安室に肉じゃがを作って「美味しい」と言われた次の日からは安室の料理の手伝いをするようになった。とは言っても、まだまだには知らないレシピが沢山あるので彼が作る様子を眺めながらサラダを作るということが多かったが。それでも、彼と同じ時間を共有しているのは純粋に嬉しい。
――まさか、美味しいって言われるのがあんなに嬉しいなんて思いもしなかった。
の肉じゃがを食べて微笑んでくれた安室のことを思い出しながら日課のランニングを行う。走っていることからの熱さ以外の熱が顔に集まるけれど、今は走っている途中なので誰もそんなことには気付かない筈。しかし、を止める声が一つ。
「今良いかしら、お嬢さん」
「あ、シャ…いえ、今は無理ですでは」
それは以前安室から今後会ってもすぐに離れるようにと言われていたシャロンだった。にこやかに微笑んでいる彼女に早口で愛想笑いを浮かべて踵を返そうとたが、彼女の方が一枚上手だったらしい。
「あら残念。KAREAのお菓子詰め買ってきたのに。捨てるしかないわね」
「あっ、あー……!時間、あり、ます……!!」
鞄の中にある青いリボンでラッピングされたそれをちらりと覗かせた彼女に、は必死に理性を働かせようとする。しかし理性と食欲との間で揺れた結果、最終的には食欲が勝った。それに満足そうに笑ったシャロンに彼女は項垂れる。どうやらシャロンには彼女の行動など全てお見通しだったらしい。一度しか会ってないのにどうしての好みを把握しているのだろう。ふとそんなことが気になった。
「で、シャロンさんはどうして私に会いに来たんですか?」
「たまたま通りかかった所にあなたを発見しただけよ」
色鮮やかな花が咲き乱れる公園のベンチに座って、シャロンから貰ったお菓子を一口食べる。美味しい。そう思いながらも彼女に視線を向ける。何で態々に会いに来たのだろうかと不思議に思っていたのだが、彼女はそれをはぐらかした。安室に会いに来たのだったらに会う必要はないし、いったい彼女の目的は何なんだろう。
「まあ、強いて言えばこの前のお詫びよ」
「この前……?」
ふ、と青いサングラス越しに妖艶に笑った彼女に、“この前”のことを思い出そうとする。が彼女と会ったのは安室と喧嘩したあの時だ。もしかしてに安室の恋人だと思い込ませたことを謝りに来てくれたのだろうか。だけどそれはかなり前のことだったからも忘れかけていた。ある意味彼女のおかげで安室との喧嘩は有耶無耶になってしまったから悪いことばかりではなかったと思う。それはシャロンには関係ないことだろうけど。
「別に分からなくても良いわ。今日はそれだけを言いに来たから」
「え、もう帰っちゃうんですか?」
ベンチから立ち上がった彼女を気が付けば引き留めていた。あ、ここは引き留めなくて良かった所なのに。そんなの言葉に口紅が引かれた彼女の綺麗な唇が弧を描く。言葉の選び方を間違えた瞬間だった。安室に怒られたらどうしよう。そう内心怯えるのポケットから勝手にスマートフォンを取り出した彼女に目を丸くする。
「私と話したくなったらいつでも連絡しなさい」
「え、ちょっとあのシャロンさん?」
勝手にのスマートフォンを弄って彼女の連絡先を交換している様子に「ええ!?」と驚いた。バーボンには内緒よ、そう言って唇に指を当てた彼女は同性のさえ顔を赤くする程の美しさで。うわ、こういうの反則。
「Bye, kitty.」
「え、あ、さようなら!」
が惚けているうちに立ち上がってすたすたと歩いていく彼女は後ろ手に手を振った。子猫ちゃん、ってどういうこと。そう思いながらも、スカートを翻して綺麗に歩くシャロンに見惚れる。もあれだけ綺麗だったら安室の視線を独り占めすることができただろうか。
「――あ、シャロンさんって安室さんとどういう関係なんですか!?」
「…A secret makes a woman woman.」
去って行く彼女にはっとして、彼女に聞こえるように叫んだ。それに彼女は顔だけ振り返って妖艶に笑う。彼女の言葉にぽかんとするを放って、シャロンは今度こその前から姿を消した。秘密ってことですか。彼女の言葉の意味を理解したは心の中がもやもやとする。
突然現れて突然去っていたシャロンには溜め息を吐いた。アドレス帳に新たに加わったシャロンという名に、どうしようかと悩む。安室にバレなくてもバレてもどちらにしろには負担が重いことに変わりなかった。


 翌日。シャロンと会ったことを話すか話さないかで悩んでいただったが、安室には言わないでおくことにした。彼に無駄な心配をかけさせたくなかったというのもあるけれど、シャロンについて少し興味を持った自分がいたから。
いつものようにコナンたちのもとに分身を送って工藤家で絵を描いていたはいつもより早めに帰宅することにした。今日は何だかあまり筆が進まなかったのだ。イメージはあったのだが、それを上手く筆に乗せることができなくて悶々としているだけでは時間の無駄だからと思って、沖矢にお邪魔しましたと声をかけて工藤家を出る。
空いっぱいに広がる青空に良い天気だなぁと思いながら百貨店の前を歩く。ぼんやりと上ばかりを見ていたからか、横からやって来る人物に気が付かずにどんとぶつかってしまった。相手も相手でスマートフォンを見ながら歩いていたらしい。
「す、すみません」
「いえ、こちらこそ…ってあ!ごめんっ」
大した衝撃でもなくは目の前にいる黒髪の男性に笑った。くしゃりとした癖っ毛が特徴の若い人。たぶんイケメンの部類だ。しかし、彼の手にはコーヒーショップで買ったのか紙コップが握られていた。それが先程ぶつかった衝撃でこぼれてのスカートに茶色い染みを作ってしまったらしい。ええ、これお気に入りのスカートだったのに!
ガーン、と驚いた表情で固まるに彼は「代わりのもの買うから…!」との手を取って足早に歩き百貨店の中に入る。見知らぬ男に突然手を引かれたことに驚いて声も出せないだったが、彼が婦人服屋の前で「このスカートと似たような物を頼む」と言っているのを見て、悪い人ではないのだろうと思った。何より、両者に過失があったのだから謝って去るかクリーニング代だけ渡せば良い所をこうやってすぐに服を新調してくれようとしているのだから。
「あの、何かすみません。私も悪かったのに……」
「良いよ。俺もコーヒー持ってたのに不注意だったから。それにそんな汚れた格好で帰すなんて申し訳なくて出来ないって」
「本当、ありがとうございます…」
――だけどどうしてこうなったんだろう。はお洒落なカフェのテーブルを挟んで先程の男性とお茶をしている自分に首を傾げた。彼のおかげですぐに先程まで履いていたスカートと同じようなスカートを発見できてそれを買ってもらい――勿論は半分だけでも金額を払うと言ったのだが聞いてもらえなかった――それに着替えることができた。そのおかげでは大いに助かったわけだったが、どうしてお茶に繋がったのか。
新品のスカートを買ってくれた彼に「ちょっと話聞きたいからお茶でもしていかない?」と言われたらはいと言うしか選択肢が無かったは何も悪くない筈だ。
「俺、琉生(るい)。君は?」
「私はです」
出会った時と違って少し気だるげな微笑みで聞かれたは素直に答えた。琉生さん、ね。名字を教えてくれない彼のことは名前呼びするしかない。ふーん、ちゃんか。と頷いた彼はの身近ではあまりいないタイプだ。何ていうか、少し軽い人な気がする。
ちゃんって絵描くの?」
「え?はい。でも、なんでそれを?」
背もたれに背中を預けてずず、とアイスティーをストローで飲む彼は喉を潤してからに目を向ける。一瞬彼の瞳が獲物を狙う鷹のようにきらりと光ったことに首を傾げつつはそれに頷いた。だけど、どうして彼はそれを知っているのだろう。
「そりゃ、油絵の具の匂いをさせて手にも所々絵の具が付いてたらそう思うよ」
「あっ、本当だ」
探偵よろしくの手を指差した彼に驚いて見てみれば確かに洗い落とし損ねた青い絵の具が付着していた。その上匂いについても言われてしまったは慌てて自分の身体を嗅いでみる。だけど長時間油絵の具を使っているうちに感覚が麻痺したのか、自分の身体に染みついてしまった絵の具の匂いは全く分からなかった。
「琉生さんって何だか探偵みたいですね」
「身近にそういう人がいるから移っちゃったのかな」
の言葉にふっと笑った彼は探偵に見られがちな自信満々の様子が読み取れる。も身近に探偵が何人もいるけれどそういう癖は全く移っていない。
いつの間にか彼との会話も別に違和感を覚えることもなくなっていて、は暫く彼と話し続けていた。


 尻ポケットにしまっておいたスマートフォンを取り出してアドレス帳を開く。目の前のテーブルには先程まで一緒に話していた彼女が勘定として置いていった紙幣。
――琉生、柴村琉生は街中で故意ににコーヒーをかけた。己の不注意として服を買って接触し、巧妙な会話術で警戒心を解かせ彼女を観察していたのだ。それは全て先輩である後藤が命じたから。後藤以上に身近な先輩だった降谷零に女の影があるから、と後藤から伝えられたのだ。それが普通の女であったら別段気にする必要もなかったし、降谷の好きなようにやれば良いと思っていた琉生だったが、後藤から送られてきたファイルを開いて驚いた。
――成る程、彼がその女を危惧する理由が分かった。
琉生は降谷には面倒を見てもらっていた恩がある。OJT制度が終って彼が組織に潜入捜査をしてからも、時たま本部にやって来る彼に仕事が上手くいっているか確かめてもらったり、数年間続けている交友がある。世話になった先輩の傍に突然現れた女を確認する気になった琉生は、の後を付けて接触したのだった。
後藤先輩という文字をアドレス帳の中から見つけて、電話ボタンを押す。人が多くいるカフェの中で話した方が静かな場所よりも自分の話す内容を周りの者に聞かれるリスクは減るから。
「もしもし、後藤先輩すか?」
『ああ、どうだった?』
数コールで出た彼は琉生の答えを待っていた。琉生の人を見る目の確かさを頼ってきた彼に、嘘を吐く気は無い。ただ、ありのままを伝えたら彼はどう出るだろうか。
「白っすよ。ちらっと見えた下着も白だったし」
『ふざけないで話せ』
「すんません」
ちょっとジョークを入れて笑ってみれば彼は声を低くした。あぶねぇ、怒らせちまったなぁ。なんて思いながら彼女が白であったことは本当だと伝えると彼ははぁ…と溜息を吐いた。彼としては黒だと言われた方が嬉しかったのだろう。だけど、琉生が話していた中であの娘はそういう犯罪に関わっている匂いはしなかった。何より彼女の態度がそれを語っている。ただの、素直で気の良い娘だった。人を見る目に自信がある琉生にはそう言うことしか出来ない。
『そうか、悪かったな。態々…』
「良いっすよ。それにしてもあの降谷さんがね…」
『ああ、降谷さんだから信じられなかったんだよ…』
面倒事を引き受けてくれてありがとう、と言外に伝える彼に軽く首を振る。琉生も自分の目で彼女を確かめたいと思っていたから特に苦に思わなかった。だけど、ねえ。琉生の知っている降谷の様子からは少し違う行動をする彼にぽつりと呟けばそれに反応した後藤が頷く。だが、が彼を誑かしているようには見えない。まずそんなことは出来なさそうな娘だ。きっと降谷の方が彼女を誑かしているという図の方が合っている。
――降谷さんが無事ならそれで良いか。
じゃあな、また。と電話を切った後藤にスマートフォンの画面の電気を落す。が置いていった勘定を財布にしまって、琉生もカフェを出る為に会計へと向かった。


58:煽られるままに揺らめいて
2015/08/22
タイトル:モス

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