼女はベルモットの危険度を知らないから仕方がないけれど、それでもどうして安室の言うことを聞かないのか。だが、彼女の次の言葉に意識を持って行かれる。
「まずはその乳臭さを無くす為に“初めて”を捨てなさいって」
赤いルージュが引かれた唇が弧を描いて安室を挑発する。それにカッと頭に血が上った。ベルモットのアドバイスにも、彼女がそれに素直に応じていることにも。ぐっと握りしめた拳がわなわなと震える。
「――あの男の部屋は?」
「確か2014号室よ」
――馬鹿か。
すぐに彼女から離れてエレベーターに向かう。しかしその前にピッキングする為の針金が必要だった。バックヤードに戻って針金を探している間にも刻々と時間は過ぎていく。
――何をやってるんだ、は。
苛立ちと焦燥が安室の身体を蝕む。漸く発見した針金をポケットに入れて安室は急いでエレベーターに向かった。今にも、彼女が好きでもない男に抱かれているのかと思うと激情が溢れてしまいそうで。何で、自分で自分を傷付けに行くんだ。チン、と20階で止まったエレベーターから降りて足早にその男の部屋に向かう。カチャカチャと今までになく早く鍵を開けた。
「やだ、安室さん、安室さん…」
その時、が安室の名を呼ぶ声が聞こえた。か細く震えるそれに、ぎゅっと心臓が締め付けられる。
開け放った扉から見えた光景に一瞬頭が真っ白になる程怒りが溢れたが、それを急激に冷まして安室は泣いて震える彼女を救い出した。だが彼女を見た途端再び怒りが湧いてきて。
――嫌がるくらいなら最初から付いて行くなよ。泣くほど怖かったなら何故抵抗しない。何を考えてこんなことをしたんだ。
彼女の軽率な行動全てを責めたくて、安室は彼女の頬を叩いた。強くしたつもりではなかった。それに彼女は痛みを感じないから。だけど、目を見開いてから涙を流した彼女が瞼から離れない。安室がしたことが信じられないといったその表情。彼女に手を上げたのはこれが初めてだった。彼女の瞳とその事実は安室を責める。
それにも関わらず乱暴にを引きずってここまで来たのだ。自分でもどうしてここまで怒っているのか理解できなかった。彼女が安室の為に自分の身体を傷付けようとしていることが許せなかったのもあるけれど、それ以外にも何かありそうで。今までにない程自分で自分をコントロールできていない状況に、自己嫌悪した。

――僕はを傷付けて泣かせてばかりだな。
「笑顔にしたいのに…」
泣き疲れて浅い眠りについている彼女の横顔を見つめる。頬には涙を流した痕が残っていた。それを優しく人差し指で拭ってから安室が叩いた左頬を慈しむようにそっと何度も撫でた。叩いてごめん、と謝りながら。
望んだのは、こんな関係ではなかった。もっと、穏やかで楽しいものだったのに。
――どうして、君を傷付けることしかできないんだろう。
こんな風に彼女を泣かせることしか出来ない安室のことなど、さっさと諦めてくれれば良いのに。そう思って、彼女の前髪にそっと唇を寄せた。


65:なんで上手に愛せないんだろう
タイトル:モス
ホテルの廊下の窓から下を見下ろしたベルモットは、地下駐車場から出てきた白いマツダRX-8を見て楽しそうに笑った。彼はベルモットの思惑通りに踊ってくれたから。
「馬鹿ね…私の嘘に気付かないなんて」
普段であったらどんな嘘でも敏感に察知して気付く彼が、あれ程までに簡単に騙されるなんて。それ程彼は焦っていたということ。
――それは偏に…。
スマートフォンを取り出して彼にメールを打つ。
『あんなアドバイスしてないわよ』
ピッと送信ボタンを押してベルモットはくつりと笑った。今頃あの車内はどうなっているだろう。

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