てくてくといつものように工藤家から家に帰る道を歩く。安室が昨日言ってくれたように、前日まで感じていた視線も気配も感じない。やっぱり彼が言う通りただの愉快犯だったのか、と安心すると同時にあそこまで怯えていた自分が馬鹿だと思った。きっとが怖がる様子は愉快犯を楽しませていただけなのだろうと。
今度そんなことになってももう怖がってなんかやらないんだから。そう思いながらふんと鼻を鳴らす。安室の時間を邪魔してしまったかもしれないし、海賊の娘のくせにこんなことで怯えていたことに恥ずかしさも感じていた。
「ちょっと、ここがどこだか分からないのよ…」
ねえ、迎えに来てよ。少し先の路地裏から、何かに困っている様子の女性の声が聞こえた。何かあったのだろうか。ひょこり、とその路地を覗きこめば携帯に向かって困った様子で話しかけている茶髪の女性が立っていた。
彼女は最初は電話に気を取られていたようだが、に気が付いたのか「あ、」と声を上げ電話の相手に少ししてからかけ直すことを述べて「すみません」とに声をかけた。
困っている女性を放って帰る程は非情でもないので、彼女に呼ばれたことに素直に返事をして彼女のもとに向った。
「ごめんなさい、私帝丹小学校に行きたかったんだけど、初めて来るから道が分からなくて…」
「ああ、帝丹小学校でしたらここからそう遠くないですよ」
困った様子で地図を取り出した彼女はきちんと地図を見て来たのに迷ってしまったらしい。と違って方向音痴の気があるらしい彼女に確かにこの住宅地に迷い込んでしまったら小学校に向かうのは少し難しいかもしれないなぁと頷く。きっと道を教えたとしてもまた彼女は迷ってしまいそうなので、は「あの…」と彼女に親切心から提案してみた。
「良ければ小学校まで案内しましょうか?」
「あら、良いの?助かるわ…、でも、時間は大丈夫?」
彼女はその提案に表情を明るくしたけれど次いで腕時計を見てを窺った。もうすぐ夕方になるからだろう。あまり暗くなってから外を歩かせるのは良くないと考えてくれたのかもしれない。そんな彼女にはいと頷いて速く行けば大丈夫ですからと笑った。
じゃあ行きましょうかと路地裏から出ようと彼女に背を向けた所、腕を引っ張られ口と鼻元に濡れたハンカチを押し付けられた。
「駄目じゃない、もうすぐ夜になるのに…」
彼女の腕を押しのけようとするよりも前に、ハンカチにくっ付いていた固形物を飲み込んでしまった瞬間、の意識は途絶えた。


 子兎を狩る準備を着々と進めていた。金髪に青い瞳を持った美女、ベルモットは彼女だと知られないように変装をしつつ暫くの行動を把握する為に彼女を付け回していた。だが、予想外に彼女は気配に鋭いらしい。足音や気配を消しても、彼女はそれを感じ取ってどこらへんにベルモットがいるか察知してしまう。そのおかげで彼女は何度もの追跡を諦めて周囲の人間に紛れ込んで立ち去ることが多かった。
しかし、裏を返せば彼女はコソコソしている人物には気付くものの堂々と通りを歩いている人間には意識を向けていないということだ。他の者と違う行動をするから気付かれる。それなら、堂々と彼女に接触すれば良い話。
だからどこにでもいそうな茶髪の女に変装して、路地裏で彼女を待ち受けていた。
ずっと気になっていたのだ。あの時、ベルモットの麻酔弾を弾き返した彼女の身体がいったいどういう仕組になっているのかということに。バーボンが赤井に集中しろと言ってきたり、常に彼女の傍にいる為中々接触する機会が無かったが、とうとう赤井の件も終わったことでベルモットは自由に動けるようになった。
これを活用しない手はないだろう。
思惑通り、素直な彼女はベルモットの呼びかけにのこのこと路地裏に入ってきた。馬鹿な子。こんな人目に付かない所に簡単に入って来てしまうなんて。
「駄目じゃない、もうすぐ夜になるのに…」
そう思いながらも、彼女を騙すことに成功したベルモットは水で濡らしたハンカチを彼女の鼻と口に押し付けた。ハンカチには5MeO-DMTという薬を乗せていたが彼女はそれをきちんと飲んだようだ。彼女の携帯には催眠ガスを出せる仕掛けになっているけれど、それがに効くかどうか分からなかった為、この薬を使った。気絶させる以外の具体的な効果はあまり気にしていなかったけれど、麻酔弾を弾き返した程の肉体の持ち主だから強力にしておいた方が効き目は良さそうだろうと思って。
案の定、すぐに彼女は意識を手放してぐったりとベルモットの腕の中で身体を預けている。
――本当にいけない子ね。
ベルモットなんかにかまうから、こんな目に遭ってしまうのに。態々変装をして彼女に接触した自分が言うのも何だけど。
「さて、バイクに…」
「おばさん、お姉さんに何してるの?」
このまま彼女を連れ去ってしまおうとしていた所、ベルモットの鼓膜を揺らしたのは聞き覚えがある小学生の子供の声。
――シルバーブレット…!
路地裏の入口には困惑した様子から徐々に警戒心を剥き出しにしている彼と睨み付けてくる子供の姿のシェリー。変装している為ベルモットであることは知られていないようだったが、彼女が抱えているのは彼らと関係があるの身体。ここで訝しがらない方がおかしいだろう。
「その人を放してもらおうか…!」
「あら、危ないじゃない、ボウヤ」
キック力増強シューズでサッカーボールを思い切りベルモットに蹴った彼だったが、瞬時にサイレンサーでそれを撃ち抜き破裂させた。それに目を見開くコナンたち。だが、ベルモットは薄く笑っての身体を地面に下ろした。シェリーは別に構わないけれど、彼を傷付けるのは不本意だしそこまでして彼女を連れ去る動機はない。
――今回はこの子の運が良かったのね。
睨み付けてくるコナンとベルモットを見て急に目を見開き呼吸を忙しなくさせているシェリーをちらりと見た後、ベルモットはひらりと飛び上がって塀の上を越えて隣家に着地した。
「おい、待て!!」
「――ちょっと、今は彼女を起こす方が先じゃないの!?」
塀越しに2人がその場から動けない様子に笑って、ベルモットはバイクが置いてある所まで駆けた。その最中に先程変装していた女のマスクは剥ぎ取って元の姿へと戻り何事も無かったかのように歩いてバイクに跨る。
――今度は2人きりで楽しみたいわね。
ヘルメットをしてエンジンをかけ、ベルモットは自分が滞在しているホテルに向かって走り出した。


 灰原と共に阿笠邸に向かう途中だったコナンは路地裏で知らない中年の女に意識を失わされたを発見して驚いた。どうやら彼女はその女に連れ攫われようとしていた所らしい。
――あの女の人…どこかで、会ったことがある気がする。
どことなく中年の女には思えないような怪しい雰囲気をその女から感じたが、今はを介抱する方が先だろう。何故か何かに怯えている灰原のことも気になるが、それは後でゆっくり聞けば良い。
「もしもし昴さん?今すぐに来てくれない?工藤家からそんなに離れてない所なんだけど…」
『どうしました?別にかまいませんが…』
さんが意識を失ってて…、連れ攫われそうだったんだ」
携帯を取り出して頼りになる大人である沖矢に電話をかければそれなりに事情を把握してくれた彼はすぐ向かいますと言ってコナンがいる場所を再度確認した。彼らが来るまでの間に、が何によって気絶させられたのか調べることにする。ぐったりとしている彼女の脈拍を計って正常であることを確かめながらも、彼女の顔に鼻を近づける。そうすれば、科学的な匂いが鼻をついた。その匂いから大方彼女が薬物か何かを飲まされたのだろうと予測はついた。
「コナンくん!さんは…?」
「ここだよ、昴さん」
駆けつけてきてくれた沖矢は地面に倒れているを見て眉を寄せた。彼女を攫おうとしていた人物については家に着いてから聞こう、と彼が言うのでコナンはそれに頷く。軽々と彼女の身体を抱えた彼に、ほっと一息吐いた。コナンたちだけでは彼女を運ぶなんてことは絶対に出来なかったから。
 工藤家ではなく阿笠邸に上がり込んだコナンたちはの状態を見守っていたが、彼女は途中から何かに魘され始めた。悪夢か何かを見ているのだろうか。その上、寝たまま嘔吐した彼女にあの中年の女が相当強力な薬を飲ませたことが判明した。きっと気絶させる以外の効果も含まれている薬だったのだろう。
「し――コナンくんと昴くん!洗面所から洗面器とアルコール消毒液と雑巾、ゴム手袋を持って来とくれ!」
「分かりました」
「ああっ」
「哀くんはくんが上を向かないように横向きに支えといてくれ」
「ええ」
阿笠が彼女の様態を確認して、この薬の効果を推測している間にコナンたちは彼に指示された通りに彼女を介抱する為に動く。灰原の方が薬には詳しい筈だが、沖矢の前でそんなことを出来る筈もないので、応急処置しか出来ないが。床を汚した嘔吐物を処理してアルコール消毒をする。コナンは顔色悪く魘されている彼女の口元をタオルで拭いてやり、なるべく楽な体制にする為に頭の下にクッションを敷いた。
一旦は様子を見守ることにしていた彼らだったが、もしもう一度嘔吐したりこれ以上酷くなるようであったら医者に診せる気でいた。彼女が科学的に証明できない身体をしていたとしても仕方がない。こんな非常事態にそんなことを言っている場合ではないだろう。
だが、コナンたちが案じる一方で彼女はそれ以上酷い状態にはならないようだった。徐々に落ち着いてきた彼女に、ほっと胸を撫で下ろす。
一先ず山場は越した雰囲気に、今まで黙っていた灰原がコナンの名を呼んで沖矢たちから少し離れた所に移動した。彼女の様子はどことなく黒の組織と対峙した時のそれと同じ様子でコナンは瞳を鋭くする。
「どうした?」
「さっきのあの女……一瞬だけしたのよ」
コナンの問いかけにごくりと生唾を飲み込んだ彼女が囁くような声で言葉を紡ぐ。組織の人間の気配がした。そう言う彼女にコナンは目を見開いた。本当かよと彼女に詰め寄れば、ええと彼女は動揺した様子で頷く。それに彼は先程の女を思い出していた。中年の女とは思えないような不思議な雰囲気を放っていた彼女。身体能力もそれなりに高い様子で灰原が怯えていた。今の彼女の言葉と当時の様子から考えてみて辿り着いた女の姿に、彼は目を見開いた。
「まさか、ベルモットか……?」
「………」
彼の言葉に灰原は目を見開いて瞳を揺らした。それに次々に推測を立てていく。仮にを攫おうとしていた女がベルモットだったとして、どうして彼女はベルモットに狙われなくてはいけなかったのだろうか。しかし、その思考を遮るように沖矢から声をかけられて、コナンは彼を振り返った。
「とにかく、あの男が彼女を心配しているのは確かでしょう」
「うん、そうだよね」
先程から何度も鳴っている彼女のスマートフォン。それはきっと安室からのものだろう。沖矢の言葉に頷いて、コナンは毛利事務所に電話をかけることにした。


 おかしい。いつもだったら日が落ちる前にはは帰ってくるのに、今日は日が落ちて一時間経っても帰ってこない。何かあったのだろうか。連絡がつかない彼女にざわざわと胸騒ぎがする。そう思って彼女に電話をかけるけれど、無機質なコール音が続いた末に留守番サービスに繋がるだけ。それが一度だけなら何か用があって出られなかったのだろう、と安室も思えた。しかし彼女に電話をかけ始めてから一時間。外は暗闇になり、いつも彼女と夕食を食べる時間を過ぎている。GPSで彼女の場所を特定しようにもスマートフォンの電源が途中から落ちているのか、彼女の位置情報が掴めない。
「………、」
昼間に後藤は納得させたから彼が彼女に何かをしたわけではないことは分かる。ではそれ以外で何かが彼女の身に起きたということだ。もしかして、ベルモットだろうか。彼女が何かをしたのであれば今すぐにでも彼女に問いただしたいところだが、もし何もしていなかった場合を考えると連絡しにくい。一先ず鍵とサイフ、必要最低限の物を持って家を出た。
駐車場に急いで車に乗り込んだ。キーを差し込んでエンジンをかける。
――どこにいる、
工藤家に行っていたことは間違いないので彼女がいつも通る道に近い場所を車で通る。しかし、彼女の姿は見つからない。工藤家に着いてみても工藤家も阿笠邸も電気が付いていなくて人がいるようには思えない。電気さえ付いていたら沖矢に彼女のことを訊ねようと思っていたのだが、それさえもできないようだ。
「チッ」
舌打ちをし、ぐっとハンドルを握りしめアクセルを踏む。しかしそこに着信音が響いた。からか、そう思って相手を見ればそれはではなく小五郎からだった。何で今彼から電話なんて。そう思ったが車を止めて出ることにする。
「もしもし、毛利先生ですか?」
『おい、安室。今ちゃんをうちで寝かせてるからすぐに来い!』
「えっ」
しかし、彼の少し焦った様子で放たれた言葉はに関するもので安室は目を見開いた。が道端で倒れていた所をコナンが発見した以外の状況は全く把握できなかったが、一先ず彼に頷いて電話を切る。ただ一刻も早く毛利探偵事務所に行く為に。
――守ると誓ったのに…。
この身の内を焼き焦がす後悔にぐっと奥歯を噛み締める。あの時の約束を自分は果たせていないではないか。ほとほと自分が嫌になる。彼女は助けを求めたのだろうか。誰かに危害を加えられそうになった時に安室を思い浮かべたのだろうか。
常よりやや乱暴な運転で探偵事務所まで走る。通常なら電気が消えている筈の探偵事務所から電気が漏れているのを確認した安室は駐車場に止める余裕もなく、そのまま路上に止めた。緊急事態だ、警察が来ないことを祈ろう。
事務所に繋がる階段を足早に上り、ノックもなしに事務所の扉を開いた。
は…!!」
「ここだよ」
ノックすることすら忘れた安室に小五郎は何も言わずに、ソファで意識を失っている彼女を指差した。傍では蘭が心配そうに彼女を見下ろしており、コナンが鋭い目付きで安室を見上げている。
安室は小五郎に何があったのかと訊ねながらの安否を確認した。ぐったりした様子で顔色悪く、冷や汗をかいている。
「コナンが言うには、中年の女がちゃんに何かを嗅がせたか飲ませたかで気を失わせた所を拉致しようとしていたらしい。近所の人間に頼ろうにも丁度出かけていたらしくて、俺がここまで運んできたんだ」
「そうですか……毛利先生、ありがとうございます」
当時の状況を教えてくれる小五郎に安室は頷いた。症状としては気を失っている間に魘されていたことや、嘔吐も挙げられる。強力な薬を飲まされたのだろう、と言う彼に医者に連れていくことを決めた。
それと同時に脳裏に心当たりがる人物が浮かんだ。やはり、あの女が仕掛けたか。
「コナンくん、を助けてくれてありがとう」
「うん、ボクを見たら犯人は逃げて行ったから何もしてないけどね」
を抱きかかえ、これから医者に診せに行くことを彼らに伝えてからコナンを見下ろす。彼が何かを言っていないのは分かっていたから。小五郎の言葉は嘘ではないが、彼女が外で嘔吐したならその跡が残っている筈だったがそんなものは見なかった。ということは誰かが一度彼女を室内で介抱したことになる。だが、それを詮索するのはやめておこう。今の優先順位は彼女の身体を蝕む薬を判明させて治癒することだ。
「安室の兄ちゃん…大切なら、ちゃんと守らないと駄目だよ…」
「ああ、そうだね…」
手が塞がっている安室に代わって扉を開けてくれたコナンの、小五郎たちに聞こえない程度の声音で安室に放った言葉は安室の心を重苦しくさせた。
――大切なら、守らなくてはいけない。
そんなこと分かっている。彼に言われなくても、自分が一番。階段を下りていく中、肩に乗っているの頭を見下ろして眉を寄せた。


53:わたしの全てを掛けておまえを求めているよ
2015/08/19
タイトル:モス
5MeO-DMT:ドラッグ。効果は一部創作。

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