ぐぎゅるるるる…と凄まじい腹の音と横腹に感じる硬い床の感触には目を覚ました。あれ、ここ、どこだっけ。ぼんやりとした頭で上半身を起こせば、ぱさりとの身体にかけられていたタオルケットが身体から離れた。きょろきょろと周囲を見渡して気付いた。ここは工藤家だ。どうやらは一心不乱に絵を描き続けてそのままこの部屋で倒れるように眠っていたようだ。身体にかけられたタオルケットはきっと、沖矢の厚意だろう。
申し訳ない。そう思うと同時に、安室に帰ると言ったのにこんな所で寝ていたことを思い出した。
今はとても微妙な関係だと言うのに、何てことをしてしまったんだろう。ふと目の前にある自分が描いた絵を見やれば赤々と太陽が光を放っていた。夕焼けなのに、吃驚するくらい。
この絵を描いている時、はただ無心に安室への好きという気持ちをぶつけていた。そうなると無心ではないのかもしれないけれど。しかし、そのおかげでどことなくすっきりした気がする。一日以上経って、漸く彼に振られたことを受け入れられた。
さん、おはようございます。とは言ってももう昼ですが」
「あ、沖矢さん。すみません、昨日このまま寝ちゃってたなんて…」
コンコン、と扉を叩いて入ってきたこの家の家主には頭を下げた。彼はどうやら一度夜中に起きて死んだように眠るにタオルケットをかけてくれたらしい。本当に感謝してもしきれない。何故床に寝かされたいたのかは分からないけど、あらぬ誤解を招きたくなかったのだろう。
だが、何よりもお腹が空いて仕方がない。喉もカラカラだった。それもそうだろう、昨日は全く飲食しなかったのだから。
「お腹が空いているでしょうから少し早いお昼にしましょうか」
「ありがとうございます」
盛大にお腹を鳴らしたを笑って、沖矢はキッチンへと向かう。それにも付いて行った。


 沖矢は隣で腹の虫を盛大に鳴らしながらも料理を手伝うを見やって昨夜のことを思い出していた。
彼女は安室が帰った後も相変わらず絵を描き続けていた。沖矢にはいつまで彼女が描き続けているのか分からない。だがこのまま彼女を見ているわけにもいかず、書斎から持ってきた本を本棚に戻す為に彼女の部屋から離れる。この調子だと突然ぷつりと糸が切れたように倒れて眠るかもしれないが、そっとしておこう。
書斎に本を戻して寝室に向かう。出来れば彼女をきちんとした場所で寝かしてやりたいが、彼女が寝る時間まで沖矢は待てなかったし待つつもりもなかった。彼女が盗聴器をしかけるかもしれない、なんてことはただの杞憂だろうし起こったとしてもすぐに取り除けば良い話。彼はベッドに横になって目を閉じた。
 沖矢は夜中に一度目を覚ました。時刻は2時。きっと家に彼女の気配があるから良く眠れなかったのだろう。彼女は今頃どうなっているのかと思ってベッドから起き上がる。流石にもう絵を描いていないだろうと思って、彼女の身体に駆ける為のタオルケットを持って彼女の部屋に向かう。暗闇の中煌々と光を放っている彼女の部屋。その眩しさにぐっと眉を寄せながらも部屋を覗きこめば、彼女はキャンバスの前で筆を握ったまま倒れるように寝ていた。
――やはりこうなっていたか。
タオルケットを椅子の上に置いて彼女の手から筆を取ってサイドテーブルに置く。手や顔に所々絵の具が付いているがもう乾いているだろうということでそのまま彼女の身体にタオルケットをかけた。ベッドに運んでやる手もあったけれど安室に何もしないと言った手前、その言葉通り何もしないことにしていた沖矢は彼女が深い眠りについているのを確認して部屋の電気を消して寝室に戻ったのだ。
そのおかげで彼女は一晩床で過ごしたわけだが若いから身体の節々の痛みなどすぐに消えるだろう。死にそうな顔で「お腹空いた…」を連発するの横顔を見ながら沖矢は「あと少しで出来ますよ」と彼女を励ました。


 ぱくぱく、と今まで食べていなかった分のご飯を体内に取り入れたは漸くそこで落ち着いた。盛大に鳴り響いていた腹の虫も今では静かだ。沖矢はそんなを見て若干固まっていたけれど。としても自分を抑えられなかったのは分かっていたのですみませんと謝っておく。彼はすぐさま大丈夫ですよと笑ってくれたけれど、いったい何が大丈夫なのだろうか。少し恥ずかしい。
「そう言えば、昨日彼が来ましたよ」
「えっ」
「やはり気付いていなかったんですね」
何てことはないように伝えてくる沖矢には目を丸くした。安室が来てくれたのか。何時頃かと訊けば19時頃だったと教えられる。どうやらに声をかけたらしいが、が反応しないのでそのまま帰ったらしい。それではは折角の彼の厚意を無碍にしてしまったのか。全く安室の声に気付かなかった自分が憎い。無理やりにでも意識を現実世界に戻してくれれば良かったのに。
さんのこと、心配していましたよ」
「そう、ですか……」
彼の言葉にゆらゆらと瞳が揺れる。ぎゅっと拳を握りしめて、彼が心配してくれたことへの喜びを抑えようとした。安室さん、迎えに来てくれたんだ。でもどうしてがここにいることが分かったのだろうか。だが、それは別に問題ではない。
――今日は少しだけ絵を描いて帰ろう。
そう思っては食器を沖矢と一緒に洗う。その後、部屋に戻って再度絵を見つめた。
この絵が出来上がった時にはタイトルを「世界の始まり」にしよう。が安室と向き合う勇気をくれて彼女にとって今日が新しい日になったという意味と、一日の終わりであっても必ずまた朝日は昇るという意味から。


今から帰ります、と安室にメールを送ってから数十分。はマンションの玄関の前で震える息を吐き出した。大丈夫、きっと大丈夫。今はまだ今まで通りのような関係には戻れないと思うけれど、きっとそのうちいつものように一緒に笑いあえるようになる。そう言い聞かせて扉を開けた。
「おかえり」
「――た、ただいま…」
だけど安室が玄関で待ち構えているとは思いもしなかった為びくりと肩が揺れた。腕を組んでこちらを見やってくる彼はむっとした表情で、見間違えでなければ目の下に薄らと隈が出ている。いつまでも玄関を開けっ放しにしているわけにはいかないので、はごくりと生唾を飲み込んで扉と鍵を閉めた。
だけど彼はその場に立ったままで、は玄関から先に上がれない。もしかして、怒っているのだろうか。沈黙が痛い。ちらりと足元から彼へと視線を向ければ、彼ははぁ…と大きく溜息を吐いた。
「心配で眠れなかった」
一人暮らしの男の家に外泊なんて、何かあったらどうするんだよ。そう言う彼の言葉の端々からを思いやる気持ちを感じられて、はぼろぼろと涙を溢れさせた。本当なら、安室はを振ったんだから関係ない、なんて言えば良かったのかもしれないけれど。大体、安室さんは私のお父さんじゃないでしょ、とか。色々思ったけれど、最終的に彼にこんなに心配をかけさせたのは自分なのかと思えば、嬉しくて。ここまで心配してくれる事実に胸が締め付けられて。
「泣くなよ。お願いだから、僕がいない所で泣くな…」
「…っ、ふ、うっ」
涙を拭おうとするの手を引いて玄関からリビングに誘導する彼に、は従った。泣きじゃくるをソファに座らせて彼も隣に座る。ただ、握られた手が温かい。
「悪いのは全部僕なんだから、僕の前で泣いて」
怒りも悲しみも、全部受け止めるから。そう言っての涙を拭う彼に、我が侭で、相変わらず狡い人だと思った。だけど、それと同時にこの恋を諦めたくないと思った。この人をどうにかして振り向かせたい。の気持ちを受け取ってもらいたい。そして、一緒にいてほしい。
――安室さんが好き。
この気持ちを、簡単に捨てられる筈がなかった。きっと、離れたっては彼のことが忘れらない。
「僕を罪悪感で一杯にして苦しめれば良いよ」
「安室さん、ドMだったんですか…」
「酷いな。のことを思っての言葉なのに」
優しく囁く彼にはぐすぐすと鼻を啜りながら彼にとっては思いも寄らぬ言葉を投げかけた。そんな雰囲気ではなかったことを承知の上で。苦笑して言う彼の言う通りだということは分かっている。だけどふふと笑った彼に、彼女も久しぶりにくすりと笑った。それに、安室は「漸く笑ってくれたね」なんて安堵したように言うから。彼もきっと、色々考えていたのだろう。が告白したせいでまだギクシャクしてしまった関係に頭を悩ませていたのかもしれない。けれど、これを機に今まで通り他愛ない話をできるようになれば良い。そう思った。
「僕はが幸せになれるまで見守ってるよ」
「安室さん…」
そうやって優しく残酷なことを言う彼。だけど、は負けない。彼のことを振り向かせると決めたから。すうっと息を吸い込んで安室のことを見つめる。震えて動かない唇に命令をかけて、は口を開いた。
「――わ、私の幸せはっ、安室さんに好きになってもらうことです。だから、絶対…振り向かせてみせます…!」
目を丸くしている彼に啖呵を切った。安室さんの心を、奪ってみせる。だって、は海賊だ。奪うことは海賊の生業。海賊は奪うのが難しい財宝が目の前にあればある程やる気は燃える。誰からも奪ったことがないでもその気概は備わっている筈。だから、燃えさせてみせる。
震える唇では恰好はつかなかったかもしれないけれど、それでもかまわない。宣戦布告してやった。
だから覚悟して。あなたに振り向いてもらう為なら、私は何だってするから。たまに弱気になって泣く時もあるかもしれないけれど、諦めない。彼に振り向いてもらえるまで、はこの恋を守り続ける。
「困ったな」
「もっと困らせますから」
そう口にした彼は、ふっと笑っていて全然困っているように見えない。きっと、が元気を取り戻したことが嬉しいのだろう。彼はのことを本当に大切にしてくれているから。本当に。が勘違いしてしまうくらいに。


61:しあわせになってと願うことすら傲慢ですか
2015/08/23
タイトル:ジャベリン

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