公園で泣いていたを連れ戻してから数日。以前と比べて彼女はよく笑うようになった。最初はあまり笑わない性格なのかと思っていたが、どうやら慣れない環境で自分を出すことが出来なかったようだ。
この頃になれば、安室は彼女への疑いをほぼ無くしていた。何度かカマをかけてはみたが、そのどれにも彼女は反応を示さなかったのだ。思っていることが顔に出やすい、素直な性分の彼女が動揺を出さないことは難しいだろう。
、下着見えてるよ」
「え!?」
「嘘だよ」
半袖シャツにスカートを着た彼女がソファで膝を抱えてテレビを見ている所に、冗談でそう言えばスカートを押さえぎょっとした顔でこちらを見てくる。しかし、嘘だと明かせばすぐさまじとりと恨みがましい目に変わった。それを見て、彼女には演技力がないことを改めて確認する。大女優のベルモットであれば、このように動揺を顔に出したりしないだろうから。もしも、この動揺する様子さえ演技なのだとしたら彼女もとんだ大女優ではあるが。
「それより、これ」
「何ですか?」
むっとしている彼女の隣に腰掛け、昨夜用意しておいた首から下げるタイプのカードを彼女に渡す。それを見て怪訝そうに安室を見やる彼女。漢字が読めないからそのカードの意味が分からなかったのだろう。
「最近良く外を走っているみたいだからね。まだ土地勘が無いだろうからいざと言う時の迷子札だよ」
「迷子札?ふーん」
彼女に渡したカードにはこのマンション付近までの住所が載っている。最近鍵を持たせて好きに出かけられるようにしてからというもの、は運動と称してこの近辺を走っているようだ。おかげでこの家に来た当初から良く食べる娘だとは思っていたが、更に食べる量が増えた気がする。食費は嵩むが、彼女が美味しそうに食べる様子を見るのが嫌いではない安室はそれで良いかと納得していた、というのは余談だ。
安室の身元が誰かに感付かれることはなるべく避けるべきだが、彼女がどこか分からない所まで走り込んで迷子になり一々迎えに行くことは大変だ。安室が家にいる時なら良いが、もし依頼など本来の目的の為に家を留守にしている場合、長時間彼女を迎えに行くことが出来ないこともある。それ故、番地など細かい所まで書かれていない住所を書いた迷子札をに渡したのだ。
「まぁ、それを使わないように自分が走った道は覚えておくと良いよ」
「はーい、そうします」


と元気よく安室に返事をしたであったが、彼が探偵の仕事に出ていってから暫くして外を走ろうと思って出てきた所、見事に迷子になってしまった。ジャージのポケットに入れておいたスマートフォンを取り出して唯一電話帳に登録されている安室の名前を押してみるが、やはり仕事中だからか出てくれない。
参ったなぁ。意識を分身に向ければ分身は分身で今は授業中らしい。仕方ない、迷子札の出番か。
丁度正午直前であり今まで機嫌良く長距離を走っていたからか、お腹がぐううと空腹を訴えかけてきた。これは早く帰らないと拙いぞ。行き倒れ、なんてことにはならないだろうが、が最も苦手としているものが空腹だ。これを我慢するのは相当の苦痛だった。
ふと、食べることが大好きなはふらふらと良い匂いを漂わせる一軒の大きな家に吸い寄せられる。これは肉じゃがの匂いだ…。ふわふわと香ってくる食欲を誘うその香りにぐるるるとお腹が更に活発になった。
「どうしました?」
帰り道を人に訊かなくてはいけないのに、その家の前から離れることが出来ないの前に、眼鏡をかけた若い男が扉を開けて現れた。門に近付いてきた彼のその手には鍋がある。より一層強くなった肉じゃがの良い香りにはごくりと生唾を飲み込んだ。
「あの、走ってたら帰り道が分からなくなりまして…。この住所にはどうすれば行けますか?」
「ああ、その住所でしたらこの突き当りの角を左へ曲がって、確か4つ目の信号機を右に曲がって真っ直ぐ歩き続ければ着きますよ」
茶髪の男性はの首からぶら下がっている迷子札の住所を見ながら、にこやかに説明してくれた。優しい人だなぁ。そう思って、ありがとうございましたと言おうとしただったが、その前に盛大な腹の虫が鳴り響いた。
ぐるるるぎゅおおああ…。しいん、と2人の間には沈黙が訪れた。としては別に気まずいことではなく、ただ一心に彼が持っている鍋に視線を送っている。彼はそんな彼女を見て半ば諦めた様子で声をかけた。
「…お隣さんにお裾分けをするつもりでしたが、良ければ少し食べますか?」
「良いんですか?」
彼の嬉しい言葉に途端には満面の笑みで彼を見上げる。ええ、少しならとやけに“少し”を強調してくる彼に頷いてお宅にお邪魔することになった。
玄関で靴を脱いでリビングへと赴く。お腹を鳴らしながら席に着いたの為に、彼が皿を出して肉じゃがを盛り付けた。どうぞ、と言われてぱくりとじゃがいもを口に入れる。ほろほろと口の中でとけていく柔らかさに目尻が垂れた。
「お兄さんの肉じゃがすごい美味しいです!」
「そうですか、良かった」
ぱくぱくと口に入れてあっという間に完食してしまったに、彼は笑った。突然道を尋ねた女に肉じゃがをご馳走してくれるなんて、この人はとても良い人だなぁ、と再度彼の人柄の良さに感銘を受けながらは席を立った。
「お土産に包みましょうか?」
「え、良いですよ!ご馳走様でした!家でも美味しいご飯が待っているので」
タッパーを持ち出してきてくれた彼に、思わず「はい」と頷きそうになるもここまで良くしてもらったのに更に良くしてもらうのは申し訳ないと首を振る。とても美味しかったから欲しかったけれど。それに家ではきっと仕事から帰ってきた安室が昼食を作っているだろうし。
再度美味しかったです!と彼に頭を下げて家を出た。態々見送りの為に玄関先まで彼が着いてきてくれる。この瞬間の中で彼はとても良い人とカテゴライズされた。
「お兄さん、ご馳走様でした」
「ええ、では。お気をつけて」
は親切な彼に背を向けて走り出した。早く家に帰って安室さんが作ったご飯を食べたい。安室の料理に胃袋をがっちり掴まれているは、彼が今頃作っている料理に思いを馳せた。先程の肉じゃがで益々食欲が湧いてきた彼女は教えてもらった道をるんるらんらと猛スピードで走って行く。
彼が言った通りに突き当たりの角を左に曲がって4つ目の信号を右に曲がり真っ直ぐ走り続ける。そうすれば、見慣れたマンションが目に入った。
何だ。近くまで帰って来ていたのか。どうやらあと少しの所では諦めてしまっていたらしい。未だにエレベーターに慣れない為、たったった、と階段を駆け上がって鍵で安室の部屋の扉を開ける。
「ただいまー」
「おかえり。遅かったじゃないか」
スニーカーを脱いで、しっとりと汗をかいた額を手の平で擦ってリビングへ入った。の帰りに気付いた安室が彼女を振り返りながらどこまで行っていたのかと訊いてくる。
どこ、かは分からないがたぶん10キロ以上走ったのは確かだ。そして迷子になった所、出会った男性からちゃっかり肉じゃがを食べさせてもらったことを報告すると、彼ははぁと溜息を吐いた。
「知らない人から食べ物を貰うなんて…子どもでもしないよ」
「ええ…でも良い人そうでしたよ」
呆れながらも昼食をテーブルの上に並べる彼を手伝うために、手を洗ってから食器棚から箸を取り出した。
毒が入っていたらどうするのか、と尚も続ける彼に確かにそうなったら危ないな、と考えを改める。食べ物に弱いにとっては食欲を抑えることは中々に難しいが、これからはなるべく知らない人から食べ物を貰うのはやめようと決めた。


 所変わって分身のは漸く本日の授業が終わってぐぐっと背伸びをしていた。小学校へ通い始めてから数日経つが、未だに長時間同じ席に座って勉強をするというのが慣れない。
ちゃん!帰ろう」
「うん」
この数日間で仲良くなった歩美はに良く話しかけてくれる。それに付随してコナンたちとも話したりするようになっていた。
この数日の間で分かったことは、どうやら彼らは少年探偵団という面白い遊びをしているということだ。危ないことに首を突っ込むのは嫌だが、そんなに危険なこともないだろうと思って歩美に誘われるまま少年探偵団に入ったのが丁度2日前。
ちゃんはまだ探偵バッジもってないですよねぇ」
「うん。皆が良く使ってるあれだよね」
光彦が手にした探偵バッジとやらはとても小さい。これで何が出来るのかと問えば、連絡を取り合うことが出来るらしい。本体が持っているスマートフォンよりも小型で便利ではないか、とは驚いた。スマートフォンにはそれ以外の機能も沢山あるのだが、機械に詳しくない彼女はそれと探偵バッジを同じような物として認識した。
「博士が新しいの作ったそうだから、今日家に来ない?」
「えっ、良いの?哀ちゃん」
ランドセルを背負ってこちらにやってきた哀はええと頷く。噂で聞いていた阿笠の家に行くことも楽しみだし、哀ちゃんが私を家に呼んでくれたことも嬉しい。
何だか彼女は大人っぽいからどうにも同年代の女の子と接している気になるけれど、本当は小学一年生なのだから私より子どもなのは確か。それなのに、どうしても子ども扱いされているような気がしなくもない。いや、まぁ今は子どもだからそれで良い筈なんだけれど。
学校を出て阿笠の家に向かう。その途中で本体に遅くならないうちに帰ってくること、と意識を通じて確認させられた。
「そう言えば、コナンくんが一緒に住んでるおじさんって探偵なんだよね?いつも何してるの?」
「あー、おっちゃんなら競馬見たりパチンコで金すったりヨーコちゃんの応援ばっかだな」
隣を歩くコナンに、たまに話題に上がる名探偵毛利小五郎について問えば、想像していたこととは違う回答が返ってきた。競馬やパチンコが分からずに彼に問えば、どれもギャンブルだと教えられた。ええ、何かイメージと違う。本体の意識を介して知っている安室は、いつも家事をそつなくこなして依頼を受けたら電話で対応して出かけて問題を解決したり、にこの世界の常識を教えてくれている。
そんな彼の姿と毛利は同じ探偵として比べて良いのだろうか。というか、そんな情報を知ったら安室は毛利を見損なうのではないだろうか。
「何か、ちょっと残念」
「だろうな」
唇を尖らせて彼を見れば、彼は半目ではははと笑う。だが、コナン曰く眠りの小五郎の時は抜群の推理力で事件を解決していくらしい。へぇ、それは見てみたいなぁ。眠りながら推理ってどうやるんだろう。
帰ったら安室さんに教えてあげよう、と思いながらはコナンたちと共に博士の家に向かった。


06:あなた専用の胃袋
2015/06/18
肉じゃがのお兄さん=沖矢さん。

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