週に一度だが竹島のもとに行って知識を与えてもらうようになってから、は彼女が女性として自立した人生を送っていることに感動した。彼女は結婚すらせず芸術や生徒に教えることに心血を注いでいる強い女性だと知ったのだ。
それに比べてはいつまで経っても安室に甘えている。誰かに頼らなくても良いくらいの強さを持っている竹島のようにまではなれなくても、少しでも自立した方が魅力的な女性である気がした。
――人間として成長しよう。そして、いつか自分の絵で個展を開けるくらいにまで絵を描く。
決心してすぐに出来るようなことではないけれど、は決心した。絶対に今のよりも成長したの方が人間として魅力があるに決まっているから。だが、その為にはそれなりに時間がかかりそうだが。
さん、そういえば僕が教えた料理を自宅でも作っているんですか?」
「いえ、まだです…」
沖矢の隣で彼から料理を教わる中、彼が発した疑問には一度思考の渦から離れて答えた。彼のおかげでの料理の腕は大分マシになってきたが、まだまだ安室と比べたら自分の料理は劣っている気がする。しかし彼の質問によって、驚かせることばかりを重視していたは未だに安室の手伝いをしていなかったことを思い出した。そろそろ何か作った方が良いのかな…。
「料理は出し惜しみするものじゃありませんよ。さんの腕もそれなりに上がったんですから一度作ってみてはどうです?」
「そうですよね。今日作ってみます。…というかここで作っていって良いですか?」
「ええ、勿論」
のまだ料理をしていないという言葉に沖矢は苦笑した。やっぱり、そうだよね。そう思って、今夜の夕食はが作ることにした。安室を越えるような腕前ではなくても、が作ったことで少しは安室も喜んでくれるかもしれないと。幸い、彼は今日依頼で出かけていて少し遅くなると言っていたからが夕食を作って待っていたら丁度良いだろう。
「じゃあ沖矢さん、肉じゃが教えてください!あれ、すごく美味しかったんです」
「ええ、じゃあ後で買い出しに行きましょうか」

 沖矢の車に乗って近くのスーパーにやって来た。買う物は玉ねぎ・じゃがいも・牛薄切り肉・にんじんである。が籠を取ろうとした所、沖矢が自然に籠を持ったのでは素直にそれに甘えることにした。安室もこういうことをさり気なくやるけど、本当に紳士的な男性が多いんだなとは驚く。たまたまそういうことが出来る人物が身近にいただけで、世の中にはそういうことをしない人もいるということに気が付かないまま、日本には紳士が沢山いるのだ、とは勘違いした。
「美味しいじゃがいもは硬くて緑がかっていないものですよ」
「へぇ〜、じゃあこれとか?」
「そうですね」
沖矢がじゃがいものコーナーで美味しいじゃがいもの見分け方を教えてくれるのでは頷いて頭にその情報を入れた。確かに安室もこういうじゃがいもを選んでいた気がする。2人とも美味しい野菜の見分け方を知って買い物をするんだから凄いなぁ。ゴロゴロとしたじゃがいもを何個がまとめて籠に入れていく。
玉ねぎや人参でも同じように見分け方を教えてくれた彼に勉強になったとは感謝した。きっと一人だったら、美味しくない野菜を買っていたかもしれない。
安室と同じように予め買うと決めた物以外には目もくれない沖矢との買い物はすぐに終わった。勿論お金はが出している。それくらいしないと沖矢に申し訳ないから。彼は出しますよと言ってくれたけど、流石に安室と食べる夕食の代金を彼に払ってもらうのはおかしいと思って。
良し、これから工藤家に戻って肉じゃがを作るのだ。は気合を入れた。

 工藤家に戻ってきて早々手を洗い肉じゃがを作る。沖矢が言う通りにじゃがいもや他の野菜を切っていく。角を取らないと煮込んでいる間に煮崩れるということでは包丁をぷるぷる震わせながらじゃがいもの角を取り除いた。こういうひと手間が料理の美味しさに繋がるのだから料理とは大変である。いつも安室が美味しい料理を作ってくれていることを改めて感謝した。
「そろそろ出し汁と酒・砂糖を加えましょうか」
「はい。これくらいですか?」
「そうですね」
牛肉を炒めた後に野菜を投入して軽く炒めた所に、調味料を入れる。量は沖矢がいつも作っている量に合わせて加えた。ふわあと香る酒の良い匂いには先程昼食を食べたばかりなのに食べたくなってしまう。安室さんの為に作っているんだから我慢。
その後も他の調味料も加えて落し蓋で煮込んで肉じゃがは出来上がりだ。クシャクシャにしたアルミホイルを落としぶたにしたおかげでアク取りが簡単に出来て驚いた。
「後は冷やして味を染み込ませて完成です」
「ありがとうございました、沖矢さん」
ほかほかと湯気を上げている鍋を冷水に浸して冷やしにかかる。にっこり笑って味見をした彼が「美味しいですよ」と合格を出してくれたのでも嬉しくなった。これで安室さんを吃驚させることが出来る。
時刻は良い感じに進んでいた。丁度5時半を指している時計に、「じゃあそろそろ帰りますね」とは冷やした肉じゃがをタッパーに詰める。その際、肉じゃがを教えてくれた彼にお礼として3分の1の量を分けた。授業料と思ってくれれば良いんだけど。
「肉じゃがありがとうございます。汁が漏れないように気を付けてくださいね」
「あ、はい。蓋ちゃんと閉めておきます」
律儀にもお礼を言う彼にいつもお世話になっていますからとは微笑んで工藤家を出た。一人で作ったわけではないけれど、この肉じゃがを食べて安室が喜んでくれますようにと思いながら帰路に着く。見上げた空は綺麗な茜色だった。


 今回、安室に舞い込んだ依頼は夫の浮気調査。最近では、を助手として働かせることが少なくなった安室はほんの少しの疲労を覚えていた。傍で笑ってくれる存在がいるのといないのでは疲れ具合も変わってくるらしい。だが彼女が絵を描いて金を稼ぐことが出来ているならそちらの方が安心できる。彼女は女性だし探偵の助手として働いていたら何かの事件に巻き込まれる心配もあるから。
カシャ、と依頼人の夫がある女性と会う場面を写真で数枚撮る。現場を押さえる為に何度も依頼人の夫を尾行して証拠を集めていたが、妻が思っていた通り彼は浮気をしていた。それも彼女の友人の女性と。掴んだ証拠に満足するが、これを依頼人に伝えればきっと放心した後に泣くのだろうと思うとやや面倒な気持ちになる。
だが一先ず、今日やるべきことは終わったので家に帰ることにした。
『遅くなってごめん、今から帰るよ』
『ご飯用意して待ってますね』
彼女にメールを打ちながら駐車場へと向かった。浮気調査にしては早い帰りだが、21時を過ぎていた為は先に夕食を食べていただろう。ふと、窓から夜空を見上げてみたら、一つだけ光る星が見えた。この都会の中でも輝きを見失わないそれに、暫し見とれる。
返って来たメールに昼間に作っておいた料理のことだろうなと思いながら愛車に乗り込む。自分が作っておいた物でも帰ってすぐに食べられる温かい夕食があるのはありがたい。調査現場からマンションまでは30分程かかるが、安室はその距離を少し急いだ。お腹が空いていたというのが強いけれど、早く家に帰りたくて。
、ただいま」
「おかえりなさい、安室さん」
玄関をガチャリと開けて靴を脱いでシャツの首元のボタンを外して息を吐いた。これでネクタイがあったら完全にサラリーマンの帰りだっただろう。一度リビングに顔を出してに帰ってきたことを伝えて手を洗いに行く。その際香った匂いに「ん?」と首を傾げた。昼間作った料理とは何だか違う匂いだったから。疑問を感じながらも手を洗いラフな服装に着替えてリビングに赴けば、テーブルの上には肉じゃがと他の献立が並んでいた。
「あれ?僕、肉じゃがなんて作ってなかっただろ?」
「はい。えっと、私が作りました」
どことなくそわそわしている様子のに問いかければ思わぬ言葉が返ってきた。がこの肉じゃがを作った、だって?椅子に座って思わずまじまじとその肉じゃがを見つめてしまった。今まで料理をしてこなかったが作ったとは思えないような一品である。
ジャガイモの角まで綺麗に取ってあることに驚いて彼女を見やれば、冷めちゃうから早く食べてくださいよと急かされる。それもそうかと思って、一先ず遅くなった夕食を取ることにした。
「いただきます」
「ど、どうぞ」
先程以上にそわそわして安室をちらちらと見つめるに、安室は迷わず味が染み込んでいそうなじゃがいもに箸を伸ばした。醤油とみりんや調味料が程よく混ざった良い香りが鼻腔を擽る。ぱくりと食べればほっこりとじゃがいもが口の中でとけた。薄すぎず濃すぎない甘い醤油の味がじゃがいもに染み込んでいる。緊張しているのか唇をぎゅっと結んでいる彼女に、安室は心中で「ああ…」と呟いた。
――僕の為に作ってくれたのか。
その事実に胸の内側が暖かくなる。健気で、いじらしいの行動に口元が自然と綻んだ。
「美味しいよ。頑張ったね」
「あ、ありがとうございます」
不安と期待で押し潰されそうな彼女を安心させるようにそう言えば、彼女は林檎のように頬を赤くした。どうやら安室の言葉が相当嬉しかったらしい。きょどきょどと忙しなく動く彼女の瞳を見て安室は笑った。
――本当に美味しい。
すきっ腹は最高のスパイスだと言うけれど、きっと美味しいと思えるのはが作ってくれたからだ。一口食べる度に美味しいと口にすれば、彼女は安室が肉じゃがを食べ終える頃には可哀想なくらいに顔を赤くしていた。それを見て、内心笑う。
――でも、知っているだろ?
これはいつもがやっていること。安室が作る料理を毎食笑顔で美味しいと何度も言ってくれる彼女。安室はそれをただ真似してみただけ。きっと、考えもしなかったのだろう。その「美味しい」という言葉がどれだけ料理を作った人間にとって嬉しい言葉なのかということを。
安室はいつもからそんな気持ちを貰っていたのだ。時々、全く料理をしないに少しは手伝ってほしいとは思いながらも、彼女が「美味しい、美味しい」と幸せそうに食べるから仕方ないなぁなんて絆されて結局また作ってしまう。それくらいこの言葉には威力があるのだ。「安室さんが作ったあれが好き。これが好き」そう逐一報告してくれるは漸くこの魔法の言葉の効果を分かってくれただろうか。
しかし飴ばかりを与える安室ではない。でも、と言葉を出せば彼女は途端に緊張が増したようだった。
「僕は白滝が入ってる方が好きだな。あと味付けは甘いのよりしょっぱい方が良い」
「は、はい」
真面目に安室の言葉を受け取っている彼女に小さく笑った。本当には素直だな。安室が本当に言いたいことはそんなことではないのに。
そんな味付けを教えたのはどこのどいつだ?と彼女を見ればぱちくりと目を瞬かせる。バレないとでも思っていたのだろうか。彼女が一人でこんな料理を作れないことなんて安室が一番知っているというのに。
「沖矢さんに教えてもらいました」
「ああ、あいつか」
想像していた通り、の答えた人物に安室は内心眉を寄せた。彼が料理を嗜むとは知らなかったが、にこれだけの料理を教えていたのだからそれなりに腕は良さそうだ。美味しいと思ったのは事実だし。だが、あの男は気にくわない。
「あの男に教わるからいけないんだよ。今度からは僕が教えるから」
「私はただ安室さんを吃驚させたかっただけで…はい、お願いします」
沖矢を貶める発言に多少むっとしただったが、彼女は最終的に安室の言葉に頷いた。安室としては料理を教えるというよりは手伝わせる気満々だったのだが、どちらにせよ同じようなことだろう。とにかく、彼女がこれ以上沖矢から料理を教わらなければそれで良い。
「これからは一緒に作ろう。その方が僕も楽しい」
「はい。頑張ってもっと上手になります」
笑っての頭を撫でれば、彼女は照れた笑みを浮かべた。


57:目印は名も知らぬ星でよかった
2015/08/21
タイトル:モス

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