その日はいつも通りの日常だった。普段と何ら変わりない一日。朝からニュースでどこどこの高校生が万引きをしているのを捕まえたとか、オレオレ詐欺の被害額が過去最高だとかそういったニュースが流れている中で、カリッと焼けたトーストとコーンスープ、サラダを食べて安室と一緒に他愛ない話をして始まった。
は時たま安室が手を抜くこういう朝食が好きだった。勿論、彼が作ってくれた料理だったら何でも美味しいけれど、パンとコーンスープの相性はばっちりだから。
「今日は昼まで依頼人と会ってから帰って来るよ」
「分かりました。ご飯作っておきますね」
「期待してるよ」
朝から依頼人と会う為に用意をしている安室を見ながら頷く。ご飯と言ってもまだ安室のように手の込んだものは作れないけれど、彼の期待に応えられるように頑張ろう。腕時計を嵌めた彼はじゃあ行ってくるよと言って玄関に向かう。行ってらっしゃい、と手を振れば行ってきますと彼から返事を貰って、何気ないこの風景がまるで夫婦の会話みたいだなぁ、なんて考えて一人で悶えた。現実はそんなに甘くないけど。

 昼頃、そろそろ昼食の準備をしようと思ってキッチンに立つ。何を作ろうかなと冷蔵庫を覗いた所、牛肉の粗挽きを発見した。ハンバーグ食べたいな。でもが一人で作るより安室と一緒に作った方が美味しいのは確かなので、ハンバーグは夕食の時にリクエストすることにして、別の料理にする。鱈があるからムニエルでも作ろうか。そう思って鱈と付け合せの為の野菜を取り出す。
「?」
ふと、ぐらぐらと足元が揺れた気がした。気のせいか、そう思ったがカタカタカタと食器まで揺れているから気のせいではない。何、何で地面が揺れてるの。
「やっ、むりむりむり!!」
初めての出来事に恐怖心を掻き立てられて床に蹲る。そうすれば立っていた時よりも更に揺れを感じるものだから余計恐ろしくなって心臓がばくばくと五月蠅くなった。しかしが縮こまっている間に揺れは収まったらしい。
――今のは一体何だったんだろう。世界の終わりかと思った。
海の上ではこんな揺れと遭遇したことなんてなかった。波の上を進むのだからある程度揺れたりするけれど、こういう身体を揺さぶるような揺れではなく、揺りかごに乗っているような優しい揺れだ。嵐の時はもっと激しいけれどそれとこれではやはり種類が違う。
ばくばくと胸の内を叩く心臓を押さえつけて落ち着こうとしていたらスマートフォンが鳴った。慌ててテーブルの上に置いてあるそれに手を伸ばす。
『もしもし、?今地震あったみたいだけど大丈夫?』
「はい。吃驚したけど大丈夫です」
出先から電話をかけてきてくれた彼にほっとした。地震を初めて経験したは怖くて動けなかったけれど、どうやら安室は地震には慣れているらしい。全く焦った様子が無かった。日本では頻繁に地震が起こるけど、は初めてだったんじゃないかと訊ねる彼にそうですと答える。
『依頼人との話も終わったし、すぐに帰るよ』
「ありがとうございます。気を付けてくださいね」
が感じた恐怖に彼が気付いているのかは分からないけれど、仕事が終わった彼は帰ってくるらしい。それに頷いては電話を切った。彼が依頼人と会っている場所はそんなに遠くない場所だと聞いていたから、車でそんなに時間が経たないうちに帰ってくる筈だから早く昼食を作らないと、と思って。
テレビを付けて先程の地震について何かニュースが出てないかと確認してから、気を取り直してキッチンに立つ。ふうと一息吐けば先程の動悸は徐々に収まってきた。どうやら米花町付近は震度3だったらしい。それがどのくらいの規模なのかには分かりかねたが、まだまだ上があるのだということに驚く。3程度で良かった。きっと5とかだったら一人でいたは失神していたかもしれない。
『緊急地震速報です。強い揺れに備えてください』
「えっ」
「ただいま」
暫くしてから、テレビから聞こえるアナウンスと警報音には驚いた。それと同時に安室が帰って来た声がして。ガタガタガタッと先程とは比にならない程の大きな揺れにはぐらりと傾いて尻餅をついた。
驚いたのも束の間、今にもマンションが倒れてしまうのではないだろうかという揺れには怯える。
やだ、怖い。ぎゅっと自分の身体を抱きしめて蹲っていたらキッチンのすぐ側に駆けてきた安室の声が聞こえた。
!上!」
「あ、安室さんっ」
彼の存在にほっとしたがそれと同時にえ?と上を見上げる。それは丁度、揺れによって開いた食器棚から重ねられた陶器やガラスのお皿が傾いた所で。
――うわ、当たる。
どくんと心臓が縮こまったけれど、痛くないのは分かっていた。だけど自分に向かって落ちてくるそれの衝撃を思うと自然にぎゅっと目を瞑ってしまう。
…!!」
「わっ」
次の瞬間、パリン!!ガシャァン!!と何度も鋭い音が響いて床に皿の破片が飛び散る音が聞こえた。だけど、それよりも前にの身体を襲った衝撃と温もり。背中に感じる床の冷たさと、の身体を覆っている温もりが唯一の身体に当たるもので。には能力があるから痛みは感じない。そう、だから今も痛くないしあのまま皿が落ちてきても怪我なんてしないのに。
う…、と耳元で聞こえる呻き声には恐る恐る瞼を開けた。目の前には、の身体に覆いかぶさっての頭を胸に押さえつけている安室の姿がある。何で、何で。ぐっと寄せられた彼の眉は、きっと彼の身体の上で何度も皿がぶつかって割れたから。割れた破片が当たったのか、耳のすぐ側の頬に薄らと血が滲んでいる彼。
「あ、安室さん……?」
、怪我はないか?」
震える手で彼の顔に触れる。どこか、他に大きな怪我が無いか確かめたくて。だけど、彼の自分よりもを案じるその言葉に涙が溢れた。
――何で、怪我をしない私を助けるの。安室さんの方が危ないのに。頭に当たっていたら血だって出るのに。
の身体の方がよっぽど安全で、彼がを助けなくても大丈夫だったのに。
どうして態々安室さんが危険な目に遭うの…!!
いつも彼はが危険に晒されると駆けつけてくれた。は普通の女の子のように簡単に傷つくような身体でもないのに、彼は普通の女の子と同じようにを扱う。
いつの間にか余震が終って静まり返った部屋にテレビからニュースキャスターがこの地震について報道していた。だけど、そんな声はの耳には入ってこなかった。ただ、目の前でほっとして口元を綻ばせた彼の吐息だけがの鼓膜を揺らす唯一の音で。
もう駄目だった。
「安室さん、好き…、好きです…」
胸が苦しくて、彼への想いが溢れ出して言葉にしなければ破裂してしまいそうだった。
――傍にいたいなら、言っては駄目だよ。
安室の声で頭の中で響いていたこの言葉も、今のの頭からは消え去っていて。ただ、彼にこの想いを伝えたかった。ずっと、ずっと抑えつけていたこの想いだったけれど、それはもう容器から溢れ出して身体全体に巡ってしまった。
安室はその言葉を聞いて微かに目を見開いて、眉を寄せ悲しそうに笑う。知ってたよ、と。
「何で言うんだ…。言っちゃ駄目だよって、言っただろ…」
その言葉に、の胸は押し潰されそうな程に軋み締め付けられた。やっぱりそうだったのか。あの時の声は、彼女の頭が勝手に作り出した声ではなかったのだ。ぼろぼろと涙が零れる。
「やっぱりあの時の声は…っ、安室さんだったんですね…」
勘違いではなかったのだ。が彼に想いを伝えたら、彼は悲しむ。それは当たっていた。だって、涙で滲んだ世界でも、彼がを苦しそうに見下ろしているから。彼がそっと壊れ物を扱うかのようにの涙を拭おうとしたのをパシンと払いのけた。優しくしないで。こんな風に優しくされる度にの胸は狂おしい程に締め付けられる。
「だったら…、何で期待させるようなこと…!!」
「妹みたいに大事だからだよ…」
嗚咽を堪えながらどん、と彼の胸を叩く。その言葉に、どうしてと認めたくなかった。どうして、妹なの。はこんなにも安室のことが好きなのに。そんな自分勝手な思いが溢れるけれど、頭の片隅では分かっていた。がマルコたちに向ける兄妹や家族としての愛情と同じように、彼もまたそれと似たような感情をに抱いていただけなのだと。ただ、が彼のことを勝手に好きになってしまっただけ。蘭や園子たちから応援されて調子に乗って期待してしまっただけなのだ。だけど、この悲しみと憤りは収まらなくて。
「それなら、あんな思わせぶりな態度取らないでくださいよ…!」
「ごめん、でも、大切だから…」
彼は謝る。だけどそれ以上のことは言ってくれない。
今まで安室がの為にしてきてくれたこと。それは、のことを大切に思っていたから。だけど、それはが望んだ理由からではない。たったそれだけの違いでこんなに胸が痛んで涙が溢れる。の好意と安室の好意は本来交わる筈が無かったのだ。
――これは、不毛な恋だったのか。
「私、自分の世界に帰ります…」
「――っ、何で?お互いに好きなら一緒にいれば良いだろ」
彼の肩をぐっと押して起き上がろうと腕を床につく。だけど、の言葉に安室はぐいと手を引っ張ってまた同じ体勢に戻った。それに目を見開く。何で、って。よりも何倍も賢い安室ならが言わなくても分かっているだろうに。
は安室のことを忘れたいのだ。でなければ前に進めない。それに彼に振られたのに一緒に暮らすなんて、苦しくて仕方がない。彼から逃げたかった。それなのに、どうしてそんなことを言うの。引き留めないでよ。彼の言葉が信じられなくて、視界が涙でぼやける。
「何それ、狡い…安室さんは私のこと妹にしか見てないのに」
「それでも、が一番大切なんだ」
――酷い、酷い。安室がの頬をそっと撫でる。それにまた涙が頬に伝った。そんな優しい手で触らないで。あなたは私のことを異性として見てくれないのに。「大切」なんて言葉を使って、を雁字搦めにして彼から離れられなくさせて。安室は狡い。酷い。何て男に引っかかってしまったのだろう。
「ずるい」
「何とでも…僕のこと良く知ってるだろ」
「さいてい、きらい」
泣いて罵って彼の胸を叩いても、彼は悲しそうに笑うだけ。馬鹿なんじゃないの、振った女を手放さないで傍に置くなんて。馬鹿だ、大馬鹿。だけど、そんな彼を大好きなはもっと馬鹿だ。救いようが無い。
「僕の傍にいてくれ」
「……分かりましたよ」
だけど結局、彼の瞳に見つめられてしまえばは頷くことしかできない。彼は、全て分かってやっているに違いないのに。を好きだと言うのは“妹のような大切な友人”としてなのに。の“好き”を受け取ってくれないのに。
もういっそのこと、一思いに心臓を突き刺してくれれば良かった。そうすれば、彼を好きな気持ちなんてきっと泡のように溶けて消えていった筈だ。だけど彼は曖昧な言葉でを縛り付けるから、最低と思いながら彼から離れることが出来ない。だからこれは仕返し。安室がの全てを奪っていくのに、は彼から何も奪えないことに腹が立ったから。精一杯の虚勢を張って、震える手で彼の襟元を掴んで引き寄せてその唇に自分の唇を重ねる。
それは、のファーストキス。望んでいたようなものとは全く違うけれど、何か一つでも安室から奪ってやりたかった。きょとんと目を丸くしている安室を見て、は泣きながら下手くそに笑った。胸が、刺すように痛い。
「安室さん狡いから、これくらい良いですよね」
恰好はつかなかったけれど、元より彼に振られた時点で恰好なんてあってないようなもので。ぼろぼろこぼれる涙を乱暴に拭う。胸を突き刺す痛みを感じているのに、この時の安室のきょとんとした顔はの瞳に焼き付いた。

――今離れてしまえば、もうこれ以上傷付くことなんてないのに。を愚かにさせるのは、彼への恋心。


59:花とて散るなら、きみとて泣いてもかまわない
2015/08/22
タイトル:モス

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