気まずい。ベッドから起き上がって最初に思ったことはそれだった。昨晩は安室が気を利かせたのか、暫く出てくると言って彼とはほとんど同じ部屋にいなかったけれど、今日は違う。キッチンで朝食を作る音が聞こえるから。きっと昨日夜通し泣いていたから目はまた赤く腫れぼったくなっているだろうし、彼を見ればまた泣きたくなるに決まっている。
それに、勢い余ってあの時彼にキスしてしまった。振られたのに、自分から。勢いって怖い。おかげではこんなにも昨日のことを後悔している。もし気持ち悪いって思われていたらどうしよう。ありえない、とか許さないとか。のことを嫌いになったらどうしよう。
そんな暗い気持ちに支配されてベッドから抜け出すことが出来ない。でもいつまでもウジウジしている場合じゃないのも分かっている。だけど出られない。そんなジレンマに苦しみながら結局彼女はベッドの中にいた。
そこにコンコンと優しく響くノック音。それは、考えなくても安室のものだと分かる。
、ご飯できたよ。起きておいで」
あくまで優しい響きを持つ彼の声に、胸が締め付けられてまた涙が溢れだした。昨日散々泣いて枯れたと思っていたのに、まだこの塩辛い水は瞳から止めどなく出てくるのか。
優しくしないでほしいのに。そんな風に優しくされたら、諦められるものも諦められなくなっちゃうのに、どうして彼はこんな風にを半殺しにして苦しめるのだろう。
…」
返事をしないに扉の外で彼が小さく溜息を吐くのが分かった。それにびくりと肩が震える。いつまでもが出てこないから呆れたのだろうか。嫌いになった? そんな風に思われるのが嫌で、は慌ててベッドから出て恐る恐る扉を開けた。
彼はすぐそこにいる。だけど、目を合わすことが出来なくて、彼の足元ばかり見てしまう。そんなに彼は「用意するから着替えて顔洗っておいで」と頭を撫でた。いつもどおり、否、いつもより余計に優しい彼にぐすっと鼻をすすりながら小さく頷く。胸がずきずきと痛んで、の身体の中を悲しみが蝕む。
彼はが頷いたことに満足したのか、「待ってるよ」とリビングに戻った。彼を待たせるわけにもいかないし、いつもより着替えるのが億劫に思いながらも洋服に着替えて顔を洗う。鏡を見てみると、やっぱり酷い顔をしていた。こんな顔、安室さんに見られたくない。
リビングに行って彼の前の席に座る。いただきますという言葉以外、2人の間には何も生まれない。ただ、無言。テレビから聞こえるニュースキャスターの話している声が無ければ耐え切れなかったかもしれない。
――もしかしたら安室さんも何を話せば良いのか分からないのかな。
いつもと違って会話一つない朝食は、それでも彼の愛情が感じられる温かな料理で、はまた瞳に涙の膜が張るのを感じた。


 安室と同じ家にいることが辛くて、は出かけることにした。出かける際に、彼から「帰ってくるよね?」と確認された彼女はそれに頷くしかなかった。だって、彼が寂しそうな声を出すから。全部演技かもしれないのに。
酷い顔をどうにかメイクでごまかしたけれど、目の充血だけは中々引かなかった。町の中を歩いてこの前シャロンと話した公園に向かう。何となく、その場所でゆっくり考えたくて。休日の朝だから、公園にはまだ誰もいなかった。ぽつんと佇むベンチに一人で腰掛けて、は彼と初めて出会った時のことを思い出していた。ぐるぐる廻る彼の顔。容赦なかった様子や、呆れたように笑う顔、普通の笑みからのことを意地悪そうに見やる彼。全部、全部、の片思いだったけれど。
またぽろぽろと頬を流れる涙がいい加減うざったくて乱暴にごしごしと拭う。悲劇のヒロインになりたいわけじゃないのに。
こういう時は、誰かにどうでも良い話を聞いてもらうと気分が上がるんだけど。そう思っては佐藤に電話をかけることにした。朝だけどもう9時だし、彼女も起きているだろうと思って。
プルルル、とコール音が数回続いた後に佐藤のもしもしと言う声が聞こえた。
『おはよう、どうしたの?』
「さ、さとうさん……っ」
『えっどうしたの!?何かあった!?』
「ふ、振られました…」
ふわぁと欠伸をした彼女に、最初はただ他愛ない会話をしようと思っていたのに、声が震えて涙がぶわっと溢れ出した。電話口でめそめそ泣くに彼女は慌てて事情を聞いてくる。は姉のように頼りがいがある彼女に全て話すことにした。安室に告白して振られた経緯を掻い摘んで彼女に伝えれば、「あー…」と彼女は呻く。
『ごめんね…あの時私、安室さんにちゃんのこと振ったんでしょって言っちゃって…』
バレてないことに望みをかけていたけどやっぱり駄目だったのね、と溜息を吐いた彼女に「もう良いですよ」と笑う。彼女がの気持ちが分かってしまうようなことを彼に言ってしまったのは、が彼女たちに誤解させるようなことを言ったからだろう。酒のせいで覚えていないけれど、でなければ佐藤がそんなことを安室に言うわけがない。大体、聡い彼なら佐藤から言われなくてもの気持ちに気付いていたかもしれないし。だから彼女は何も悪くない。
『今どこにいるの?力になれるか分からないけど、話くらいなら聞くから…』
「えっと、今は米花町の――」
佐藤が罪悪感を覚えたのか、車で迎えに行くからと言ってくれるのには甘えることにした。彼女と話せばこのうじうじした悲しい気持ちもどうにかなるかもしれないと思って。流石に、自分より年下の蘭たちの前で泣き顔を晒したくない、なんてあってないようなちっぽけなプライドが邪魔をするのだ。
だけど、彼女に公園の名前を告げるより前に、の視界に黒い革の靴が目に入った。もしかして、小さな期待を持って視線を上にずらせば、そこにいたのは沖矢。彼を見て、勝手にの期待は萎んで自分勝手な考えに自己嫌悪した。
しかし、耳元で『もしもし?ちゃん?』と声を上げる佐藤に、彼がのスマートフォンを取り上げて「彼女のことは心配しなくても大丈夫ですよ」と言って勝手に切ってしまう。彼女はそれをぽかんと見上げることしかできない。どうして沖矢さんがこんな所にいて、の電話を切ったのだろう。
だけど自分が泣いていたことをはっと思い出して、彼女は慌てて涙を拭おうとした。
「おっと、擦ると余計に赤くなりますよ」
「あの、沖矢さん、何でここに?」
しかし、の手を彼が止めたことによって、の頬から涙は消えない。の質問に答えないでふっと笑った彼はにハンカチを差し出す。それに礼を言っては涙をそっと押し付けるように拭いた。
「絵を描きたいんじゃないかと思いまして、迎えに来ました」
彼の言葉には?と目が丸くなる。にっこり笑っている彼の真意は分からなくて、だけど彼にそう言われた瞬間、確かには絵が描きたくなってきた。今はただキャンバスに向かって無心になって絵を描くことが心を落ち着かせてくれるのではないかと。
「さぁ、行きましょうか」
「はい」
は彼がエスコートするかのように差し出した手を取って公園の外に向かった。佐藤には後で心配してくれたお礼のメールを送っておこう。


 赤井、否今は沖矢だが、は開け放した扉からが一心不乱にキャンバスに色を乗せる様子を、腕を組んで眺めていた。凄まじい集中力だ。素直にそう思う。彼女は沖矢が公園から連れてきてからずっと絵を描き続けている。それもかなり大きなキャンバス地に。この部屋の壁程度の大きさのそれに、大胆に色を走らせる彼女。全身を使って、背伸びして上の方を塗るは何かに憑りつかれたかのように筆を動かしていた。
時間としては昼を過ぎている。食べることが大好きな彼女の為に昼食を作った沖矢だったが、声をかけることはやめておくことにした。今彼女はきっと何かと戦っているのだろう。頬に付いている緑の絵の具や手にも付着している色んな色。そんな彼女を邪魔することは憚られた。ただ、見ていて飽きないので沖矢は昼食を食べてから彼女を眺めることにした。まずは腹ごしらえだ。
 腹ごしらえを終えた沖矢は再び飲み物と昼食を持って彼女がいる部屋に向かった。いつでも気が付いた時に食べられるようにと絵を描いている彼女から少し離れた所にあるテーブルにお盆を乗せる。
ここまで描きはじめてから時間が経つと彼女が何を描こうとしているのか分かってきた。海の上を行く一つの船。白いクジラを模したそれが、太陽が沈んで夜になる前の夕日の煌めきと夜の訪れの中を進んでいる。
大方の色を乗せ終って細かい所を描きこんでいる彼女に沖矢は笑った。確かに、優作が言う通り成長が楽しみな娘だと思って。邪魔になる髪の毛は一つにまとめて団子状に縛って一心不乱にキャンバスと向き合っている
――この絵が出来上がるのが楽しみだな。
そう思って沖矢は彼女を眺めながら読書を始めた。
 夕方を過ぎてもの集中力は切れていないようだった。お腹が空いたら一旦手を止めるだろうと思っていた沖矢だったが、彼女を突き動かしているものはそんなに生易しいものではないのだとその時漸く分かった。このままでは夜中を過ぎても続けていそうだ。
そうなる前にあの男が来そうだが。そう思った所にタイミング良くピンポーンとチャイムが鳴る。時刻は19時。噂をすれば、か。そう思ってを見れば、彼女はそれにも気付いていない様子だった。この様子だと帰らせることは不可能だろう。
「はい」
「すみません、安室透です」
チャイムに応答すれば、やはりそこにいたのは安室だった。玄関の扉を開ければにっこり微笑む彼の笑顔が見える。一応優作に協力してもらったおかげで“沖矢”への疑いは晴れた筈だったが、注意しない手はない。何しろこの男は鋭い上に組織の探り屋と称されている程の人物。
「どうしましたか?」
「僕の同居人のが来ている筈なんですが…」
メールで書いてあったんですけど遅いので迎えに来ました。そう言って笑う彼に、息をするように嘘を吐く男だと思った。沖矢も人の事は言えないが。彼女はメールをするような余裕など無かったのだから、十中八九GPSで彼女の居場所を突き止めたのだろう。
「ええ、確かにいますが、今は一心不乱に絵を描いているので帰れないと思いますよ」
「そうですが、流石に夜遅くなるとあなたにも迷惑でしょう」
彼の顔を見ていたら、今朝が公園で泣きながら電話口の相手に話しているのを思い出す。沖矢はたまたま朝の散歩にあの道を歩いていたのだが、まさか朝から彼女を見かけるとは思ってもみなかった。彼女はそういえば振られたと言っていたな。相手はこの男か。以前彼女の正体を暴いた時に、コナンが言っていたから。
「大丈夫ですよ。さんは静かですし、僕はいつも通りに寝られます」
「へぇ……」
笑顔を保ちながらも目で沖矢に早くを出せと言っている安室を見て悪戯心が疼いた。自分の正体が赤井だと露呈しない程度であれば、良いだろう。そう思って彼を挑発する。表面上はさも厚意から彼女を預かりますよ、と言っているように。
寝る、なんて言葉を使ったのもその為。それに一瞬怒気を放った彼だったが、すぐさまそれは隠された。
「流石に恋人でもない男女が同じ家で夜を過ごすなんて駄目でしょう?」
「おや?それならあなたも同じじゃないですか?」
「僕は従兄ですから。彼女は家族みたいなものですよ」
玄関先で笑顔で向き合う男2人。それは傍から見れば和やかなように見えるのだろう。だけどそれは表だけ。裏ではどう相手を出し抜こうかと高速で頭を働かせていた。家族、か。その言葉は今一番彼女を傷付けるものなのだろう。何しろ彼女が望んでいるのはそういうものではないから。
「ほお…、彼女を振ったのに…酷い人ですね」
「あなたに関係ないでしょう」
ふっと笑って彼を見やれば、彼からは一変して笑顔が消えた。どうやら彼の怒りに触れたらしい。そこまで執着するなら、なぜ愛してやらない。そう思ったが、そんなことは当人同士の問題なので沖矢は突っ込まないことにする。ただ、彼女の存在は普段感情を露わにしない彼をここまで怒らせられる存在なのか、と少し興味を覚えた。
「では、賭けをしませんか?さんがあなたに一度声をかけられて気が付いたらそのままどうぞお帰りください」
「ええ、良いでしょう」
にこっと笑った沖矢に、彼はそんなことかと軽く頷いた。随分、自信があるらしい。が彼の声に応えぬ筈はないと思っているのだろう。だが、今のの状態はきっと彼にとってもいつもと違う。その中で彼女はどう反応するのか見ものだった。
では、とスリッパを用意して彼を家に上げる。見られて困るような物は置いていないし、彼女がいる部屋に一直線に通すから他の部屋を見られることもない。盗聴器をしかけられないように沖矢が彼をしっかり見ていれば良いことだ。
階段を上がって、彼女が無心に描き殴っている部屋に通す。絵の具で所々汚れながらも、先程よりも更に鮮やかに光を放つ海と夕焼けを描く彼女の後ろ姿に安室が軽く目を見開いた。
彼に与えられたチャンスは一度だけ。彼女の背に向かって彼は声をかけた。

大きくも無く、小さくも無く、彼女に呼びかけた彼の声はまるで恋人を呼ぶように甘ったるいものだった。沖矢にも恋人がいたから分かる。こういう声は、相手に愛情を感じていなければ出ない。これが振った女にかける声なのか、と内心眉を顰める。だけど彼女はそれに反応しなかった。気付いていないのだろう。彼女が見ているのは目の前にあるキャンバスただ一つ。
それに彼はにっこりと笑って沖矢を見やる。
「どうやら相当集中しているみたいですね」
「残念でしたね。心配しないでください、彼女には何もしないと約束しますよ」
「そうですか。あなたのことを信用して託しますね」
彼女の背中を暫し見て階段を下りはじめた彼に沖矢は続く。信用して、なんてどの口が言うのか。全く信用していない癖に。にっこりと笑った彼の内情が実際どうなっているのか、興味深い所だがそれは探らないでおくことにした。
工藤家の前に止められた車に乗って彼が去って行くのを見てから、沖矢は書斎に戻った。


60:きみとぼくのスタンス・ドット
2015/08/22

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