好き。好きで仕方ない。最近、どんどん安室への想いが膨らんでいって胸が苦しくなる。それはきっと、数日前に彼に抱きしめられて寝ていたから。何か理由があったからそうなったのだとは分かっている。だけどは彼に恋をしているから、そうだと分かっていても心は激しく揺さぶられるのだ。
この言葉を彼に伝えて、少しでも胸を軽く出来たらどれだけ良いだろうか。ちらり、と小説を読んでいる彼に視線を向けるけど、彼に気付かれる前にそっと元の場所に戻す。彼のことが好きだと分かった時のように、彼と目を合わすだけで恥ずかしくてどきどきして逃げ出したくなってしまうのだから重傷だ。
――どうしたら安室さんは私を好きになってくれるんだろう。
そう思った所にのスマートフォンがメロディを流して震えた。どうやらメールが来たらしい。誰だろう。差出人を確認してみれば、それは優作だった。
君、絵を描いていて悩むことがあったら、紹介したい人がいるんだがどうだろうか。彼女は東都美術大学の教授だから君に色んなことを教えてくれるだろう。』
英語で書かれているその内容を読んで、はその人物に興味が湧いた。特に絵について悩んでいるわけではないけれど、美術をずっと研究してきた人の話を聞くのはとても勉強になると思って。がこれからも絵を描き続けていくなら損はしない筈だろうし。
『はい、ぜひよろしくお願いします。』
すぐに優作に返事をすれば、彼はアポを取って行くようにというアドバイスと共に彼女の連絡先を教えてくれた。
――竹島京子教授か。彼女の名前を見つめて、は彼女に会いに行くことを決めた。


 優作が紹介してくれた京子に会いに行く当日、は今までに描いた絵をスマートフォンで写真を撮っておいた。彼女に絵を見せてと言われるかもしれないから。昼を過ぎた頃、は準備を終えた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。礼儀正しくね」
「はい」
玄関で安室から手土産を渡されたはそれを持って家を出た。大学の教授と一対一で話すことにやや緊張しながらも目的地に向かう為に電車に一人で乗る。それだけでもう心臓がばくばくしていたけれど、安室を頼ってばっかりではいけないと思った故の行動だった。
安室に教えられた通りに東都環状線に乗り換える。電車の窓から見える、次々に移り変わっていく東京の景色にどきどきと胸は高鳴るばかり。
『××駅〜、××駅〜』
電車のアナウンスが聞こえてはその駅で降りた。人の流れに若干流されながらも、東口はどこだろうかと天井から下がっている案内を見る。
あっちか。東という漢字とその下にある英語表記に安心して、は東口へと足を進めた。
東口から徒歩2分の所にあるらしいキャンパス。地図と実際の土地をきょろきょろ眺めながら歩いた。そう時間が経たないうちに目的の東都美術大学に到着するが、ここからは教授の部屋を探さなくてはいけない。
彼女の研究室は6号館の634号室らしい。6号館がどこにあるのかとキャンパス内にある地図を見て、現在地からそんなに離れていないことを確認してはその場所へと向かった。
 こんこん、と京子の部屋をノックすればどうぞと返事が聞こえた。失礼しますと声をかけて中に入る。革張りの椅子に座ってパソコンに向かっていた白髪混じりの黒髪の女性は、パソコンから目を離し眼鏡の奥からのことを見つめた。老いと共に培われた英知が窺える、鋭い眼差しには背筋がぴんと伸びる。しかし、彼女はすぐさま微笑んだ。
「いらっしゃい、あなたが優作君が言っていたさんね」
「は、はい。今日は貴重な時間をいただいてありがとうございます」
彼女の前まで近づいてぺこりと頭を下げる。その際に手土産の菓子折りも渡しておいた。優作君の紹介だったらこんな物いらないのに、と言った彼女だったが丁度お茶の時間だし一緒に食べましょうかとが持ってきた菓子折りを早速開けることにしたらしい。
和やかな雰囲気にほっとして、は勧められた来客用のソファに腰を下ろす。大学の教授とは堅苦しくて厳しい人ばかりだと勝手に思い込んでいたからほっと安心した。
「優作君が言ってた絵を見せてもらっても良いかしら?」
「はい。どうぞ、これです」
テーブルの上に置かれたお茶とクッキーに礼を言っては彼女にスマートフォンを渡した。先程までの柔和な笑みを消してなるほどと呟いての絵を眺める彼女にきゅっと胃が締め付けられる。彼女は絵画学科油画専攻の教授であるらしいから専門的な視点で見ているのだろう。
全ての絵を見終えた様子の彼女はクッキーを一枚食べてからを見やった。
さん、今までに何かコンクールに作品を出したことはある?」
「いえ、特にないです」
先程と眼差しが変わった彼女に嫌な意味でどきどきしながらは答えた。自分の世界にいた時はただ好きな時に絵を描いていただけだし、この世界に来てから絵を描き始めたのは最近のことだ。コンクールがあったこと自体初めて知ったことだしはそういった公的なものに参加したことはない。もしかして、コンクールに作品を出さなくてはいけなかったりするのだろうか。
そう、と頷いた彼女に内心冷や汗たらたらのは気を落ち着かせる為にお茶を一口飲んだ。
「これからどうやって活動していこうとお考えなの?」
「今と同じように時間がある時に絵を描いて工藤さんに買ってもらえたらそれで…」
眼鏡越しに見つめる彼女に、ぼんやりとした未来設計図を口にする。その瞬間彼女の眉がぎゅっと寄ったのを見ては拙い答え方をしてしまったのだと気が付いた。思った通り、次の瞬間には京子は声を荒げる。
「あなた、舐めてるんじゃないの?それだけの力がありながら、どうして世界に出て行こうと考えないのよ!」
「そ、それは…」
パースは狂ってるし技術もまだまだだが、人を惹きこむ魅力がある。そう言った彼女に喜べば良いのか、彼女の剣幕に委縮すれば良いのか分からなくなる。けれどやはり怖いものは怖い。ギッとを睨み付けた彼女はの甘ったれた考えに腹を立てているらしかった。美術史は知っているのかとか美術市場の現状、販売のための発表手段、展覧会をする時のPRの仕方等を矢継ぎ早に訊いてくる彼女に、は一つも答えられなかった。
「あなた、視野が狭いだけじゃなくてそんなことも知らないで画家として優作君に絵を買ってもらっていたの…」
「すみません……」
はあ、と呆れて溜息を吐いた彼女は頭が痛いのか額を抑えている。あまりにも世間知らずじゃないの?そう呟く彼女には何も言えなかった。実際にそうだと思ったから。はいつも安室に守られて暮らしていて、彼の知識に甘えてばかりだった。基礎的な知識は身に付いて来たが、公的な教育を受けられるのは小学校だけだから京子のような大人からしてみたらは何も知らない子供と変わらないのだろう。
「一つしか知らない方法を選ぶしかないのと、数ある選択肢の中から一つ選ぶのでは訳が違うのよ」
「はい……」
ごくごく、とお茶を飲んだ彼女に見据えられては頷いた。しかし彼女が言っている内容は分かるのだが、今この状況にどう当てはまっているのか分からなくて内心首を傾げる。いったいこの言葉はどういう意味としてに投げられたのだろうか。
「……これから週に一度私のもとにいらっしゃい」
「えっ?」
「だから、週一でさんに画家として歩む為の方法を教えると言っているの」
折角優作に紹介してもらったのに、のせいで彼女にはがっかりさせてしまった。きっと優作の顔にも泥を塗ってしまっただろう。そう思っていたに、彼女の言葉は一瞬理解出来なかった。しかしそんなの為に分かりやすく噛み砕いて説明してくれた彼女に、は目を瞬かせる。
つまり、彼女はに失望したわけではないのだろうか。
「あ、ありがとうございます…!」
「優作君が紹介してくれたからよ…。それに、あなたが成長した所を見てみたいから」
驚きと安堵に彼女に頭を下げる。本来であれば教授の地位にいる彼女に教えを乞うのだから授業料が必要な筈だったが、優作からの紹介ということや彼女の厚意から無償で彼女から色んなことを教えてもらえることになった。
先程までの厳しい様子を無くし、再び微笑んでいる彼女には漸くほっとする。
「きちんと学んだ上でどういう選択肢を取るか考えなさい」
「はい、竹島先生」
初対面のにここまで色々考えてくれた彼女には感謝した。普通なら甘ったれたを見てさっさと追い返すくらいだろうが、彼女は態々の考えの甘さを指摘して怒ってくれたから。これから師となる彼女の期待に応えられるようにしっかり学んでいこう、とは考えた。


 竹島の話を聞いて充実した時間を過ごしただったが、前半の彼女に大いに精神的疲労を覚えたことでぐったりとして家に帰って来た。だが、安室に喜ばしい報告が出来ることには変わりない。
「ただいま…」
「おかえり。疲れた?」
行きと違って若干疲れた様子のを見て、彼は小さく笑った。今お茶淹れるから先に手を洗っておいでという彼に頷いては洗面所に向かう。手を洗ったついでに服も家用のラフな物に着替えてリビングに入った。
はい、と渡してくれたのマグカップに礼を言って口を付ける。温かなほうじ茶はをほっとさせた。
「教授との話はどうだった?」
「勉強になりました」
隣に座った安室には京子に話してもらった知識をいくつか彼に伝えた。博識な彼なら知っていてもおかしくはないだろうが、にとっては全てが新しくて珍しい。小学校で歴史を習うことはあっても、美術史なんてものは習わないから。が知らない画家が今までに沢山活躍してきたことを少し知って、今度はその画家の画集を見てみたいと思ったことや、パトロンとは芸術家たちにとってどういう存在であったのかということ。そんなことを一気に話せば、彼はそっかと微笑んだ。
「あと竹島先生がこれから私に色々教えてくれることになったんです」
「良かったじゃないか。しっかり学んでおいで」
そして一番安室に伝えたかったことを伝えれば、彼はおめでとうと言ってくれた。きっと、大学に興味を持っていたのことを覚えていてくれたのだろう。京子に教授してもらうだけで大学に通うわけではないが、彼女が与えてくれる知識は大学生かそれ以上のものだ。だからはこれからが楽しみだった。


55:遊びではないぞ、これは恋だ
2015/08/19
タイトル:モス

inserted by FC2 system